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 おとうさま。
 おとうさま。
 よるがこわいんです。ずっとずっとよるがこわくてたまらないんです。
 まるでせかいはおとうさまと、わたしの、たったふたりきりのよう。
 いたくしないでください。
 どうかわたしにやさしくしてください。
 だってせかいにはわたしたち、ふたりきりしかいないのだから。
 わたしたちは、おおきくくちをあけた、うつろのよう。
 なにももたずなにもしらず、すべてをうらぎり、はいとくし、ひかりをしらない。
 おとうさま。わたしのだいじなおとうさま。
 だいじなおとうさま。
 あいしているのは、あなただけなのです。





*******



 その訃報が届いたのは恐ろしいほどの雷と豪雪が東方を襲った午後だった。ベッドの上でロイは真っ黒な紙面につづられたリリスの父親の名前に視線を落とした。ずっと意識のないまま、眠るような最後だったという。
 皮肉なものだと、ロイは思う。
 あの殲滅戦という名の忌まわしい泥試合で女を殺し子供を殺し、のし上がった醜い男。その死がこんなに安らかなものだとは。何一つ、罪業はあの男の身に報いることはなかったわけだ。笑いもせずに封筒と紙面を丸めてベッドサイドのゴミ箱にほおリ投げた。
 さすがに寝てばかりもいられない。明日からは通常通りに働くことになるだろう。
 脳裏を占めるのは、やはり一連の事件の事だ。
 自分のテリトリーで起こっているこの事態が全く不明瞭であることにたまらなくいらいらとさせられる。どう解決したとしても手柄に直結しているとは思えなかった。
「あんまりにも地味すぎるからな」
 あの傷の男をとらえるほどには難しくなさそうだが、それだけに昇進の役になど立つはずもなく。
 くだらないな。
 もどかしさに喉が焼けるようだ。なにかひとつ。決め手があれば。
 ずさんで大胆で、そして目的も定かではない人殺しに、なにかひとつの手がかりさえあればいいのに。
 先日保護した男は結局死んだらしい。衰弱して眠るように逝ったのだとホークアイからの連絡を受けた。
 一度も目覚めることもなかったために結局何の手がかりにもならなかったわけだ。
 窓の外では不吉な光を瞬かせて、空が暗澹としている。窓ガラスに叩きつける風雪は止む気配も見せずに、唸る様に表を蹂躙していた。
 だがロイにも全く手がかりがないわけでもない。
 まあそれもまた明日のことだ。何も折角突発的に取れた休日までをも不意にして仕事に没頭することもないだろう。そう思い、再びベッドに体を横たえる。
 そのとき誰かが遠くから叫んでいるような、かすかな声が届いた気がしてロイは首を回した。体を起こし神経を聴覚に集中させる。空耳だったろうかと思い直したときに、再び、かすかに声がきこえた。
 松葉杖をひきよせ、ベッドからもたもたと降りて窓際へ歩いていく。
 曇るガラスを袖でぬぐう。
 目を凝らせば、灰色に染まる階下に、何か赤いものがぽつんと染みのように佇んでいる。
 頭が理解するよりもはやく、反射的に窓を押し開けていた。
「鋼の・・・!!」
 風雪にまるでなぎ倒されそうにゆられ、凍えている小さな子供。すぐさま身を翻し、階段を下りる。そういえばインターフォンが壊れていたのだったと気がついたのは、凍えるエドワードを屋敷へ引き入れてからだった。


