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古めかしい調度品の数々は、ホークアイには値段の想像すらつかない。どこかでみたような絵だと、壁にかかる絵画を眺めているうちに、広い室内にノックが響き渡る。
お嬢さんだとはヒューズの言だが、確かにと内心頷く。入ってきた、幼い顔つきをした女は視線を伏せ、ゆっくりとホークアイへ頭を下げた。
「おまたせしてしまって・・・」
どこか疲れたように力のない声だ。夫を亡くしてまだ間もない彼女は、けれど喪服を着用してはいなかった。きれいなラインのワンピースは、いっそう女を幼くさせている。
「いいえ。こちらこそ、早朝から申し訳ありません。突然の訪問を快く受け入れてくださって大変嬉しく思います」
立ち上がったホークアイを促し、女もソファに体を投げ出すように腰掛ける。
なるたけやわらかく微笑むことに勤め、ホークアイは女の視線を捉えた。どこか怯えたように見えるのは気のせいだろうか。自分の軍服のせいかもしれないと、唐突に思う。
沈黙を先にさえぎったのは女のほうだった。
「何か聞きたいことがあっていらっしゃったのではなくて?」
「・・・・・・・では、遠慮なく。ご配慮に感謝いたします」
女の言葉を即肯定と捉えるずうずうしさは承知の上だ。けれど隠し立てする意味もない。
何より直感がある。
彼女は嘘をつかないだろう。
何故といわれても答えようがないけれど、ホークアイには確固たる自信があった。
「亡くなられた将軍のことです。死因に不審な点がいくつかあり、」
「殺されたんでしょう?私、しってます」
ホークアイの言葉をさえぎり女は、先を続けた。
「いつか殺されると思ってました。いいえ。殺して欲しいと思っていた。でなければ、私が殺していた。だから別に、私に気をおつかいにならないで。あの男が死んでせいせいしているの。あの死を悼む心などはじめからないのですから」
頼りない女の中にこもる、憎悪のようなものを感じる。膝の上に重ねられた華奢な手が小さく震えている。
「・・・・・・・・・・一人の少年が、将軍の殺害事件に重大な関わりをもっているようなのです。なにがあったのか、今はまだ詳しくはわからないのですが。彼はそのことで、今大変苦しい立場にあります。事実をあきらかにして、その子供を助けることを目的に、私は動いています。なんでもいいんです。なにか、関連していると思われる事柄があれば、教えていただけないでしょうか」
「何も隠すつもりはありませんわ。私が知っていることは、全てお話します」
ホークアイの言葉に女は笑い力なく頷く。全てを承知しているような、決意した瞳をして。
「殺されても当然だと思っています。・・・・・・・・・人間じゃないんです。あの人。少なくとも私は毎日同じ家に住んでいて、地獄にいるようでした。吐き気がするほど嫌だった。嫌で嫌で・・・むこうも、そうだったと思いますけど。私18のときにあの男と結婚したんです。そのときは、なにもしらなくて。ただ軍人さんで戦争で手柄を立てられた偉い方なんだって。立派な方なんだなあって思っていたんです。ちっとも笑わない、厳しい人で、軍人さんって言うのは皆こんな風なんだって。外の世界のことを、何も知らなくて・・・」
かすれた声を恥じるように女は、口元を掌で覆う。向かい合って座る、ホークアイと女との間に置かれたテーブルのコーヒーに女は手を伸ばす。震えがカップに伝わる。
長い沈黙だった。それきり口を閉じてしまうのではないかと思うほどの、沈黙。
女は何度も逡巡し、それでも気丈にようやっと口を開く。
