3
折角乾いたコートも手足も、ぐしょぐしょだった。前髪からぽつぽつと滴る水滴を振り払い、一つ大きく息を吸う。司令室のドアの前で、こうしていつまでもたっているわけには行かない。
エドワード自身にも、何がそんなに腹立たしいのかわからなかった。
ただもやもやと、胃の腑の辺りが燃えるように熱い。
怒りや猜疑心やそういった黒く粘つく感情が澱のように体の底に溜まっている。
(大佐)
大佐がいうわけない。
大佐じゃない。
そう強く思う反面、ならばなぜあの女が自分たちのことを知っていると猜疑に満ちた疑念が立ち上る
もしも大佐が本当にあの女に話したというのなら、あの女は口の堅さという面では信頼できる人間なのだろう。そう結論付けて、無理やり自分を納得させる。それは命令に近い、結論だった。
傷つくな、と自身に命令する。
こんなことで傷つくな。
押し殺せ。
「ただいま。・・・おそくなった」
ロイが、書類から目を上げて、細めてエドワードを見た。やわらかく微笑んだ。
「鋼の。おかえり。びしょぬれじゃないか。ハボック、タオルを」
ロイがハボックからタオルを受け取り、席を立った。立ち尽くすエドワードまで歩み寄り、頭にそれをかぶせる。
(いやだ)
「・・・っ」
「彼女はわがままだろう。おつかれだったな」
普段どおりにロイは話しかける。でも今は触れることに、嫌悪すら覚えてエドワードはタオルを無理やりもぎとった。
「じぶんでできるから」
「・・そうか?まだ熱があるんじゃないのか?」
「・・へーき。アルは?」
「ブラックハヤテのところだ。呼ぶか?」
不審そうにしているのがわかる。心配、しているんだろうなと思う。
それでも今は、口を利きたくなかった。こんな風に優しく。
「いや、いい。それよりなんで呼びつけたのかいえよ。俺ら、忙しいから。仕事だったらやるから」
「どうした?調子が悪」
「うるせえな。関係ねえだろ」
その声が恐ろしく低くて、一瞬司令室が静まる。室内にいる人たちの神経がいっせいに自分に向いたことがわかっても、到底普段どおりになんかできなかった。笑ったり出来ない。
こんな気持ちで笑うなんて出来ない。
「ふむ」
間抜けた風にロイはそうつぶやいた。背後で黙々と書類整備をしているリザホークアイに向けて、
「時に中尉、今日の私の雑務はあとどれくらいあるのかね」
「こちらの書類が終われば、夕方5時から会議でそのあとは将軍のお嬢さんや准将と会食、そのあとは」
「・・・書類は後どのくらいある」
「厚さで5センチというところですね」
「・・・五センチか。ふむ。それでは今から私は一時間ほど休憩を取る」
返事のかわりに、安全装置をはずす音がした。なに言ってんだこのおっさん、とエドワードが目を上げればいたずらをする子供のような表情をした29歳がいた。
エドワードのよく知っている大佐だった。
「それでは、ちょうどいい口実を差し上げましょう。拳銃の暴発で、治療中のため仕事を中断というのはどうです?」
「ちょ、ちゅ、中尉!落ち着きたまえ!」
「・・・これでもぎりぎりのスケジュールなんです。一時間も休憩を取る余裕など」
「会食は行かないよ」
(え)
思わず目を見張る。
「私がいなくてもいいだろう。あのわがままにつきあわされるのは、ほとほと疲れた。お菓子を食べ過ぎてお腹が痛いとか何とか適当に言っておいてくれ。そこまでしてやる義理もなかろう」
「・・・よろしいのですか?」
「ああ、かまわんさ。わざわざ中央からお越しの准将殿は彼女の機嫌を損ねることを恐れてらっしゃるようだが、別に彼女自身は軍属ではないし。もし昇進にかかわるとしても、オエラガタが期待するほどの大過はなかろうよ」
「・・・一時間休憩を取る余裕はあってもですね。わかりました。おことわりをしておきます」
リザは、あきらめたようにため息をひとつついた。こうときめたら譲らないロイの性格はもう十分すぎるほどにわかっている。
「・・・なんか、大佐がお菓子の食べすぎでお腹痛いって、ありえねえ話じゃねえよな」
「あ、笑った」
からかうような声に、口元を覆ってにらみあげる。ぽんぽんと頭に手を置かれて、それを振り払う。
