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「なんだあの変態検視官・・・・!うぐぐぐぐぐ、なんで止めるんだよ大佐・・・!」
 小柄なりに腕力もそれなりにあるエドワードが暴れれば、ロイの力でも抑えきれない。羽交い絞めにされていっそういきり立つエドワードはその変声期前の、わずかに高い声を遺体安置所に響きわたらせた。
「まあまあ落ち着いて。鋼の」
 ロイは暴れるエドワードの力を利用して、左右にぶんぶん振り回した。振り子のようにふられながらもなおエドワードは怒声を重ねた。
「なあにが『おじょうちゃんいいケツしてるねえ』だ・・・・!おもっくそ人のケツ掴んでいきゃあがって・・・!離せ大佐!一発なぐらねえと、気が、すまね・・・・っ」
「そうはいっても我々はあの男に借り一つなのだからな鋼の。本来ならばここまで詳細な解剖データの閲覧も、直に遺体とのご対面も、叶うはずがないことだったのだから」
 結局解剖には間に合わず、四時をとうに過ぎて到着した二人に渡されたデータを、ロイは布を被せられた遺体の横に置いた。直に遺体を検分する時間を与えてくれた検死医に感謝こそすれ、流石に悪態をつくことは出来ない。けれど納得いかない様子でエドワードは声を荒げる。
「何で?!」
「上層部は私と君との失態にいたくご立腹でね。中央から、明日にでも新たな調査員が派遣されることになっている。既に私と君とはこの任務からは外されている」
「・・・・アンタだけならまだしも、オレまで無能扱いされたんじゃたまったもんじゃ、」
「・・・・・」
 無言でロイはエドワードをさあ吐けといわんばかりの勢いでふりまわした。
「・・・・っぐぐぐ、ちょ、大佐!わかった!わかったからっ!とめて・・・っ、吐く・・・・っ」
「まったく。いつになっても口の利き方を覚えん奴だ」
 無造作に投げ出されてエドワードは目を回し、思わずへたり込む。床についた掌がじわりと濡れるのに、うんざりしたように眉を寄せてふらつきながら立ち上がる。
「うえー・・・・なんかもう、踏んだりけったりだな・・。うわ掌くっさ!ちくしょ・・・。・・・・・・・・でもあのおっさんは絶対いつか殴る」
「ちょっとくらい許してやれ。あいつもここのところ連日徹夜で、そこへ無理をねじこんだんだ」
「でも大佐あのおっさんも、中指立ててめちゃめちゃ人のケツに指ねじこんできたんだからな・・・!キモイー!!」
 その言葉に、ロイの動きが止まる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・では代わりに私が殺してやろう」
 表情はいつもの薄ら笑いをへばりつかせているのだが、なぜか室温がゆうに10℃は下がった気がしてエドワードは思わずロイを見返す。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冗談だよな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「冗談だよな、そうだよな!マジな声出すなよ大佐。びびっちまっただろ?!」
 あははははは、とエドワードの乾いた笑い声がしいんと空気の冷えた石壁にあたって響く。
 なぜかロイの笑みに不吉なものを感じて、エドワードはわざとらしい仕草で掌をぽんとあわせた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それはそうと。時間ないんだよな?さっさと済ませて帰ろうぜ。やっぱここ薄気味悪いし!な!大佐!」
 不穏な会話をなかったことにしようとエドワードは勢いよく遺体に掛けられたシーツを剥いだ。かさばるサイズのシーツに遊ばれながら、エドワードは数日振りに男と対面を果たす。
 けれどそこに横たわる人物に、かの男の面影は見出せなかった。
 乾いてひび割れた皮膚は鱗に似ている。何十年もの年月の証である皺を刻み、いっそ哀れなほど華奢であばらの浮いた老人の体が、全てを露わにして頼りなくそこに横たわっている。胸部から臍の下まで続くひきつれたような縫合の跡に、なぜかいたたまれない気持になってエドワードは視線をそらした。新しいだろう白いシーツに、乾いた唇から滴る黄色い汁がわずかに染みていた。
「口の詰め物を忘れたな?あいつも大概寝ぼけている」
 ロイは忌々しそうに呟き、少々乱暴に、鈍く光るメスや使い方の想像もつかないような銀色の器具を押しのけて、脱脂綿をつかんで遺体の口の中に突っ込んだ。
