13
それは一瞬だったようにも、随分と長く時間が止まっていたようにも思う。
ロイが動いたのが先だったのか、リリスが先だったのか、それとも同時だったのか。対峙は一瞬だった。銃口がまっすぐロイへ向けられ、引き金に指がかかる。エドワードが確認できたのはそこまでだった。ロイが両手を地面につくと同時に爆発音。爆風が視界を奪う。耳を劈く銃声が幾度も石壁をうち、反響し、鼓膜をふるわせた。再び爆発。鈍い破裂音。飛散る水音。視界には光。熱。いつもの、大佐の焔の錬金術ではない。鼻につく硫黄の匂い、吹き飛ぶ砂塵、轟音、これは爆発だ。頭のなかの別の回路が冷静に錬成式を組み立てる。焼きついた残像が、視界を乱して、エドワードはうまく息すらつけない。それはけして、銃弾を打ち込まれた右足の痛みのせいだけではないだろう。
「・・・・・・!」
ロイ、と叫んだ。大佐ではなく。
もどかしい。息がうまく、つけない。時間が、まるで、とまってしまった。
「ちくしょ・・・・」
ロイ。
伏して、
あのロイが。
焔の錬金術師、大佐で、傲慢で野心家で冷徹でけれど優しくて、
オレのせいで.
(また?)
またおれのせいで?
立ち上る煙と埃の向こうのシルエットに目を凝らす。抉り取られた地面のすぐそばに倒れ付しているのは、確かにロイだった。そのロイのわき腹の辺りから、じわりと染み出した赤い血に寒気を覚えた。ここからでは顔は見えなかった。胸が上下しているのがわかる。リリスは、おそらくもう生きてはいない。半身が吹き飛んで、見る影もない。引き千切られた右足が部屋の隅でおもちゃのようにそっぽを向いている。綺麗な、あの人形のような顔は、半面が砕けてしまった。血まみれで横たわり、胴体に繋がる残ったほうの片足が、びくびくと痙攣していた。
「・・・・、大佐、大佐・・・・・」
くそ、と呟いて、震える左手で、右肩の機械鎧の接続を切断する。エドワードは落下し、無様に地面に叩きつけられ、一瞬呼吸が止まった。頭上では鎖に絡め撮られたままの右腕がぶらぶらと揺れていた。けれどそれに構う余裕もなく這いずるようにロイの元へと、土をかいた。
「大佐、おい・・・・」
思い切り揺する。ロイの妙に荒い息に慄き、エドワードはロイの軍服の端を握り締めて、もう一度揺すった。
「・・・・・・・・・痛い」
ごろりと気だるげに仰向けになりながら、ロイがただそれだけを呟いた。綺麗な青だと、エドワードが常に思っていた軍服のわき腹に銃痕があった。
はは、と青ざめた顔で笑う。
「まあでも、大丈夫だ。わき腹が痛いな」
「掌、見せろ」
短い脅しにロイは早々に肩をすくめ、掌をエドワードへと向ける。
右手に太陽。左手に月。ナイフか何かで切りつけた不恰好な錬成式が傷跡も生々しく、そこにあった。
「太陽は硫黄・・・・月は水銀・・・・。てめえこんなもん」
「かつての同僚が使っていた。奴は刺青だったか。私のは急ごしらえで、お恥ずかしいがね」
「爆弾の錬成か」
「手っ取り早いだろう?・・・・・・触れるだけで相手を吹き飛ばせる」
ロイが笑う。それに、どうしようもなく腹が立ってエドワードはロイの襟首を締めるのに似てつよく掴む。
「たかが女一人に・・・・っ」
「確証がなかった。女一人だという。穏便に済めば、それでよかったのだがね。隠し玉はないよりあったほうがいいだろう」
「・・・・・っ、なんで、一人できた・・・・・?なんで放っておかなかった!くだらねえ、バカみてえなことしやがって・・・・っ」
反吐がでる・・・、と。言わずにはいられなかった。女へ同情するつもりはない。けれど、彼が殺す必要があっただろうか。直接手を下す必要があっただろうか。この優しい男が、かつて付き合っていた女をどんな理由があろうと手にかけるほどの必要が、あったんだろうか。どうして、と疑問が渦を巻いて、エドワードを壊してしまいそうだった。決壊寸前の、ギリギリの、苛立ちと、怒り。ロイが救ってくれた、その感謝よりも怒りが先立った。この間もそうだった。駒であるはずの自分を庇って、足を痛めた。そして今度は命の危険すら顧みずに、のこのことこんなところへ顔を出した。これが愚かでなくて、なんだというんだろう。
この男の野望を知っている。こんなところで死んでいい人間ではないことも、よく知っている。
それなのに、どうしてこの男はこんな真似を平気でするんだろう。そんなバカだとは思いたくない。けれど、嫌悪するほどに、ロイの行動に怒りを覚えてやまない。