「ええ、もったいない!性格はともかくあんな美人じゃないっすか。そもそも何でわかれたんです?」
からかい半分のハボックの声音に反応して、不気味に笑いながらロイは両腕を組んだ。
「・・・・貴様か余計なこと言って回っているのは。朝から何人にいやみを言われたと思っている。・・・よし、今日からここは禁煙にしよう」
「い、いいいい?!ちょ、大佐、それは」
「いいな。きめたぞ。他人の肺を汚してまで貴様は精神安定が必要なほど情緒不安定なのか?ん?」
「・・そりゃないっすよー・・・・」
「マスタング君、君は随分もてるらしいが将軍閣下のお嬢さんにまで手を出しているとはねえそんな昇進の裏技があったとは知らなかったなああでも東方に左遷されたのはそのあたりの手癖の悪さも関係があるのかねえはっはっはっは」
感情をひとつも込めずに一息でそれを言い、ロイが唇をゆがめた。
「反論があれば聞くが?」
「・・・な、ないっす・・・・!」
ハボックをやり込めたことにご満悦の表情をして、ロイが笑った。子供みてえ、とエドワードが思うのはこんなときだ。手を出してんのが事実じゃねえかと心の中で反論するが、ロイにはちっともその念は届かなかったらしい。
「さ、いこうか鋼の」
「・・・え?」
「医務室。熱がありますと、額に書いてある」
「・・・んなわけあるか」
くそ。
人のこと、何でもしってるみたいなこといいやがって。
確かに熱っぽいけれど。
タオルをぎゅう、と握りエドワードはいうつむく。なんだか顔を見られたくなかった。
どうせ、具合が悪くて不機嫌なだけだとか思ってんだろ。
くそばか大佐。
「あと、例の件は私のほうから休憩がてら鋼のに説明しておく。中尉、今日の準備とメンバー構成、時間割をしておいてくれたまえ。あとで、私が確認する」
(例の件?)
「わかりました。ついでに、大佐も医務室で風邪薬を飲んでおいてください。今、寝込まれては溜まりませんから」
「・・例の件って」
「ああ、歩きながら説明しよう。・・・そんなにオオゴトではないがね」
はじめは誰も気がつかなかった。
比較的安定した治安の東方では、凍死者が出ることは珍しい。どちらかといえば田舎であり、貧富の差があまりなく浮浪者が少ないこと。基本的に暖かい地方であること。軍による一定時間の見回りがあることなどから、凍死という事例が報告されることは数えるほどしかない。ただ今年は異常なまでの積雪量のため、その数字の異常さに誰もすぐには気がつかなかったのだ。
「・・・・7人」
少し、その数に驚いてエドワードは目を見張った。傍らのロイを見上げると、小さくうなずいている。廊下を二人並んで歩く。だいぶ日が翳っていて、すでに頭上には電灯がついている。室内にもかかわらず、履く息は白かった。
「今週に入ってまだ3日だが、今週だけで、だ。異常だろう」
「はー・・・。で、トータルは?」
「12人。意外と少ないようだがね。これがここ一週間での凍死者の数だ。・・ペースが加速している」
「うーん。や、でも多いだろ。なに?お年寄り?」
どこか、よその地方から流れ着いた浮浪者たちは、すぐには土地になじめずしばらくは食べ物や寝床を確保できない。こんなに雪が降るとは思わずに東方に来て、悲惨な結末を迎えたのではないか。そう思ったエドワードの問いにロイは首を横に振った。
「年寄りは、うち2人。大半は若い男だ。25歳から32歳までの働き盛りの若者ばかり10人」
「・・・若者、かあ?」
「・・・・それは私に対する挑戦かね」
ぎゅうと発火布に手をねじりこむ、大人げのないロイマスタング29歳。やべえこいつ本気だとエドワードはとっさに「うん、若者若者!わかいよな男はいつまでも少年だよなあ!」と訂正した。
「・・まあいい。まあ、飲みすぎた挙句路上でそのまま寝込んだだけかもしれんがな。事実アルコールも検出されている。まあ,数がちょっと多いということとしかも件数が増えているということで、軍にお鉢が回ってきたのさ。事件性があるのかどうかも、今の段階ではわからんが、見回りの配置構成時間帯の見直しおよび増加が決定した。ただここの所、人手が足りなくてね」
「・・・・で、俺らはどうすればいいわけ」
