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 生々しい弾痕が、コンクリートの壁に点々と残る。薄暗い建物の中に、今残るのはわずかな血痕と飛散った肉片、それから戦闘に破壊された室内の調度品の木片だけだ。一時間弱の攻防はあっさり勝敗を決し、今は騒乱の欠片も感じさせずに、戦場となったこの場所には埃が舞うばかりだ。結局犠牲者を出すこともなく、軍の勝利に終わった。未明の一斉攻撃は反乱軍の戦闘意欲をことごとく奪い、投降させた。
 エドワードは引き裂かれたカーテンからこぼれる朝日に眼を細める。階下では撤収作業に追われる下士官たちの怒号めいた声がひっきりなしに届く。
 体の中ではまだ猛る血が、ざわめいている。薄汚れた床に腰を下ろし、大きく息をついた。
 視界に、ロイの足元を見届けて、ようやっとエドワードは首を上げた。見たこともないこわばった形相で、上司はエドワードを見下ろしていた。

「こんの・・・・・・・・・・・・ばか、たれ、がっ!!!」
 突然まっすぐ打ち下ろされた拳を、器用に避けてエドワードは歯をむく。
「・・・・・・・あぶねえだろ!!当たったらどうすんだクソ大佐!」
「当てようとおもって振りかぶったんだ馬鹿者!大人しく、当たってろ!!!」
「っせえな、誰がバカだ!そのバカに出し抜かれたバカは、どこのバカだっつうの!へっ!ザマーみろ!!」
 エドワードは跳ね起き、立ち上がり、舌を出した。ロイは無造作にエドワードの肩を掴み、傍らの簡易椅子に向けて思い切りおした。流石に避けきれずにエドワードはそのまま椅子にぶつかり盛大な音を立てて、床に半身をうちつける。
「いてえな・・・このっ・・・・!なにすんだ!ふざけんなテメエ」
 怒気を孕んだ双眸で見上げれば、ロイは言葉を重ねて低く静かに言い放つ。
「いいか、お前がやったことは規律違反に命令違反に作戦放棄、もう教えてやるのもばかばかしい!そもそも第3陣で、防御壁の錬成だけを命令したはずだ。それがどうして敵の見張りを吹っ飛ばして、突入した挙句大暴れする羽目になるんだ?ン?電波か?電波で指令でも送信されてきたのか?しかも止めようとした下士官三名及びハボックを振り払っての大立ち回りだ。・・・・・いかん思い出したら、気を失いそうなほど腹が立ってきた・・・・・!」
「うっせーな!いいだろ別に!意欲的に戦闘に参加しろって、大総統もおっしゃられやがったじゃねーか!言うとーりにしてやっただけだオレは!」
 噛み付くように怒鳴り、散々暴れた痕跡を、その白い頬や腕に傷として残したエドワードは、辛うじて体勢を整える。片膝をつき、背中を壁に預け、血の猛る金の眼光で上司を睥睨した。
「下手をすれば、死んでいたのだぞ!」
 狭い空間で、多勢を相手に戦うのに錬金術はむいていない。どうしてもその予備動作が一瞬の遅れを、死を招くのを知らないわけではない。
 ロイの言い分は、正しい。
 しかしその、普段は聞くこともないロイの腹の底からの一喝にもめげずに、エドワードが怒鳴り返す。
「死ぬかバカ!大体オレがどーしよーが関係ねえって、何度言わせりゃ気が済むんだ!痴呆でもはじまってんのか?ああ?!アンタだっていってたじゃねーか、私には関係ないとか何とか!」
 もう一度ロイは拳を振り上げ容赦なくエドワードの頭に打ち下ろす。鈍い音がして、同時に額のわずか上辺りが焼けるように痛んだ。
「って・・・・・・・ぇえな!畜生、まだ暴れたりねえぞ、オレは!」
 切れた唇の端から、赤い唾が飛ぶ。乱暴な所作で、エドワードは椅子を思い切り蹴倒した。轟音が響くけれど、誰一人として様子を見に来る気配はない。そんな暇がないのか、それともロイが人払いをしたのか。たぶん後者だなと、この男の気の回しように、妙に腹が立つ。そつのない、手際のよさが癇に障る。
 何一つ、間違えないような、顔をして。
「どういうつもりであんな真似をした。ことと次第によっては、国家資格剥奪、退役も辞さないと思え」
