眠らなければ、と思うのに。
 焦燥が鼓動を早めて、ますます目が冴える。こうして横たわり、目を閉じて、一体何時間たったのか。ロイには判然としない。瞼の裏がチカチカと瞬いて、何かが酷く圧迫しているような感覚に苛立ち双眸を見開く。黒い天井の染みが何かに見えてきて、それがなおさら腹立たしかった。
 いつもの自分ならば激務を終えて自宅にかえれば、シャワーを浴びてワインを一本あおれば、それこそ引きずりこまれるように意識を失うことが出来るのに。たまにこうして顔をだす不眠は、ロイにしがみついて離れようとしない。ようやく眠れそうだと思えば朝が来て、全身に倦怠感と頭を麻痺させるようなしびれをこびりつかせるのだ。体は疲労困憊しているというのに、一睡も出来ないこの苦痛はおよそ口では言い表せまい。
 ベッドを出て、寝室をあとにする。アルコールの力を借りるしかあるまい。時計はもはや四時を回っている。あと、三時間もすれば支度をしなければならない。少しでも寝ておかねば、一日とてももつとは思えなかった。有能な副官は「体調管理も仕事のうちです。不眠を言い訳に仕事をおろそかになさっては下のものに示しがつきません」とか何とかおっしゃられるに違いない。正論である。それだけに辛い。テーブルの上に無造作に放られていたワインの瓶を一本掴む。確か地方を視察した折の贈答品だったはずだ。どーたらこーたら講釈をたれながら恩着せがましく押し付けられた。値段がいくらだろうが知ったことか。クソ喰らえ。誰が見ているわけでもなしグラスは必要ないだろうと、栓抜きだけを片手に、寝室に戻る。


「よっ、ダーリン」
 
 
 不覚にも、すぐには反応できずにロイは沈黙してワインを取り落としそうになる。
「あのな・・・・・」
「玄関から入って来い?やだよ、こんな時間に」
「こんな時間だからこそだろうが!錬金術を安易に使うんじゃない!変なところに変な意匠の扉を作るのはやめてくれないか。子供達が昼間探検に入り込んで困る」
 寝室を出る前には確かになかったはずの、悪趣味な獅子の意匠の鉄の扉をベッドの後ろに見つけてロイはため息をつく。
 右手をひらひらとはためかせて、子供は意地悪そうに笑った。口の端を持ち上げて、小さなドッキリが成功したことに機嫌よさそうに、子猫のようにベッドの上にごろりと寝そべっている。ベッドサイドの明りに照らされたその表情は、幼い。
「寝込みを襲ってやろうと思ったのに」
「・・・・・ドロップキックかチョークスリーパーかそれともかかと落としでか」
「違うだろ、普通恋人が寝込みを襲うつってんだから、もうちょっと期待しろよな」
「そんな期待をさせるような短い付き合いじゃないだろうが。全く。くるなら来るで事前に電話の一本くらい」
「急に会いたくなって」
 虚実の入り混じった、感情の読めない金の双眸が穏かなまま、ロイを見上げている。手を差し伸べられて、ロイはため息をつきながら、仕方なく苦笑する。伸ばされた鋼の指先をつかまえて、自分もベッドへ腰を下ろした。
「嘘でも嬉しいよ」
「オレはあんたのそういう過去の手管が見え隠れするような、ひねりのない台詞が大嫌いだけどね」
 繰り返すが久しぶりの逢瀬だというのに、恋人の舌鋒はいつになく冴えている。にっこりと笑ったその顔は悪魔そのものだ。浮気を疑われているんだろうかと、胸のうちを一抹の不安が過ぎる。
「うわ、」
「浮気なんかしてねえよな?してたらぶっ殺すつうかぶっ潰す」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なにを?」
「そうそう、正解」
 正解?なにがだと、恐ろしくなってそれ以上想像することをやめる。追求しても自分に勝ち目がないことは、これまでの経験上充分にわかっていることだ。
「今回の旅は長かったね」
「そうかな。なんか、結構あっという間で。わかんねえな。気がついたらもうこんな時期で」
「空振りだったか」
「あー・・・まあねえ。結構いい線、いってたと思うんだけど。天然モノは養殖よりやっぱ貴重らしい。マジどっか転がってねえかな」
 ぼやきに苦笑して、ロイはその少しこけたような頬をなでる。汗とほこりでべたついた、少し汚れた頬をなでる。長旅で疲れているだろうに。一睡もせずにセントラルを目指し、ついたその足でこの家を訪ねたのかと言葉にしなくてもわかってしまったからだ。言葉に表さないその不器用さと一途さは、どれだけ時間がたとうとも変わらないらしい。疲れを微塵も感じさせないその潔いうつくしい気配。いとおしい気配。
「あと三時間もすれば列車がでるから。そしたらまた出発だ」
「そうか。私もあと三時間もすれば、ハボックが迎えにくるから。駅まで送ってやろうか?」
「いいよ。アルと歩いていく。なあ、それまさか一人で飲む気だったんじゃねえよな?」
 寝そべったままロイの傍らに投げ出されたワインに指を伸ばして、エドワードは不審そうにロイを睨む。あー・・・・と言い訳もうまく出てこずに、ひとまずロイは笑ってみせる。