「まあ、そんなに大した事件ではないが一応この事態の原因の究明と、人手不足の解消。といったところかな?」
無意味にあはははは、と笑いながらロイは一回り小さいエドワードの肩をえらそうにたたいて見せた。こういうまねが異常に似合うキャラクターであることは間違いなさそうだった。
「原因の究明いい?誰がそんなめんどくせえこと言い出したんだ?!凍死って、外で寝てたからに決まってんだろ。人手不足って、俺らも見回りに出ろって事?」
「鋼の。問題はなぜ彼らがこの寒いのに屋外で寝ているのか、だよ。・・・・妻や子供を残してなくなったものもいる。病気の母親をひとり残したものも。事態は単純だがけして明快ではない」
ロイは口の端に微笑を残したまま、真摯な声でそう告げた。
この優しい男は、凍死者の数字にいろんなものを見るんだろう。
手元にある資料の冷たい数字や文章を見ながら、いろんなものを見るんだろう。
いちいち、真剣になるんじゃねえやとエドワードは毒づく。
自身の怒りのことは忘れてしまっていた。そんなことよりも、この男がそんな風にいろんな責任や悲しみを引き取ることに胸が熱くなった。誰のせいでもないことを悲しんだり喜んだり、どうにかしてやろうとする。
あの女の言うこと、ひとつはあたってるな。
(ロイは、優しいから)
その身が軍属にあって、それはいいことか悪いことかはわからないが。
「最初に発見されたのは?どこで、なんていう人?」
「街のはずれの公園だな。一番小さな。名前はヒース・リチャーズ26歳。発見者は4歳の少女だ。遊んでいて、雪に埋もれている彼の手を見つけた。母親が通報して来たのがあさの8時。死亡推定時刻はわからない。綺麗に凍っているからな。まあ、上に積もっていた雪の厚さから見て大体夜中の2時3時だろうという話だが」
「ふん。公園か。・・・あとで遺体の発見場所と日にちと被害者の名前とかそういう来歴書いた書類俺にもくれる?」
「ハボックあたりに届けさせよう。今日はしばらく医務室で休んでいたまえ。体調が戻らないようなら、今日はこのまま帰っていい。夜の見回りも、明日から参加ということにしておく。熱が下がって食欲があるようなら私の夕食に付き合い、それから見回りに参加すること」
「・・・・なにそれ」
余計な一言を耳ざとく聞きつけて、得意げな顔をする29歳をにらむ。
「このままだと、私は夕ご飯を食べ損ねるだろう。つきあいたまえ。アルフォンスも呼んで、少尉や中尉もついでに呼んで話しながら軍の食堂でたべればいいじゃないか!そうだ、そうしよう」
「はあ?アルフォンスは食べられねえけど」
「しってるよ。そういうことじゃなくてだな。もう、仕事仕事で普通のくだらない会話に飢えているんだ。旅の土産話でも提供したまえ。君の有能で優しい上司にせめてそのくらいしてやっても罰は当たるまい」
まるで素敵なことを思いついたというように、楽しそうに笑っている。ひとりで、ブレダやファルマンやフュリーには仕事を押し付ければいい!そうしようなどといいながら、エドワードの同意も得ずにうなずいている。
しっている。食事を取れないアルフォンスを、さびしくさせないために、退屈させないために中尉や少尉も呼んでくれる。その思いやりをエドワードは素直にありがたいと思った。あの弟を子供らしく扱ってくれる大人たちを、エドワードが拒む理由がない。
「・・・あんた、基本的にはやさしーよな」
「はあ?は、ははは鋼のが私を褒めるなんて!!な、なんだ?熱が上がったか?ひろいぐいしたか?」
「あんたじゃあるまいし!あーもう!なんでもねえ!なんでもねえよ!」
顔が熱い。たぶん真っ赤なんだろう。それが熱によるものなのか、てれて血が上っているだけなのか、自分でも判別がつかなかった。
「・・それから、な、鋼の」
不意にロイが立ち止まる。ぽりぽりと顎のあたりを引っかきながら、ロイが視線を斜めに床に落とし気まずそうにエドワードの二つ名を呼んだ。エドワードは仕方なく振り返り、問い返した。
「なんだよ」
「あー・・・・あのな。だから、その」
「なんだよ!」
「確かに付き合ってはいたんだがな、その、いまではすっぱりきっちり別れていて、何の関係もないし、私はいま誰とも付き合ってなどおらん。の、だな」