「上等じゃねーか!やってられっか、軍の狗なんか、クソだ!国家資格なんかいらねーよ!そんなもんなくてもなあ、アルフォンスの体くらいオレが取り戻してやるっつうんだ!退役してやるよ、丁度退役願いを昨日書いたしな!」
「何だと?」
「もうやめる。こんなとこやめたらぁ!辞めたらてめーなんか上司でも部下でもねえ・・・・・っ」
 最後まではいわせず、結局今日の作戦では出番のなかった発火布をロイは取り出し、指先をはじく。
 火の弾ける音に一瞬遅れて、エドワードの機械鎧の関節部分から眼の眩むような炎が上がる。容赦のない熱が回路を内側から焼き、ショートする嫌な音が断続的に響いた。関節から弾けとんだ右腕が、壁に当たって跳ね返る。首筋の毛が焼けて、たんぱく質の燃える嫌なにおいが漂った。傍らでひらめいた一瞬の閃光に視界を奪われ、エドワードは体を傾いだ。
「・・・・・・・・・・っ!」
「もういっぺん言ってみろ。左足が惜しくなければだが。鋼の、君の決意はそんなものだったか。そんな簡単に打ち捨てられる決意で、ここまで来たのか。だとすれば、私の見込み違いだな」
 冷然と男は、表情一つ変えずに見損なったと言い放つ。
 おさまりかけた熱が、エドワードの喉下に、掌に、体の真芯に凝る。
 凶暴で、乱暴な、殺意にも似たどす黒い感情が渦巻く。
「・・・・・・・・・・やんのか、コラ」
「ほう、その腕でどうやって。頼みの錬金術は使えんぞ?まあ錬金術が使えたとしても勝負は眼に見えているが」
「やってみねえと、わかんねえだろ」
 うまくバランスが取れずに、みっともなく床に転がる。虫のようだと思いながら、もたもたと左手で軍服のボタンを外し、懐の黒い鉄の塊をもてあましながら引きずり出す。初めてあたえられた拳銃の重さは冗談のようだった。人を殺すための道具なのだと、今でもうまく認識できないままでいる。
 コレで殺せと渡されたときも、うまく想像できなかった。
 銃口を誰かに向ける日がくること。
 そしてそれは今も変わらない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人、殺すのなんか、簡単なんだから」
 けれど、想像すらできないまま、エドワードはロイの頭に銃口を向ける。
「・・・・お前は本当にバカだ」
 呆れた声で、ロイはため息をつく。
 これでいいと、同時に思う。
 もうとうの昔にロイは自分のことなど見捨てているだろう。
 これ以上落ちようもないのだから、痛む心などない。
「アンタ、オレが撃たないとおもってんだろ?」
「・・・・・・・・私を殺すか?」
「・・・・・・・・・そうだよ」
「お前が?」
「そうだよ・・・・・・!」
 引き金に指をかけて、思い切り引く。
 手元で圧力のあるものが破裂したように、バランスの取れない体を後ろへ吹き飛ばした。
 弾丸はキレイにロイの足元を打ち抜いて、耳鳴りを呼んだ。
「大佐?!」
 流石に、その銃声をきき、階下からハボックが飛び込む。それに、手を振り、ロイが無言で退出を促す。
「あたっとらんが」
「・・・・・・・・・・・・当たり前だろ。当たったら、死ぬじゃねーか」
「・・・・・・・・・・・ばかたれが」
 なぜか優しい響きを孕んでいるような気がしてしまう。そうだったらいいと期待している自分がおかしい。 エドワードは掌の中で熱を持つ鉄の塊を強く握りしめた。
 決意が揺らぐのを必死に押し殺す。
 決めたことだ。と。
「・・・・・・・退役する。本気で。オレはもう、こんなとこ、うんざりだ」
「なにがあった」
 ロイが静かにいつかの問いをくりかえした。
 俯けば、顎を無理やりとられ、仰のかされる。
「言ってみろ」
 正面から向き合うことは、今のエドワードにとって難しかった。けれど視線をそらすことをロイは許さず、漆黒の双眸がまっすぐ捉えて離さない。けれど、譲る気もない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・いわ、ねえ」