「・・・・・・・・・・知らなくて。結婚したら、みんなこんな風に暮らしてるんだと思ってました。結婚って大変なんだって。私だけが特別だなんて思わなかった。奴隷みたいに生きていくことに、何の疑いも持たなかった。殴られたり、そういうのも。普通なんだと思ってたんです。違ったんですね。私、飼われてただけだって、随分たってから気がつきました。・・・・・・・・・・・・なにから、話したらいいのかしら。ある日、シャツに染みが、あって・・・・・・血だってすぐにわかったけど、わたしなんともおもわなかった。どこか怪我をしたのかしらって。口を一ヶ月もきかないことだってありましたから。どうしたのなんて聞かなかったんです。きいたとしても、本当のことは言わなかったでしょうけど。それからまたしばらくして、血の染みをつけて帰ってきた。何回も、そういうことがあって・・・・・だんだん間隔が狭まっていって・・・・なにかおそろしいことなんだって、そのときには気がついていたんですけど、軍人さんだからって自分に言い聞かせていました。訓練とか、そういうことで誰かを傷つけているんだろうって。でも違ったんです。違ってた。・・・・・・・・・・・・・・・子供、を・・・・・・・・・・・・」
視線を宙に漂わせ、女は何か縋るものを探しているかのように見えた。ぎりぎりの淵に立って、踏みとどまろうとしているのだと、ホークアイはただ言葉が続けられるのを待つ。
「・・・・・・・・・・子供を殺していた。血痕をべったりつけて帰ってくる次の日には必ず、町で、暴行されて殺された子供の遺体がみつかった。セントラルでは有名な事件ですから、あなたもご存知かと思うけど。あれは、あの人の仕業なんです。符号が上手に合うことに気がついたときにはもう手遅れでした。あの人は笑って・・・・・私に笑って。酷い言葉と一緒に暴力を、気を失うまで繰り返されました。殺されると思ったんです。私。戦争で手柄を立てるということがどういうことか、その頃にはもうようくわかってました。女も子供も見境なく殺すことが出来る人間を、あの場所では英雄とよぶんだって。あの獣が、戦場では英雄なんですね。私はほんとうに、なんにもしらなかった」
「・・・・・ですが、血痕というだけでは。確かな証拠がなければ」
疑うには弱いのではないだろうかと、言葉を添えたホークアイを女は笑う。
おぞましいほど哀れに。
「あの人はね、殺すだけじゃあ満足できなかったんですよ。自分が殺した証拠をコレクションして悦んでいたんです。反吐の出るような酷い写真を、後生大事にしていましたよ。新聞で見たのと同じ顔をした男の子が今まさに息絶えようとする写真や、喉をぱっくり開かれた女の子のスカートの中とか。それを眺めてにこにこしていました。普通の家庭の父親が子供のアルバムを眺めるみたいに。だから、軍からあの人が自殺をしたってきいて、私おかしくて。自殺なんかするような、そんなまともな脳みそしてないんですもの。お気の毒でした、これからもあなたの生活は保障されますから安心してください生前の将軍はとても立派な方でしたですって。子供殺しの犯罪者が、立派な方だなんて。おかしくって。私、すぐに誰かに殺されたんじゃないかしらって思いました。いい気味だと思った。思って・・・・・・・・それで・・・・・・・」
「・・・・・・・大丈夫ですか?」
夢をみているような、おぼつかない言葉の羅列に、言いようのない不安を覚え我知らず問いかけていた。女は答えず言葉を続ける。
「私、知ってたのに。しってたのに、言い出せなかったんです。いまも、知らないふりをして・・・・・こうやって暮らしている・・・。だから、ずっと怖かった。いつかだれかが、秘密を暴くだろうと思って。ずっとこわかったんです。いろんなことが、怖くて怖くて気が狂いそうでした。・・・・・・・・・ずるいと、お思いになる?」
凶行を知りながら止めようとしなかった自身をか、支配者の亡き後ですら真実を伝えることが出来ない臆病さをか。けれど、それを攻めようもない。この子供のような女が殺人者と暮らす日々はホークアイの想像を絶する。健常な精神が磨耗していく様が、まるでみてきた様に理解できた。
「・・・・・・・その写真は、いまどこに?」
「なんども、捨てようかと。忘れてしまおうかと思ったんですけど。結局出来なくて。・・・・手元にあります。もってきましょうか」
「・・・・よろしいのですか」
それを自分に渡す意味を、本当に理解しているのかと重ねて問う。罪を白日の下に晒す、その意味を。
加害者の遺族という立場はけして女にとって、生きやすくはないはずだった。当人が死亡していればなおのことだ。人々の攻撃の矛先は簡単に、この幼い女へ向くだろう。これ以上の責め苦があるだろうか。