 エドワードは呟く。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このひと誰」
「だから、先日お前が拾った」
「ぜんっぜん違う!誰が老人を拾ったよ?違うだろ、もっとこう、くたびれた感じの上背のある、」
「だから、彼だ」
「はあ?あんただってみただろ?全然違うよ、なんだオレ、ケツ触られ損じゃんか!この人すくなくとも80歳くらいだろ。ぜんぜんちがう。あのときの男はすくなくとも頭に毛がちゃんと生えてたし、30歳くらいにみえた。間違いねえよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ひとまずケツのことは置いておけ。落ち着いて聞きたまえ。彼は確かにあの時お前が拾った男だよ。ジョン・ウエーバー35歳。死因は老衰」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ええと」
 わが耳を疑いながらエドワードは聞き返す。
 聞き間違いでなければ、なんだというのだろう。
 理解できない単語に面食らいながら、上司に首を傾げて見せる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・老衰ってえのは、特定の病名もなく、体の機能が加齢によって衰えて死ぬってことだよな?35歳で老衰なんか聞いたことないんですけど」
「私もだ」
 にっこりと笑い、ロイは遺体へ一歩歩みを進めた。老人特有の筋肉の衰えた、骨の浮いた足を無造作に掴む。
「だが間違いなく彼はお前が拾い、この病院で老衰で死んだ。収容後彼の頭髪は抜け落ち顔に皺を刻み染みを浮き上がらせ、筋肉を失い、内臓を劣化させて眠るように死んだ。経過を撮った証拠の写真もある。みるか?」
「晩飯食えなくなったら困るから遠慮しとく。アンタなあ、もう、そういう正解をしってますっつうツラで、人を焦らすような真似するのやめてくんねえ?すっごいイライラするんですけど」
 上司の死者への冒涜を咎めて、老人の足を掴んだほうのロイの手をエドワードはさり気なく叩いた。
「・・・・・鋼の、手品は嫌いだろう」
 短気さを蔑むような、ため息混じりの指摘はまさに正解だった。図星を指される屈辱にエドワードはわずかにトーンをあげて吐き捨てるように、返事をした。
「正解!だから、オレは理由を聞いてるんですけど!」
 どこから出したのか、ロイはまさに手品のように一冊の仰々しい書籍を背中から取り出す。
「・・・どっから」
「タネを教えてやろうか」
 ふふふふふふと不敵に笑い、金の箔押しされた古ぼけた書籍の背中をエドワードにも見えるように向けてやる。
 堂々と『禁帯出』とかかれたシールが貼り付くその本のタイトルをみて、エドワードはすんでのところで叫びそうになる。
「おまっ・・・・!それ!!!中央図書館の秘蔵中の秘蔵、禁書中の禁書の錬金術書じゃねえか・・・・・・・・!!!」
「そう」
「な、なんでアンタが・・・っ」
「借りた」
 平然と言い放ちながら、金額に換算することすら馬鹿馬鹿しいその貴重な古書をロイはひらひらと振った。その仕草に危なげなものを覚えて、動転しつつも奪い取ろうとエドワードは指を伸ばした。当然、この上司があっさり渡すわけもない。く、子供の頃こんな屈辱を何度も味わったようなと妙な既視感にエドワードは歯噛みする。
「図書館を牛耳る影の女王は、今年定年を迎えられて」
 芝居がかった言い草で、すぐに『色仕掛けだ』とエドワードにすら先を悟られるようなことをロイは言う。
「一度食事に付き合ってくれさえすれば、なんでも一ついうことを聞くとおっしゃられてな。レディに恥をかかすには忍びなく、私も心苦しかったのだがね」
「アンタの武勇伝なんかどうでもいいんだって・・・・・!それっ、あとで貸して・・・・・!」
 存在だけは知っていたものの、喉から手が出るほど読みたくて読みたくて叶わなかった幻の禁書を前にエドワードも理性を粉砕し気味だ。
「で、この禁書には『魂の剥離は残された肉体の急激な老化を伴う』と堂々と明記してあって」
 ロイは無造作に書籍の真ん中あたりに指を突っ込んで、開いてみせる。
 その古めかしい埃とカビの匂いのする幻の禁書の一ページに、堂々と引かれた赤いラインをみて、エドワードは絶叫しようとして声もでない。
「・・・・・・・・・・おま・・・・・・おま・・・・・・・・・っ、この本、いくら、すると」
「しらん。しらんが、盗むのは簡単なんだがこれがかえすとなるとなかなか難しい。よって、これは私の個人的な所有物となった」