「・・・・・お前も大概強情だな」
「んだよ、言わなきゃ、拷問でもするか?ああ?とにかくもう、嫌になった。だからやめる。オレはもういい加減頭にきてんだ」
「やめられるのか?」
「あ?」
「弱みを握られて、あっさり退役できるのかと聞いているんだがな」
 まともに言葉につまり、エドワードは息を呑む。
「・・・・・・・・・・弱みなんか」
「このままやめれば、あらぬ罪を着せられ下手をすれば処刑されぬとも限らん。そのために従っていたのではなかったのか?なぜここへきて、全てを放り出すような真似をする」
「・・・・・・・・大佐には」
「関係ないか?そうとも限らんぞ。上官殺しは第一級犯罪だ。部下の監督不行き届きで私も降格する可能性は充分にある」
 エドワードは双眸を見開き、抵抗しようと全身に込めた力を抜く。
「・・・・・・・・・・・・・・・知って」
「当たり前だ」
 短く告げられた返答に言葉をなくし、エドワードは後ずさり壁に縋る。
「何があったのか言え。全てだ。退役の手続きは、そのあとにしろ」
 なんだろう。どういうつもりなんだろう。
 見捨てたのじゃあ、なかったのか。
 あのときの、ロイのはき捨てるような言葉と触れることを許さない気配をエドワードは忘れられずにいる。跳ね除けられた指先は今も痛む。淫売だと蔑んでいただろうに、どうしてそんなことをいうんだろう。

 勘違いしてしまう。
 どうしようもなく期待してしまう。
 エドワードは、湧き上がる怒りを抑えきれずにいる。
 けれど同時に誰に怒っているのだろうと、ぼんやり思う。
 利用したブラッドレイか。伸ばした指先を振り払ったロイマスタングか。

・・・・・・・どれも違うと本当は知っている。
 本当に腹が立つのは自分自身にだ。
 なんども、あのときこうしていればと全てを反芻する。繰り返し繰り返し、自分の愚かさを抉りかえしては罵倒する。
 怒りをどうしていいのかわからずに、作戦に逆らった。要するにただの八つ当たりでしかなかったのだ。もう誰の言いなりにもなるものかと思った。幼さを自覚していたけれど、もう他に選択肢がない。
 殺せるはずもない。
 好きだから、と告げれば、ロイは笑うだろうか。
「・・・・・・・・・・・・・オレ、ひとを殺した」
 ようやく搾り出した言葉は、あっけなく宙に飛散した。その言葉の持つ意味の重さに比例せずに、ポツリと零れた。
「それを大総統に見つかって。で、直属の部下になって何でもいうこと聞くなら、なかったことにしてやるって。断るなら殺すって」
「それで従ったわけか」
「・・・・・・・・・しょうがねえだろ」
「泣くな」
「・・・・・・・・ないてねーよバカ。もーやめる。どうでもいい。オレがつかえねえってこと、あのおっさんもコレでわかっただろうし。処刑だなんだっつうんなら、出国してどっかよそで研究する。軍なんかもううんざりだ」
「今まで従っていたものを、どうして今更歯向かう気になった?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アンタを殺せって」
 膝を抱えて、エドワードは顔を埋める。金色の頭がぎこちなく揺らぐ。
 ロイは何もいわず、無表情のままエドワードを見下ろしている。
「・・・・・・・・・オレは、なんだって我慢できる。なんでも、する。・・・・・・・・はいつくばって、しゃぶって、飼われてるのは我慢できんだよ。でもアンタを殺すのなんか、できるわけねえじゃんか。そんなことが出来るくらいだったらはじめっから言いなりになんかなってねえよ。あんなド変態殺しただけでも夢見がわりいのに、アンタみたいなしつっこいのぶっころしたら、それこそ祟られそうだからな。・・・・・・・・もう、オレのことはほっとけ。情報が欲しいなら、やるから」
「・・・・・・・・・お前そんなに私が好きなのか」
