すべるようなひそやかさで、その車は車道をゆっくりと走ってゆく。エドワードはロイと別れ、すぐ横の路地に入った。裏から回り込み、先へと待ち伏せるつもりだった。ぬれた路地に転がる空き瓶やゴミをよけ、疾走する。機械鎧の重みが気持ちいい。気分が高揚して、息が弾んだ。何かが起こる、前触れの予感だ。
 これまでの、決して尋常ではない経験値がエドワードに強く告げる。
 あれは、当たりだ。
 なにかがある。
 何かが起こる。
 争いを戦いをけして好むわけではない。けれどどうしようもなく血が騒いだ。
 皮膚が切れるほどの冷気に、背筋が伸びるような緊張を覚える。
 心地いい。
 自分は科学者だ。種の明かされない手品など、何の興味もない。
 種を暴く瞬間の快楽。
(種を、暴いてやるよ)
 知らず笑っていた。
 先回りをして、車の足止め。
 ロイの指示に笑みがこぼれる。
 それを命ぜられる、自身への信頼のあらわれを心地よく思った。
「イエス・サー。・・・・期待にこたえてやるよ、大佐」

  

明るく開いた大通りへの路地を、全速力で駆け抜ける。すぐさま飛び出そうとし、瞬間ためらう。大佐を待つか。車を止めるか。それとも、もうすこし様子を伺うか。
 逃がす気は、さらさらない。それは論外の選択だ。
 迷って、物影に身を隠す。車の位置を確認して、それからそのまま走り出すようなら実力行使で止めるしかないだろう。自分の二つ名は伊達ではない。
 首筋に、ふと雪が触れてエドワードは上を見上げた。またぞろ降り始めた雪がゴミのようにも見える。自分の意識を一瞬、そちらにうばれる。視線を戻せば、不吉なほどに黒い大型の車は、すぐそこに迫っていた。ゴミ箱のにおいに顔をしかめつつ、エドワードは物陰に寄り添うように身を隠す。気配を殺し、息をひそめる。
 エンジン音はすぐそこにある。すぐそこに。
 止まったままの車両の前に飛び出して、運転しているものを捕まえる。その想像は容易に出来たが、車が止まっているのであれば、もうすこし様子を伺うべきだろう。面白いものが、見られるようならば。
 ドアの開閉音がした。
(降りた)
 緊張感に、拳を握る。
 男か、女か。
 運転席から降りてきた影は、ひどく小柄だった。真っ黒なフードをかぶり、足元まであるながいコートをまとっている。
 いかにもだ。エドワードはひそかに笑った。ますますもって、面白い。 

ず、ずずず、ず、ず。

(?・・・・なんだ)
 何かを引きずる音。大きな、重い、何か。
 目を凝らす。エドワードの位置からでは、よく見えなかった。それでも、その音が近づきつつあることはわかる。出るべきか。まだ、待つべきか。
(まだ、待つ)
 逃がす心配がないのならば。
 そう思い、身を硬くして息をひそめる。瞬間。
 エドワードの頭上に何かが影をつくった。
 驚いて上を見上げる。ほとんど同時に、「それ」はエドワードに覆いかぶさってきた。大きく重い何か。すんでのところで声を抑える。黒い人影はまだそこにいる。声を上げるわけにはいかなかった。
(なんだこれ、くそ!なに・・・・を・・・)
 捨てていきやがったと口中ですら言葉にならなかった。自分に覆いかぶさっているものの正体を知った今では。
(・・・っ!!)
 自分の肩口に男の顔があった。
 その苦悶と恐怖の表情は、今にも叫びだしそうに乾いた唇を開いている。白蝋のような肌は、ひとめで生者のものでないと知れる。氷のように冷たい指先が、力なくだらりとたれている。反射的に身を捩り、エドワードはゴミの山に背中を預けた。ごまかしようのない、盛大な音がして、ゴミが散らかる。
「・・・くそ!!」
 しくじった。そして、そう思うと同時にエドワードは黒い影を追いかけ車道へ飛び出す。黒い人影はまだそこにいる。
「逃がすかよ・・・・!
 その黒のコートの肩口を捕まえようと、渾身の力で指を伸ばす。突然飛び出してきたエドワードに驚く様子も見せず、その手を振り払われる。
「隠すよーな、すげえ顔してんのかよ。ああ?ゴミは分別して捨てろってママに習わなかったか?
 返事はない。最初から期待などしていない。
 人殺しときく口はない。
「投降すんなら今のうちだぜ。あいにく俺は、手加減してやるほど優しくねえんだ」