「なったって・・・・」
「ここに名前も」
 妙に流麗なペン使いで、どうどうと中表紙の高名な錬金術師の作者名のしたに、ロイマスタングと書き綴っている。でたらめだ、こいつはほんもののデタラメ野郎だとエドワードは拳を震わせる。
「そんなことよりも鋼の。もっと驚いて欲しいな。この状況の酷似に」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わあってるよ。要するに、アンタはこの男が錬金術で魂を無理やりはがされて捨てられたと。そういいたいんだろ」
「まあここまでいってわからないようじゃあ、アルファベットの書き取りからおぼえなおすことをすすめるところだがね。これでわかっただろう?犯人は錬金術師しかもしくはそれを要するもの。軍属である我々の顔を知り、軍の内実に詳しく、イーストシティに根を下ろし、目的はいまだわからないが妙齢の男の魂を無理やり引き剥がしてよろこんでいる変態というわけだ。おそらく今まで発見された凍死体は、そうして魂を剥離され屋外に放置された。この気候によって、老衰が訪れるより先に凍えて死んだというところだろう。だいぶ真相に近づきつつあるとは思わないか?」
「・・・・・・・・・・・目的、なんだとおもう?」
「さあ。組織か個人かもわからんが。だが、民間人を惜しげもなく実験台にする無慈悲な組織といえば私はあいにく、この軍しか思い当たらなくて」
「・・・・軍?」
「にしては、手口がお粗末だがね。・・・・・・しかし少々心当たりがないでもない」
 ほんと、裏でなにやってっかわかんねえなと胡散くさげに眉を寄せて、エドワードはロイをにらんだ。優しいのか優しくないのか。出来るのか出来ないのか。うかつなのかキれるのか。
 とんでもない秘密を隠しているような、そんな手ごたえのない不安を覚える。
 そばにいて、落ち着かない気持になるのは。
 この男が、何かを隠しているからなんじゃないのか。
 視線の真摯さをごまかすようにロイはわらって、エドワードの頭にぽんぽんと掌を気安く置いた。その仕草が妙に情丸出しであることにエドワードは戸惑い、手を振り払った。どくどくと心臓が、跳ねた。
 不用意に触れられるたびに、心臓が痛む。
 さっきあの検死医に触られたときは嫌悪感しかなかったのに、ロイが触ると頬が熱くなる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あんまなれなれしくさわんじゃねーよ」
「どうしてだ」
「・・・・どうしてって、それは」
「私に触られると緊張する?それとも、気持ち悪いか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・うるせーな。なんでもいいだろ。オレもう帰る。アルフォンス待ってると思うし」
「嫌か?」
 繰り返される問いを無視しきれずに、エドワードは唇を尖らせながら小さな声で呟く。
「・・・・・・・・・・・やじゃ、ねえけど」
「そうか」
 ぽんぽんと、もう一度頭に手を載せられるのを払えずにエドワードは俯く。
 部屋の端の蛍光灯が点滅してエドワードの足元に不安定な影をつくる。妙な沈黙がおりて、室内の消毒のきつい匂いだとか底冷えのする湿気た空気だとか、そういうものを意識する。忘れそうになっていたけれど、そこに横たわるものは死体なのだとふと気がついて、エドワードはうろたえた。
 死体なんだ。魂の抜け殻で、生命の途切れた、肉の殻。
 息苦しさを覚えて顔を上げたエドワードは、驚く程間近にロイの顔があることに気がつく。
「・・・・・・・・・・・・・・なん」
 だよ、とは最後まで言えなかった。
 逆光でどんな表情をしているのかまでは知らない。
 ため息に似た呼気が、エドワードの唇に前触れのようにおりてきた。ゆっくりと唇を重ねて、ロイは呆けたエドワードの体を支えるように右手を腰に腕を回す。
「・・・・・・・・・・・・・んんっ、んっ」
 はじめは合わせるだけだった温かい唇はやがてついばむように幾度か子供のそれを嬲り、湿った音を聞かせながら舌先が進入する。
 ちゅ、と粘膜に触れた音が室内に響いた。エドワードは瞳を閉じることも出来ずに呆然とロイを間近で見返す。我に返り抵抗しようと右手を振り上げると、男の骨ばった指がそれを掴む。舌先を尖らせて怯えるエドワードの舌をからめとる。舌をすり合わせ、上顎をねっとりと舐めあげ、全てを奪い去るように何度も蹂躙する。
「・・・・・・・やめ・・っ、っぁ・・・・・・・んっ」