「アホか、アンタは。オレがぶっ殺す前に死んでみろ」
「・・・・どうなるんだ?」
「悲しくて、オレ泣いちゃう、ダーリン」
 からかい混じりに指先がロイの頬を引っかく。鉄の爪が皮膚にひっかかって、じんと染みた。
「そのダーリンというのをやめたまえ」
 右手でそれを振り払い、憮然とロイは言った。
「あれ、嬉しくねえの」
「これみろ。鳥肌が立ってしょうがない」
 ぽつぽつと逆立った腕の皮膚をみて、エドワードは笑い転げた。明るい、てらいのない健やかな声だ。押し迫るようだった暗闇は今は色を変えて、穏かにあたりを取り巻いている。朝が近いせいかも知れないし、この子供のせいかも知れなかった。あの眼窩を押しつぶすような圧迫は今はなく、しんしんとした夜の気配だけが優しく在る。
「眠れねえの?」
「そうだな。眠れないな。鋼のが添い寝してくれたら寝れたのかもしれないけれど」
 仰向いた、その頑是無い額に唇を下ろす。いつものような抵抗はなく、エドワードは目を閉じることなくそれをじいっと見つめていた。ネコのようだなと思う。息をひそめて、相手の出方を探るような。
「唇冷たい」
「そうかな」
「そうだよ。・・・額が冷たい」
 なぜだろう、ねだるように聞こえたのは、ただの自分の都合なんだろうか。けれど迷う間もなく、ロイはエドワードに覆いかぶさる。子供がよくそうするように、縋るには薄い胸板にしがみついて、押しつぶした。重い、と潰れたような抗議に笑ってしまう。そのままひた、と首筋に唇をあてて、何度かなぞる。怒られるだろうかと思いながら、唇は首筋を辿り、頬を辿り、額を、こめかみを、鼻の先を、唇を、あますことなくなぞっていく。エドワードはただ擽ったそうに首をすくめて、されるがままだ。
「どうして君がここへ来たのか、知っているよ」
「・・・ん?」
「私が心配で見にきたんだろう」
「はははははは、バッカ、ちげーよ」
 穏かなまま子供は両手を伸ばしてロイの頬を挟む。左頬はひんやりと冷たく、右頬は熱があるのかと思うほど熱い。
「オレのためだ。全然、アンタのことなんかアンタの都合なんか、これっぽっちも関係ねえよ」
 息が触れるほど間近で、子供は嘘のない声でそう囁く。 
「こんなときは嘘でも、そうだというものだよ」
「ほらな、だからアンタはだめなんだ。嘘ばっかり、ついてるから。いつも後悔ばっかしてる。なあ?」
「君の聡さは愛しいけれど、時に鼻につく」
「・・・・大人げねえの。ワイン、少し頂戴。オレが半分飲んでやるよ」
「バカモノ、なにをいうか未成年が」
「あー・・・・明日晴れるかな?」
「さあな、多分。晴れるだろう。お前も明日一緒にいくか?」
「明日って、もう今日だろ。オレはいいや。中佐によろしくゆっといて。なあ?」
「なんだ」
「アンタと中佐って、なにがきっかけでそんなに仲良くなったんだ?性格全然違うし、あんま気があうとは思えねえんだけど」
「・・・・・・・・・・・・・・きっかけというのはないな。だが、友達だな。親友だ。鋼の、親友と呼べる人間はいるのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・いねえから聞いてんじゃねえか」
 どうやら思わずやり込めてしまったらしい。子供のむくれた頬は可愛らしい。つつけばそっぽを向く。
「やはり、鋼のも明日一緒にいこう」
「やだよ」
「どうして?」
「この手足じゃ顔向けできねえだろ。なにやってたんだって言われるよ。オレは、取り戻してから行く」
「言わないさ」
「そうかな」
「・・・・アイツは、言わない」
「・・・・・・そうだな」
「少し、眠る。君も寝ろ。疲れているだろう?今なら眠れそうだ、私も」
「・・・って、人を抱き枕みてえに・・・」
 抱えこまれて、わずかに抗う仕草も、けして本気ではないらしい。ロイの腕を解くほどの力はなく、結局大人しく腕の中に納まっている。
「・・・・・・いかんな」
「なにが?」
「なんだか人形でも抱いているようなおさまりのよさで、ファンシーな気持になってしまった・・・・気持悪い・・・・」
「てめえは人を枕がわりに捕まえといて、気持悪いだと・・・?!」
「ははは、冗談冗談。嘘だよ。訂正しよう、気味が悪いだ」
「訂正になってねえよ・・・・!」
 笑いながら、それでも逃がさないように抱きすくめる。
 先ほどまでの、苛立ちが嘘のように頭の中は澄み切って穏かだ。全身の力が抜けて、意識が底へと沈んでいくのがわかる。心地よい。明日は晴れるだろう。
「おやすみ、エドワード」
「・・・・・おやすみ」
 今日だけだ。
 今日だけだと言い訳しながらロイは眠りに落ちる。お互いのひどく傷ついて逆立った皮膚を舐めあうのは。
 明日は晴れるだろう。
 墓参りには不似合いな、大輪の薔薇を抱えてせいぜい厭味ったらしくヒューズへたたきつけてやろう。
 不眠の恨みつらみも忘れずにいってやらねば。
 お前の死んだ夜はこんなにも長い。
 長く、いつまでも私たちを痛めつづける。