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見慣れた小さな背中を目に留めて、リザ・ホークアイは声を上げた。
「中尉」
「一人?アルフォンス君は?」
「アルは先に帰った。あのさ、大佐の具合どう?」
「お見舞いに行かなかったの?病室はこの先の」
「いや、あの女がいて、取り込んでたみたいだったから。お見舞いだけ叩きつけてきてやった。なんだか元気そうだったけど」
珍しく意気消沈しているらしい大人しい声音を、怪訝に思いながらホークアイはエドワードの傍らのベンチに腰掛けた。目の前を行きかう病人たちの足取りを眺め、エドワードはぼんやりと頬杖をついている。
「そうね。足も、頭の傷もたいしたことはないようよ。すぐに仕事に復帰というのは無理だとおもうけれど」
「ごめんな、中尉。俺がついてて」
「バカみたいな我侭を言った大佐の自業自得だわ。気にすることはないのよ?」
伺うように首を傾げる。けれどエドワードは力なく首をふり、それを肯定しようとはしない。
「俺のせいだろ。しかもあのバカ、俺をかばって」
「・・・そうね。まあでも、あの人にとってはそっちのほうが楽だったのではないかしら」
「?なにが」
「あなたか傷つくことより、自分が怪我をしたほうが楽だったのだと思うわ。大佐は、あなたのこともアルフォンス君のこともだいすきだから」
「・・・それが、そもそもわかんねんだけど。おれ、大佐に好かれるようなこと何にもした覚え、ない」
唇を尖らせ、怒ったような表情をしている。けれど誰がみてもわかってしまうくらい、その表情にあるものは怒りなどではなく、虚ろなほどの困惑だ。ただただ、エドワードは途方にくれていた。
あの男は、どうして自分をかばうんだろう。どうして味方をするのだろう。
目指しているものはまるで逆で、自分たちをかばっても彼にひとつの得もないというのに。
今までゆっくりと考えたこともなかったけれど、こうして改めて思えば心底不思議だった。
打算と欲望で働いているような印象を受けるのに、どうしてあんなに優しい表情をしたり、するんだろう。
あの男は、自分たちにとってなんなのだろう。
もっと、ただの上司と部下の割り切った関係ならば事は簡単なのに。
昨日のように、自分を犠牲してまでエドワードを守ったりしなければ。
エドワードはずっと自問自答を繰り返していた。
けれど答えはでないのだ。まるで自分が深い霧の中に迷い込みでもしたかのようだ。
前が、眩んで。
「では、あなたは大佐のことをどう思うの」
唐突に問われ、エドワードはすぐにはその言葉の意味を理解できない。
「なに?」
「大佐の気持が、理解できないというなら。では、エドワード君、あなた自身の気持は?どんな風におもっているの?」
優しい声に、母を思い出しながらエドワードは首を小さく傾げた。噛み砕くように、何度も口の中でホークアイの言葉を繰り返す。
じぶんが、あのおとこを、どうおもっているのか。
「俺が、どうおもってるか?」
「いままで大佐といて、どんな気持になったとか、どう思っているかとか。大佐のきもちがわからないのは当たり前のことよ。だって、別々の他人なんだもの。でも、どう思われているかを知りたいのなら、まず自分がどう思っているかを知るべきではないかしら」
心は等価交換できるようなものではない。けれど、伝播し侵食しそれは必ずお互いに通じ合うものだ。
好悪、どちらにせよ。
「・・・・・いらいら、する」
そばにいるときの気持、離れているときの気持。
一つ一つを丁寧に思い出そうとエドワードは前髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を抱えた。
笑顔、声、温度、におい、感触、全てを思い出そうと。
「いらいらするんだ。大佐がそばにいると落ち着かない。いろいろ、考える。でも、離れてるときもいらいらするんだ。なんか、この辺をだれかに思い切りつねられてるみたいな」。
右手で胃のふの辺りを押さえ、エドワードは顔をしかめた。
「優しくされて嬉しかったり、でも、そばにいるとすごく落ち着かない。いそがなくちゃっておもう。はやくはやくって。いくとこなんかねえのに。なあ、中尉。俺は、大佐のことどうおもってるんだとおもう?何でこんな気持になるんだと思う?わかんねんだ。なんか、いっつもあせる。こころんなかでいらいらばっかする」
それを恋だと言ってしまうことは簡単だったけれど、ホークアイはただだまって耳を傾けた。
「わかるんだったら、誰か教えて欲しい。いやなんだ、ほんとは大佐の横にいんの。走り出したくなる。自分が自分じゃなくなるみたいで怖い。ずっと考えてるのに・・・・」
うずくまる仕草で背中を丸めるエドワードに、優しく手を触れて何度か撫でてやる。こんな風に触れるのは初めてだったけれど、ホークアイはあの男がこの少年になぜあんなにも執着するのか、その理由が少しだけわかった気がした。
エドワードが言うほど、ロイマスタングという男は優しくない。
真の意味で特別なのだろう。かつてしる、あの上司はおよそ人間味というものにかけていたように思う。
冷徹と狂気にも似た一途さを携えた男。
あの、こころのこおりをとかした。このちいさな魂が。
「きいてみればいいわ」
「・・・・だれに?」
「大佐に。今日早晩退院になる。そのまま屋敷に帰られると思うから家を訪ねてみればいい」
満身創痍の今の状態ならば、飢えた若者のように、この子供に無体な真似はすまいという大人の計算をちゃっかりこなす、リザホークアイはやはり有能だといえよう。
これでうまくいってしまえば、この子供には恨まれるかもしれないが。
相思相愛であるのならば、邪魔をするいわれもない。それに、こんなことでまとまってしまうほど簡単な話にも思えなかった。
ひとまずは、あの上司を信用して。
こんなに弱っているエドワードをみているのはつらいことだ。それはあの男も一緒のはずだった。
「直接聞いて。あなたたち二人はちっとも言葉が足りないように思うから。ゆっくり話も出来なかったんでしょう?ゆっくり話して、明日には元気になって欲しい。そんなに落ちこんでいると、アルフォンス君も心配するわ」
「落ち込んだり、してねえけど・・・。大佐んち?」
「文句があればいってやって。わたしの分まで」
「・・・・・そーいうことなら。どこ?」
かすかに、頬を上気させていることを知っているのだろうか。
美しい、そして優しい愛情だとホークアイは思った。
あの男にもたらされるには、勿体無いほどの。
(そばにいるだけでどきどきするなんて)
手帖の端に書き込まれた地図を乱暴にポケットに押し込み、エドワードは振り切るように立ち上がった。アリガト中尉、と小さく手を振る。廊下を歩く患者をすり抜けるように行く、その背中を見つめながらホークアイはため息を抑えられなかった。
自分の目の前に詰まれた問題の、あまりの多さに。
前途多難。そう思わずにはいられなかったのだ。