 なんだこれ。
 なんだこれ、なんだこれ。
 なんだこれ。
 くちのなか、なめられてる。
 大佐に。
 大佐が。
 キスした。
 オレに。

 思考がうまく働かずに、断裂する。
 こんなのキスじゃないとエドワードは思った。

 こんなものがキスなら。
 もう出来ない。
 だって、こんなに心臓が痛い。
 絶対キスじゃない。もっと違う。乱暴で横暴で凶暴で、とにかく破壊的なものだ。
 こんなの。
 ぶっこわれる。

 気がつけば、エドワードは冷えた床にへたり込んでいた。真っ赤なコートの裾が水を吸って端が黒く変色している。息継ぎするように呼吸が荒いのは仕方がない。キスなんて慣れていない。濡れた感触を口の端に覚えて、あわてて袖でぬぐう。
「な・・・・っにすんだ・・・・!てめえっ」
「さあ。なんだろう」
「なんだろうって、なんだ!そもそもアンタここをどこだと思ってんだ!」
「したくなったのだから、しょうがない」
 笑い、ロイは遺体の横たわるベッドに背を預ける。
「いま、鋼のにキスしたくなった。だからしただけだ。・・・・・どうした?腰が抜けた?」
「ぬけてねえっ」
 気安くこんな真似すんじゃねえとかオレは女じゃねえとか罰あたりだとか空気読めとか言いたい言葉が喉元までせりあがっては消えた。どくどくと血が巡る音がする。指先まで熱く火照らせる血流は、エドワードの心臓を酷使する。

(ほんとは大佐のこと好きなんでしょう)


 好き?
 

 
 割れ鐘のようにびりびりと、体中の神経を犯すこの気持が。
 離れていく男の唇を、追いかけようとした凶暴な衝動が。
 そんな生優しいものならば。


「エドワード?」
 絶妙のタイミングで名を呼ばわり、ロイはエドワードの右手を取る。
「・・・・・・・・・・・っでも、ねえ。オレ、帰る。明日司令部に顔出すから。なんかあったら宿に電話して。いつもんとこ。オレ、一人で帰れるから。じゃあな」
 今度こそ、その手を振り払いエドワードは立ち上がった。後ろを振り返らずに安置所の重厚な扉を開く。
 背後から問うロイの声に聞こえないふりをきめこんで一気に階段を駆け上った。
 こんなに赤い顔をしてまともに会話できるとも思えない。
 歩いて帰ろう。
 頭を冷やして、宿に帰ったときにアルフォンスにさもなんでもないような顔をしてみせなければ。
 何もなかった。
 オレは何も気がつかなかった。
 なにも知らない。

 オレは、何も気がつかなかった。
 願望と事実をないまぜにして、エドワードは表へと飛び出した。止まない豪雪が頬にたたきつけるように降り続ける中、コートをきつく体に巻く。
 衝動の名を忘れようと。








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 流石に無茶をした自覚はあるのか、うろうろと宿の扉の前で逡巡してはや10分が経過した。頭から爪先までぐっしょりと濡れて、凍えて、指先の感覚は最早ない。何度鼻をすすっても、きりがなかった。正直病院からここまで歩いてきたのは無茶だったと認めざるを得ずに、エドワードは一つ大きなくしゃみをした。
 絶対に、アルフォンスに怒られる。
 兄の威厳、という言葉をおもいだせば切なくなる。
 諦めて遠慮がちにノックを、震える拳で繰り返した
「ご、ごごごごめんなー、アルフォンス、おそくな」
 扉を開ければ暖かい空気がこぼれて無闇にほっとする。けれど弟へ向けたひきつった笑みはそこで凍りついた。
「こんばんは。遅かったのね?」
 ベッドの上に腰掛けて、人形のような女が優雅に笑ってみせた。弟の鎧の首だけを膝に乗せて。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういうことだ?」
 女を殴りたいと思ったのは、初めてだ。
 物言わぬ弟の鉄の双眸に、不吉な予感を覚え低く問う。状況を正しく理解せずとも血が沸騰するような怒りを覚えた。
 目の前が暗くなるほどの怒りだ。
 女はうふふふふふふふと、厭らしく笑ってみせる。血のように赤い唇がひきつれたように左右に吊り上る。
「私と一緒に来てくれるでしょう?鋼の錬金術師さん。拒んだり、しないわよねえ?陳腐なことをいうようだけど、弟の魂を壊されたくなかったら、私のいうことをきいてくれる?言うことを聞いてくれるならば弟に会わせてあげる」
 女は笑い、立ち上がる。
 人形みたいだと、エドワードは思った。