「ばか!こんな雪の日にでてくるやつがあるか!!」
 乱暴にタオルでがしがしと体中をぬぐっている。いまだ一言も言葉を発せられないのはひたすら歯の根が会わないせいだろう。がちがちと音を鳴らし、その唇は染め上げたように真紫だ。毛布を引きずって、エドワードをくるむ。そして片足を引きずりながら浴室の蛇口を全開にする。湯気を立て、激しくしぶきを上げるのを確認してから、めったに足を入れないキッチンで湯を沸かす。
 部屋に戻れば、かじかんだ手足を抱えてエドワードはいまだ震えていた。
「・・・・・よ、よう・・・・げげげげげんきそうじゃんか・・・」
「おかげさまで!下手したら死ぬぞ!」
 怒鳴りつければ不本意そうにふるえる唇を尖らせている。その手にココアを持たせてやりながら、ロイはまた新しいタオルで頭をがしがしと拭いた。所作が乱暴に成るのは仕方がないことではないだろうか。
「いいいいいてえ!いてえいてえ!!しょうが、ねえ、だろ・・・!で、でで出てくるときは・・・普通の天気だったんだから・・・まさかこんな嵐になるなんてわわわわわかるわけねえだろ!!」
「天気予報をみたまえ!」
 ぐ、反論も出来ずエドワードは視線を落とした。ため息をつき、今度は力を抜いて優しくタオルを額や首に当ててやる。普段は綺麗に編まれている金髪はもはやぐちゃぐちゃで、惨惨たる有様だ。
「折角綺麗な金髪が台無しだ。洗濯機で洗ったみたいになって」
 ひもに手をかけ三つ編みを解き、もみくちゃの金髪に指を差し込んでていねいに梳いてやる。濡れたままのそれが絡んでロイの指先にまとわりついた。
 うなだれたうなじが痛いほど白い。
 カタカタと体を震わせる、華奢な体。
 ふいに乱暴な衝動に囚われそうになって、ロイは振り切るように手を引っ込めた。
「で。なんのようだ」
「・・・・な、なにって」
「・・・いやいい。話は後だ。とりあえず風呂につかれ。あったまって、まともな口が利けるようになったら部屋においで。私は二階にいるから。いいか。あったまるまで絶対に出てくるのじゃないぞ」
 きつく厳命し、廊下の先の浴室のドアを指で示してやる。生意気盛りのエドワードもさすがにこごえと疲労で反論する元気もないらしく大人しく従った。
「棚の上に着替えがあるから何でも適当に着るように。へんじは?」
「・・・・・うるせえな」
「へんじ」
「はい!はいはいはい!」
 噛み付くような返事に笑顔を返して、ロイはもう一度タオルで真っ白な頬をぬぐった。
「ゆっくりつかって。話はそれからしよう。まあ正直、鋼のが私の家を訪ねてくれて嬉しい」
 青ざめたままの顔では表情はわかりにくかったけれど照れていたような気が、ロイはした。



 案の定ロイの衣服はエドワードには大きすぎたらしい。普段使いの部屋着もこの子供が着れば大きく肩は出るし、裾はドーナツのように丸められている。わらうなわらうなと心の中で唱えれば唱えるほど、ロイは我慢できずに、エドワードが笑うなら笑えと怒鳴る前に噴出してしまった。。
「あっはっはっはっは、鋼の、どうしたんだねお湯につかって縮んだんじゃないか?」
「うるせえ!縮むか!俺はナメクジかなんかじゃねえぞ!!」
「それは失礼。・・・・くくくくく。横にタバコか何か置こうか?こう、対比率がわかりやすいように」
「そんなに小さくねえだろうが!異星人発見かなんかタイトルつけて投稿でもすんのか!?あ?!」
「・・・いいアイデアだな」
「・・・・・てんめえ」
 頬を紅潮させて、拳を震わせるエドワードを見て内心ロイは安堵していた。この子供はこうでないと。寒さに震えたり怯えたりないたりなんて到底似合いはしないから。何より、この自分が落ち着かない気持ちになるのだ。自分でも、笑ってしまうほど。
「・・・・具合、どう」
「まあ、骨はすぐにくっつくものじゃないしね。せっかくだからゆっくりさせてもらっている。明日には通常勤務だ」
「そうだな。じゃないと中尉にぶっ殺されるぞ」
「昨日なんかライフルをつきつけられたからな。あれは本気だった」
 肩をすくめると、ようやっとエドワードが人の悪い笑みを浮かべた。
 わらった。
「最近とみに酷いぞ。ポケットに隠しておいた私のおやつを取り上げて目の前でフュリーに与えてしまうんだ」
「・・・それでか?!最近フュリー曹長が太ったの!!」
「・・・・人聞きの悪い、私のせいみたいじゃないか」
「あんたのせいだろうが!なんか、ほっぺたとかふくふくでちょっと背中がむちってして!せ、せなかだぞせなか!腹じゃなくて背中に肉がついたんだぞ!」
「いいじゃないか。鋼のももうすこし太ればいいんだ。おやつをやろう」
 サイドテーブルに放っていた綺麗な包み紙の飴玉を取り出し、エドワードに握らせる。いらねえよといいながらもエドワードはそれを大きすぎるポケットにしまった。
 もっと笑えばいいのにと思い、ロイはくだらない話を続ける。
 どんな用事で来たのかなんて重要ではなかった。すぐに返すつもりも毛頭ない。