 循環。

 構築式。

 力の流れがある。血液が体中をめぐるように、それは体に染み付いている。

 分解。そして理解すること。

 両の手を合わせる。それは空々しいほど乾いた音をさせ、雪明りの夜の街に響き渡った。

 再構築。

 稲光に、この光はいつも似ていると思う。ぞくぞくするような鮮やかな青い、練成反応の光はエドワードの気分を高揚させるのに十分役立つ。あとは、想像するだけでいい。
 右手の機械鎧を変形させるたびに凄まじい顔で怒鳴る少女を思い出してふと笑みが漏れた。鋼の義手を、薄く鋭く光る刃物に変えて。
「死にたくなけりゃ、命乞いは短めにな」
 言い捨て、相手の懐へ走りこむ。殺しはしない。そのつもりだった。
 突進する体を優雅に交わされ、振り向きざまに刃を走らせるが数センチのところで届かない。すべる雪の上で、片手をつきながら体制を整える。
「鋼の・・・・錬金術師・・・・・」
「・・・・てめえ・・・・?」
 そのしわがれた声音にエドワードは一瞬気を取られる。老人、と頭が理解する前に目の前で火花が散った。ほとんど同時に鼓膜を引き裂かんばかりの銃声。
「くっそ、てめえじじい!年寄りの冷や水も、大概にしやがれ!!」
 身を翻し、距離をとろうとするが連続する銃声に体勢を立て直す暇がない。
 こんな街中で、そんな強攻策に出られるとは思わなかった。練成する暇もない。一瞬。一瞬でいい。時間があれば。
 肩口を何かがかすめる。無論弾丸以外の何者でもない。赤のコートが宙に散り、焼け付くような痛みを同時に感じた。思わず両手を突いてしまう。雪の上に小さく血液が滴った。
 そしてこの隙を見逃すような優しい相手にも思えない。
(やべえ)
(くそ、当たる!)
(大佐はなにやってんだよ!ほんと無能!)
「だああ!くそ!手伝え大佐!!」
「呼んだかね?
 横から伸びてきた腕に、引き倒される。今まで自分の居た場所を弾丸が弾いた。雪が散って、石畳があらわになる。見上げれば、月明かりに白い頬を照らし物騒に笑う男の横顔があった。片手に拳銃を持ち、その手でサラマンダの意匠の白い手袋に震えんばかりの力で指を突っ込む仕草が、そのまま怒りを表していた。
「存外役立たずだな君も」
「んだとコラ!!俺の役目は足止めだろが!十分だこのやろ!!」
 ふ、と男は笑って見せ、そのまま黒いコートに向き直る。その顔には笑みが浮かんだままだったが、エドワードに向けるものと同じではない。残酷な愉悦にみちた、冷淡な笑みだ。
 てめえのほうがよほど悪党に見えるとは、さすがにこの場で茶化すわけにはいかなかった。エドワードは荒く息をつきながら、立ち上がる。
「顔を見せたまえ。恥ずかしがる御年でもあるまい?」
「これはこれは。焔の錬金術師・・・なんと、飛んで火にいるとは、まさにこのこと」
 大佐のことも、しってんのかこいつ。その、怖気だつような笑い声に無意識のうちにエドワードは拳を握り締めていた。蟇蛙のような、にごった邪悪な声だ。
「こいつ、俺のことも」
「ああ、聞いていた。君の知り合いじゃないのかね?何しろ君には物騒な知り合いが多い」
「知り合いじゃねえよ・・・って、てめえいつから見てたんだこのやろう!!はじめっから隠れてみてやがったな?!」
「邪魔をすれば君がおこるだろうと思ったのさ。それに一人で十分だと思っていたよ。助けを求めるならもっと早くすればいいものを」
「て、てめえだきゃあ・・・!死なす・・・!
 醜い言い争いを展開しながら、二人とも目の前の存在を一瞬忘れていたらしい。二対一では分が悪いのか、黒いコートは裾を翻し、車めがけて疾走する。エドワードはそれに気がつき、老人の割に動きがいい!と小さく舌打ちをして、乗り込もうとする黒いコートに手を伸ばす。
 その手を取られるとは。
 ちいさく笑う声がした。
 エドワードの右手を、手袋をはめた意外に力強い手がにぎりしめ、思い切り車の中へ引き込む。それに反応して、反射的に身を引く。
「エドワード!」
 ロイが叫んだ。ほとんど同時に車のドアに、思い切り右手の間接部分を挟み込まれる。がちん!と金属同士のこすれる、つぶれる嫌な音が響き渡る。
「くそ・・・・!」
 エンジンがかかる。
(やばい。もっていかれる)
 車が走り出す。エドワードの体は引きずられ、腕を抜こうとするが挟み込まれてしまい、ちっとも動かない。だがもうすこし。扉を閉め切れるわけではない。こいつの指が解ければ。
「手えはなせ・・・!くそったれ!」
 加速する。そして不意に束縛する力が消える。宙に投げ出され受身を取るが、右手は神経がどこかいかれてしまったらしく、上手に動かない。
 だが逃がすわけにはいかない。
「・・・・・にがす、か・・・っ!!」
 動かない右手を無理やりに合わせ、地面に両手を叩きつける。
 再構築。
 雪。
 やがて解け、海に流れる。循環するもの。イメージは、十全。
 水。そして凍る。循環の流れはすでにある。転変は簡単なことだ。
「凍れ!!」
 雪畳が染み広がるように薄氷へと変化していく。ひび割れる美しい音色すら聞かせながら、逃げようとする車を追うように氷が走る。ハンドルを回したのか、車が一回転して、電柱に激突した。
「やあ、なかなか鮮やかな手際だ。鋼の」
 呑気にぱちぱちと拍手をしている上司を、荒い息のままにらむように振りかえる。
「大佐、なんにもしてねえな!!」
「しようかと思ったら君が突っかかってきたんじゃないか。折角やる気満々だったんだが」
「・・・・ほんとかよ、あんた」
 足元に注意しながら、車へと近づいていく。これだけ派手に騒げば、さすがに無視するにも限界があったのか、街のあちこちに灯がともり始めている。上の窓から、下を覗き込んでいる人々もいる。そのなかに女性の姿を見かけ、ロイが優雅に手を振った。とたんにきゃあ!と黄色い悲鳴が耳に届き、エドワードは調子のいい上司をねめつけた。
「あんたじゃねーだろ!がんばったの」
「まあまあ。これも、軍の人気取りだよ。ほら、君も手を振りたまえ。明るいイメージで売り出さないと。かわいい新兵卒がはいらない」
 ばかばかしすぎて反論する気にもなれなかった。車まであと100メートル。
「・・・・って・・?」
 とまったとばかり思っていたそれがエンジンをうならせ、こちらめがけて走り出した。そしてご丁寧に、甲高くブレーキ音を響かせる。タイヤを滑らせて、こちらへ突っ込むつもりなのは明白だった。とっさのことでエドワードは身じろぎすら出来ない。右へ、左へとどちらへよけるのかも判断できず、立ち尽くす。 
「エド!!」 
 だから、そのときロイにひきたおされて、そのまま車に彼が跳ね上げられるまで。
 エドワードは呆然と雪の上にへたり込んでいるしかなかったのだ。