 ため息交じりに漏らされた言葉のあまりの見当違いに、思わずエドワードは顔を上げた。一気に状況の真剣さを吹き飛ばすようなことをいわれて、エドワードは呆然と口を開く。
 至極真剣な顔をして、ロイは眉根を寄せている。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・はあ?!だだだだだ誰がいつ、そんなこといったよ・・・!」
 顔を赤に染めて説得力のない顔色で、それでもエドワードはあらがってみせる。左腕で顔を隠すようにして、あわてて体を起こす。
「こないだ。宿で」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夜?」
 嫌な予感というものほどよく当たる。
 そのときエドワードは自分の忌まわしい記憶を、ひっぱりだして血の気が引いていくのを覚える。
「お前が」
 嫌な予感にエドワードは青ざめながら厳かに続きを口にした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・熱出したとき?!・・・・マジで?!あれほんとにアンタ?!」
「何だと思ってたんだ」
「ゆ、ゆめかと・・・っ」
 熱で朦朧としながら、確かにこの男の夢をみた。いや、結果的には夢ではなかったのだろう。
 なにをいったなにをいったなにをした!と顔を左手で覆う。
 断片的な記憶は、どれも死にたくなるほど恥ずかしいものばかりで。
「・・・・・・・・っ!」
「お前が、大佐すきすき愛してる!今日はオレをめちゃくちゃにしておしっこもれちゃうって」
「ゆってねえぞ、ンなこと!!」
「おお、しっかり覚えているな。感心感心。強がるのも大概にしたまえ。口を開けば悪口雑言、無能だなんだと悪態をつくくせに、ほんとうは私の魅力にまいってるときた。たまには素直になりたまえ」
「だ、だ、だ、だ、だれ、が・・・・・・・っ」
 顔が煮えたのじゃないかと思うほど熱い。到底顔を上げてはいられず床を見つめるエドワードの前髪を、ロイが無造作にかきあげた。触れた指先に動揺してあとずさる。
「て、ててててめえ不用意にさわんじゃねー!!」
「どうして」
「どうしてって・・・・・・」
「はずかしいから?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ころ、す!」
「できもしないことをいうものじゃないよ、鋼の。・・・・・・・・私がすきなのか?」
 その妙に幼い口調で、真正面からそう問われる。
 なぜだろう。
 うるせえとか誰がてめえなんかと、ごまかすこともいくらでも出来たはずだった。
 けれど不意に渡されたその問いは、エドワードの心に染みた。
 美しい言葉をきいたと思った。幼子が不思議を問うような、そんな美しい問いだった。
 気持に逆らうことがどうしても出来ずに、長い逡巡のあと、エドワードはうん、と小さく肯定の頷きをかえした。
 けれど恥ずかしさはかくしようがなく、へたりこんで膝に顔を突っ伏す。
「・・・・・・疑問がもう一つある。そもそも、どうしてそんな条件を飲んだ。いいなりになり、あんな真似を許すような気性でもあるまい。まさか私に迷惑がかかると思って、相談もせずに大総統の条件をすぐさまのんだのじゃあるまいな。もしそうなら鋼のはまだ毛が生えていないといいふらすが」
「・・・・・・・・・・・うぐぐ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・呆れたバカだ」
 鳩尾が染みるように疼く。その疼きは指先にまで伝染して、エドワードにとてもない高揚感をもたらす。
「・・・・・・・・・・さっさと相談しろと、だからいったのに」
 棘をなくした声音が優しく頭上に降る。
 大きな掌でグシャグシャと頭をかきまわされて、今度こそエドワードは目の奥が温む。
 何も終わっていないのに、まるで羽毛でくるまれて眠る子供の頃の幸せを思い出した。