 わらえ。
 笑顔は本当に、飛び切りかわいいから。

 ひとしきり、エドワードは笑い怒り、そして椅子からロイが身を起こすベッドに腰をかけなおした。
 あまりに軽い体重がわずかにベッドを軋ませた。
「・・・・・大佐、ほんとどうしようもねえな」
「そうだろうか」
「・・・・・どうしようもねえ。あんたはさ、なんで」
 言いにくそうに口をつぐむ。
 けれど何か、大事なことが言いたいのだなとロイは思い、黙って耳を傾けた。
「・・・・おれ、ずっと考えてる。なんか、一昨日あんたが俺をかばったりなんかするから。ますます、いろんなことがわからなくなって。あんたのこともわかんねえし、俺のこともわかんねえ。俺たちはただの部下と上司じゃねえの?ちがう?それともただの上司と部下?・・・・おれはもう、あたまがいてえ。訳わかんなくて」
 小さな体が頭を抱え、うなだれている。
 そして、心が愉悦と恍惚に満たされる感覚にロイは密かにわらう。


 まるでいまつつけば落っこちそうな雛鳥のようだ。


 この少年の運命を手に握る、ぞくぞくするようなその快感にたまらなく興奮する。
 だんだんと、自分に惹かれていることは知っていた。
 そうなるようにしてきたつもりだし、自信もあった。
 けれどこれがこんなに早く訪れるとは思いもしなかったのだ。
 このうつくしい魂が檻のなかに飛び込んでくるなんて。
 あとは扉を閉めて、鎖でつないでしまえばいい。

 ああ、どうしてくれよう。

 愛していると真顔で告げればどんな顔をするだろうか。
 それとも無理やりにでも抱いて壊してしまおうか。それでもまだこの子供は自分に執着するのだろうか。
 どうすれば手にはいるのかロイには、すでに読み終えた本の筋書きを思い出すように理解できた。
 母のように父のように優しくどこまでも優しく真摯に愛していると告げれば言い。
 あとはゆっくりと蝶を絡めとるように、幼い体に快楽を教えてやればあっけなく陥落するだろう。
 一度覚えた快楽は麻薬のように子供を蝕み、そしてこの自分なしではいられなくなる。

 ああ、ほんとうに。
 この自分の手管一つでどうとでもなるのだ。
 大声で笑いたい気持を抑え、ロイは穏やかな優しい声音で問う。
「・・・では鋼のはどう思う。どうして、私がそんなにも君をかばうのだと思う?」
「・・・中尉は好きだからって言ってた。俺やアルが、あんたは好きだからって。でも、なんでっておもう。俺には、あんたに好かれるようなとこなにひとつないし・・・・」
 わずかに頬を染め、エドワードは窓ガラスに視線をそらした。
 子供の心を移したような嵐。
 どんな感情が渦巻いているのだろう。執着の理由もわからずに荒れ狂っているのに違いない。

 ああ、本当に、おまえはわたしのこころを疼かせる。

「・・・・わたしにもわからない」
 そう告げると、エドワードはゆっくりと視線を上げた。その、驚いたような、呆けたような表情がたまらなくおかしい。
「わたしにもわからないんだ。どうして、鋼のは特別なのか」
 いつものように穏やかに笑ってやる。裏表のない愛情に、ふさわしい笑みを。
 

 すぐにすぐ、手に入れるほど急いてはいない。
 すぐに正解など、教えてはやらない。
 こんな楽しい遊びを終わらせてしまうのは勿体無いからだ。
 まだまだわたしを楽しませておくれ。愚かでくだらない売女のように、体を開き、堕落するまで。


「あんたにも?」
「そう。でも、それでいいのじゃないだろうか。ただの上司と部下である必要もない。全てに理由が必要だとも思わない。正解がすぐにわかっては、おもしろくないだろう?」
 うそではない。
 うそなど、ついたことはない。ほんとうだともおもわないけれど。
「・・・・そう、か?」
 とりあえずの回答を与えられたことに安堵する表情はひどくロイの嗜虐心をそそった。こんな解答に惑わされる愚かで純粋な子供。
「ゆっくり考えればいい。わたしもそうするよ。君が特別である理由を考える」


 お前を愛しているよ、エドワード。そう、こころの中だけで呟く。
 笑っておくれ。お前の笑顔は本当に可愛いから。
 真綿でくるむようにお前を愛してあげよう。苦しむこともなく悲しむこともなくただ快楽と、溺れそうなひたすらな愛情だけを与えて。神経を麻痺させ、すべてを忘れてしまうほどに。
 お前が悲しむところなど見たくもないから。

「さあ、今日はもう泊まって行きなさい。明日は葬式だ」
「・・・・?だれの」
「リリスの父親だ。こんな天候の中の葬式だ。あの男にはお似合いだが」
 怪訝な顔をしている。優しいロイマスタングには不似合いな言動だったのだろうか?
 ロイはことさら、やわらかく笑った。
「さあもう眠ろう。明日は忙しい」



 茶番劇の幕開けだ。