「・・・何の話?」
「だから、その。つまり。私は確かに昔彼女と付き合っていたけれど、それは昔のことであって、今は本当に清く正しく生きている。つもりで」
「・・・別に、俺には関係ねえもん」
あの女のことを言っているのかと悟る。内容如何にかかわらず、あの女の顔を思い出しただけで気分が悪かった。しかしここであの女の文句を言うと、まるで自分が本当に嫉妬丸出しのようで不愉快極まりない。唇を尖らせそっぽを向く。
「そうか・・・・そうだな」
「とにかく!俺はあの女はいけすかねえ!もう話題に出すな、ほんと!」
「何かいわれたのか?」
そうロイに問われて。
素直に聞けばよかったのかもしれない。
自分たちの秘密を、あの女にしゃべったのかと。
あんたがあの女にしゃべったのかと。
けれど、どうしてもその言葉はエドワードの口から出なかった。ロイがいうわけないと信じている。けれど、心のどこかでもしも肯定されてしまったら、と思うのだ。
もし、ロイがそれを肯定してしまえば、ロイに対する気持ちが変わってしまうだろう。
この信頼を裏切られたくない。
エドワードは、怖かったのだ。
素直に聞けば、私がいうわけがないなんだ信じていないのかと笑ってくれるのだろう。けれど、万が一、そうだ私がいったんだといわれてしまえば。
エドワードはどうしても聞くことが出来なかった。
関係が変わってしまうのを恐れて。そしてそんなことに怯える自分にたまらなくイライラとした。
こんな。
こんな弱い。
返事をしないエドワードを、熱のせいで無口なのかとロイは思ったらしい。左手にロイの指が触れて、エドワードは驚いて目を上げた。
「やはり熱があるな」
手を引いて、ロイが先を行く。
その青い制服の背中に、エドワードはなぜだか瞼が熱くなるのを感じていた。
「さ、ついた。ねてろ。私もどこかでサボってから、司令室に行くから」
医務室の扉のまえ、ロイは室内を指差した。その口調があまりに堂々としていてエドワードは脱力する。
「・・・サボ・・・ってそんな公明正大に言うんじゃねえよ」
「ゆっくりやすみたまえ。あとでアルフォンスをつれてこよう」
そっと指をはずされて、エドワードは無意識のうちにそれを追いかけようとする自分の手をあわててひっこめた。今までつながれていた掌が急に熱く感じられて、にぎりこむ。気がつけば医務室についていて、自分がどうやって歩いてきたのか、それまで何の話をしていたかがあやふやになって混乱する。
(ねつの!ねつのせい・・・!これは)
俺はどうしたんだ。
なんだかへんだ。
いろんな、理解できない感情の塊が胃の辺りに渦巻いているようだった。それは、熱く凝って、エドワードには疎ましいほどだ。
話題を変えよう、話題をとロイに向き直る。そうだ、サボるというならここで休めばいいのにと気がついて、そのままロイに告げる。
「・・・つうか大佐。おんなじサボるんなら、中で寝てれば?」
「・・・・・・ん?」
「だから、医務室。ねてればいーじゃん。目覚ましかけて」
室内を指差す。ロイはきょとんとしている。
(は?俺へんなこといったか)
「だれが」
「だから、あんたが」
「・・・・鋼のも?」
「ああ、俺も寝るけど。だから、あんたも寝ればいいじゃんって」
ぐう、と眉を寄せしばらくロイは煩悶している。何かいいたげに口に出しかけてはやめる。しばらくして、ひどく苦痛めいた表情をしながら、
「・・・・・いや。やめておく。・・・・寝たら、おきれないと思うから」
結局そういってひらひらと手を振り、ロイは背を向けた。
残されて、エドワードは鈍くまた胃が痛むのを感じる。
「俺と一緒が嫌なら嫌って、言えばいいだろうが」
はは。となぜか笑って。
思い出したくもないのに、またあの女の声がした。
(こんな汚い、ただの子供)
(人体練成は大罪。そんな子と付き合って、出世の足をひっぱられたらたまらないものね。大佐が相手にするわけないわよね)
ほんとに、腹立つ。
思い出した怒りはなぜか、前ほどに頭の芯まで燃えるような熱を持っていなかった。代わりに冷えた悲しみを伴っていて、エドワードは小さく頭を振った。