どうして、どうしてと。疑問が、猜疑が、エドワードを支配していた。
「・・・・・オレは、なんていえばいい。・・・・ありがとうなんて・・・とてもいえねえ」
苦痛に眉を寄せて、血を吐くようなエドワードの呟きに、呑気にロイが答えた。本当にわからない、というふうに小さく首をかしげて。
「・・・・・さあ」
ずる、と。
背後から総毛だつようなおぞましい音がして、エドワードは振り返る。ぐずぐずの半身を重そうに傾げて、女が立ち上がる。げっげっ、と喉から蟇蛙に似たそれが笑い声だと気がついてぞっとする。笑うたび、女から滴る血と肉と汚物。めくれ上がった唇から、また笑い声が漏れた。けれど、女は片足を失くしたことに気がついたのか、すぐにひっくり返った。操り人形の糸が切れてしまったみたいに。
「げっげっげっ」
「・・・・・・・・・・・・・生きてんのか」
助けなければ、と思うのにエドワードは足がすくんで動かない。ただの女。イカれた女。ただの女だ。それが、まるで生きているようには見えない。
いきものに、見えない。
「ヒサシイナァ、マスタング君」
一遍に80も年をとったような声だった。しわがれた、老人の声だ。女の喉から、鼓膜に粘りつくように湿ったそれが漏れた。
「実に久しい。君はカワラナイネエ、いつまでもいつまでもいつまでもあの戦場のときのままのようだ、君は何人殺したのだったか一番初めに君が焼いたのはイシュヴァールの若い女だった」
「リリィ?」
「娘はワタサンヨォこうなってしまっては、もうどうしようもなかろうがね。君にはわたさん。君に取って代わるはずだったが、こうなってしまッテハ」
ゼロゼロと喉を鳴らして、女は笑う。醜悪な顔だ。
「娘の体はもうコレでは持たないなァ。ひどいことをする。リリスは綺麗な娘だった。それをよくもまあ。ああ。肉がグズグズだ。ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
「リリィ」
「だが何の後悔もない。なんの恨みもない。こうして娘を連れて行ける。誰にも渡さん。誰にも奪われることなく、こうして連れて行ける。ヒヒヒヒヒ、ヒヒヒヒヒヒヒ、リリス、リリスや、可愛いリリス」
「閣下」
ロイの呟きに、耳を疑いながらエドワードは女を凝視していた。
「肉が、肉がグズグズだ、グズグズの肉だ、ああほらごらん地獄だ、一緒にいこう、かわいい娘、最愛の娘、誰がお前らに渡すものか、残してはいかんぞおおおおおおわしのものだ指も髪も目玉も骨も血も脳みそも全部わしの宝わしの女血を分けた女ヒヒヒヒヒヒヒヒヒ復活するはずだった、マスタング、貴様の肉で復活するはずだった、貴様の肉に宿り、リリスを孕ませてまた新しい命に肉に宿り、わしと娘は永遠に生き続ける筈だった、だがもういいそもそもわしは貴様を憎んでいたリリスを犯した穢した汚した貴様の肉を支配して肉から肉へ永遠に生き続ける筈だっただがもういいリリスをつれていく、ああほらごらんあれが地獄お前と私の。口をあけている待っているヒヒヒヒヒ私が生み私が殺す愛しい娘を支配する死ぬことも生きることも全て」
ゲラゲラ女は笑っている。ヒステリックに痙攣しながら老人の声で。
なんだこれは。
催した吐き気をこらえきれずに、エドワードは吐いた。くちから零れる嘔吐物を両手で、泣きながら押さえた。ごぼごぼと零れるそれが、ひたひたと足元をぬらした。
ロイは荒い息を整え、大きく一つ、息をついた。そして転がる拳銃を手に、ゆっくりと立ち上がる。狂った哄笑と対照的な冷えた、金属音。まっすぐ女の額を狙い、撃鉄を起こしたのだとエドワードは知った。
「リリス」
「大佐・・・大佐、やめ・・・・・」
足を引きずり、かつて女だったものへと歩み寄る。
「大佐!」
「リリス」
ゲッゲッゲッゲッゲッゲ自我などもう当の昔にない愚かな、
「黙れ」
抑揚のない、低い、けれど恫喝だった。底冷えのするような残酷な短い旋律は、エドワードの知るロイ・マスタングではなかった。いつもの穏かなものを微塵も感じさせない。息を飲んだのはエドワードだけではなかった。哄笑がブクブクと血の泡を吹くような異音へと変化していた。
明らかに、威圧されて。
「聞こえるだろう。リリス」
異音が止む。かすかな吐息へと変化していく。死の淵へと急速に近づいていく、その儚い命にエドワードは母親を思い出したのだ。女の残された右の眼窩から狂気が消え、理性が戻る瞬間をみた。みたと思った。下唇は赤黒い肉の塊でしかない。上唇は腫れ上げて、見る影もない。けれど女がそれを震わせて濁った声で確かに呟いた。