 

 

 悲鳴に我に返る。高層住宅の窓枠から一部始終を見ていたらしい、善良な市民が発したものだ。車はすでに走り去っていて、影もない。
 おいかけなくちゃ、とはじめに思った。
 にげてしまう。
 目の前にあるものがよく理解できない。
 雪の上に無造作に横たわる、青の制服の男。そのきれいな横顔は、まるで眠っているようだ。唇に触れた雪が、水になって男のそれを湿らせている。右足が、膝のところから変な方向に捻じ曲げられていた。糸の切れた操り人形によくにている。子供が遊び飽いて、糸を切っておもちゃ箱にほおり投げたようだ。雪に埋もれた後ろ頭の部分から、どんどん雪がピンクに染まっていく。きれいだな、と思いながらエドワードは膝で這いずりながらロイの傍らまでたどり着いた。
 背中が温かい。壊れた右手と左手で、背中に触れる。
「ちょ・・・・おい。大佐。なんだよ、どーしたんだよ。大佐?はあ?マジで?・・おい、大佐。おいって・・・・」
 死んでいない。だって背中が温かい。
「おい。大佐。大丈夫か?なあ、おい・・・たいさ。ねえ」
 返事はない。
 しっかりしろ。小さくつぶやく。その声音は震えている。がちがちと歯の根が合わない。染み入るような冷気が忍び寄る。それが、ロイをも冷やしているのだと気がつき、エドワードは力のない体を抱き起こし、抱き寄せる。ずしりとした感触は、主の意識のないことを強く認識させる。

(死体って、こんなんかな)

 ぼんやり思い、熱く濡れた血まみれの後頭部を左手で抑えるように抱き寄せ、制服の背中をいうことを聞かない右手で一生懸命握り締めた。

 どうしたらいいのかわからない。

 しっかりしろ。

 しっかりしろ。

 どうしたらいいのか、わからないのだ。

 誰か助けて。

 だって、しんでしまう。

 かあさんみたいにしんでしまう。

 たましいが。

 

 練成。 

 錬金。

 代価。

 禁忌。

 

「しっかり、しろ・・・。しっかりしろ・・・!こんなくだらねえことで・・・!しなせてたまるか!!」
 掌で後頭部を抑える。顔色が青白い。怯えることも後悔も、あとで散々出来る。今、出来ることを、やる。
 闇の先をにらみつけながら、エドワードは男を抱き寄せた。
 熱を奪われないように。
 震えながら。