「ころして」
「自分で死ね」
真っ白い蝋のように血の気のない、投げ出された右手にロイが拳銃を握らせる。丁寧に指を引き金へかけてやり、ぶるぶる震える腕を掴み、額まで持ち上げて。
「やめろよ・・・・・なんでそんなこと・・・・もう放っておいても死ぬ、なんで」
「違うな。『死ぬ』と『殺される』は全く違う。それはいやというほどあの戦場で見てきた。いいか、リリス、これが最後だ。自分で死ね。お前は人形だった。お前の中に巣食うあの醜悪な老人の玩具だった。お前は生きてこなかった。これが最後のチャンスだ、人形のまま壊れるのか人として死ぬのか。何一つ選ばなかったお前が、せめて最後に選べ。生きろ。生きて、それから死ね」
女は、
笑ったようだった。
笑ったように見えた。人差し指をわずかに引いて。パン、と短い破裂音がして、女の背後の壁にわずかに肉片が飛散った。今度こそぐらりと傾いて、女が自らつくった血溜まりへ頭を突っ込む。びくびくと痙攣しながら命が途絶えていく。
しんしんと降り積もる雪のように穏かに静かに、命が途絶えていく。
彼女は生きたんだろうか。選び、生きて、そして死んだのだろうか。
この男の言ったことは本当なんだろうか。
本当に、この女は人形のように生きて、そして死んだんだろうか。支配されて、人形のように?
それは、それならば、なんて。
「・・・・・・・・・・っ」
痛みを堪えるようにエドワードは胸元を握り締める。口中の唾を吐いて、必死に堪える。
「・・・・・大丈夫か。吐いてもいいぞ」
「同情するなんざ、ばかみてぇだと思うか?」
「いいや。・・・・・・かわいそうな女だった」
傍らに影。顔を上げないままエドワードは、少し笑った。そんなものでごまかされるものなど、今何一つなかったけれど、それでも笑わずにはいられなかった。せめて、笑わなければ息もできない。
「オレは、どうしたらいい」
「・・・・何も。無事で良かった」
「ハハハ、アンタ、女の趣味悪すぎ」
「それに関しては、異論はない。・・・・・・昔・・・・」
ロイにしては珍しく語尾を濁らせた。幾ばくかの逡巡、沈黙、そしてロイはようやく口を開いた。
「・・・・・・彼女は昔身長が低くて」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあいいや。それで?」
「それから金髪だった。母親の形見なのだという真っ赤なドレスを着て、・・・・・・・・」
エドワードは視線を合わせる。男が見下ろしていた。
まっすぐにエドワードをみつめて、ロイは少し眉を寄せて笑った。困ったような、いとおしむ様な、柔らかい顔で笑った。
「・・・・・・酷く傷ついていた。気が強い強情な女だった。・・・・・・・・・誰かに似ていた。・・・・・助けることが出来たらと」
「・・・・・・・」
ロイが言葉をつむぐ、その唇を、目が眩むほどエドワードは凝視していた。
教えてくれ。
どうかもう、教えてくれ。答えを待って、エドワードは黙した。
苦しいんだ。アンタは、どうしてオレをそんなに、
「理性が、言うことを聞かない」
ただの部下で、利用する駒で、
「君が好きなんだ」
はは、と苦笑して見せて、ロイは降参、とでもいうように両手を小さくあげて見せた。
そうして窮屈そうに、軍服の襟元を寛げた。はあ、と大きく息を一つついて両手を投げ出す。アルフォンスを探さなくてはな、とたった今発した言葉を忘れたように呑気に喋るロイを、エドワードは呆然と見上げた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すき」
「なんだ?君も私が?」
「違うわ!!うるせえポジティブシンキング!!そうじゃねえよ、そうじゃなくて好き?そんだけ?」
「そうだよ」
「意味わかんねえ・・・・っ」
「勘違いされても困るからはっきり言っておくが、」
「まてまてまてまて・・・っ」
がしがしがし、と頭をかいてエドワードはそれからなぜか一つロイの頬をひっぱたいた。
「た・・・っ!!鋼の、こういうときは自分の頬をひっぱたくものだぞ!」
「バカ、それじゃオレがイテエだろーが!」
何かを怒鳴り散らそうとしたエドワードの頬を両手でしっかりと捕まえて、ロイは引き寄せた。簡単に倒れこむ小さな体をそのままだきよせ、逃がさないように両腕に力を込める。
「無事でよかった」
戻・続