「私がお預かりして、ほんとうに」
「いいんです。黙っているほうが疲れるわ」
本来は、健やかで明るい女だったのだろう。その片鱗を垣間見せて、女は笑いながら疲れたようにため息を一つついた。
「少しでも、誰かの慰めになるのなら私はなんだってします。わたしに出来る、せめてもの・・・・。償いにすらならないでしょうけど。だから、写真をどうされようとあなたにお任せします。あなたは信頼できるひとに見えるわ」
「・・・・・・ありがとうございます。ただ私たちの目的は過去の犯罪行為を明らかにすることではありません。あくまでも、少年を助けることにある。だから・・・」
だから、安心していていいのだとは言えない。必要とあれば、資料を公の場に持ち出す可能性は充分にある。けれどホークアイの続けたかった言葉の先は女に伝わったのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・いいんです。本当に、あなた方の自由にしていただいて。私は、なんでもしますから」
これ以上、この女が苦しむようなことがなければいいと思う。
お嬢さんだとヒューズはいったが、その侮りをすら含む言葉には似合わないと今は思う。
気丈な女だ。そして公平であろうと努力できる女だ。
自分の不利になることがわかっていて行動できる勇気は、言うよりも簡単ではない。
ホークアイは、女が別室から持ってきた分厚い封筒を渡され、頭を深く下げた。
確認しようと封筒に手を突っ込み、束を無造作に掴む。
知らず、息を呑んだ。
その金髪金眼の容姿を持つ少年はすぐに目に付いた。見知った少年の視線のあわない写真の、正気とも思えない数は、男の少年への異常な執着ぶりをうかがわせる。
撮影を本人が知っていたとは思えない。セントラル、駅、宿、あらゆる場所であらゆる角度でとられた写真の数々は、見るものの恐怖を誘う。
「エドワード君・・・」
呆然とし。同時に確かなつながりを確信する。
死体と確かに判別できるものや、泣き叫ぶ、生前の見知らぬ子供たちにまぎれて。
男の、確かに狂気に足を踏み込んだ陰湿なコレクションに混じり、エドワードエルリックがそこにいた。
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漆黒の夜の端に、群青が染みていく。夜明けまで、あと幾らもないのだろう。そして朝日が差し込む頃には一体、自分は何人の命をうばっているんだろうと、ハボックは考えるだけ無駄な想像に支配されていた。
軍用車両のなかでは誰もが息をひそめて、身を固くしている。戦闘前のこのびりびりとした、糸の切れる瞬間のような緊張がハボックは好きだ。胸騒ぎすら心地いい。今から自分がどこへ行き、なにをするのかを考えることすら許さないような、神経を圧迫する感覚。
手になじむ銃の感触をもう一度胸元に確かめてから、ハボックは傍らでやはり身を縮める子供を横目で確認した。明りの下でみた、この子供の顔色はあまりよくなかったように思う。こうして暗がりでも、やはりその色の白さは目立った。がたがたとゆれる車に酔いでもしただろうかと、ふと気がつく。
「おい。大将、大丈夫か?」
「なにが?」
思ったよりも気丈な返事が返り、エドワードは顔を上げた。ハボックが見る限り、その顔には緊張など微塵も浮かんでいない。
「いや。酔ったりしてねえか?」
「なんだよ少尉、そんな子供じゃねえよ」
唇を尖らせる、その様は言に反して、充分エドワードを幼くさせている。似合わない軍服は少々大きめなのだろうか、袖が余るらしく掌を半ばまで覆い隠している。
「そのわりには軍服。サイズあってねえな?」
からかうように笑うと、エドワードは途端に反発して歯をむいてみせた。
「ちいせえとかゆうなよ・・・!ここで先に一戦やらかすことになるからな・・・!」
威勢のいい啖呵に、ハボックは笑う。押し殺した声は思わず車内に響き、他の兵士からも一瞬の注目をあびてしまった。たしかに、この十数人が詰め込まれた車のホロの中で、エドワードとハボックの二人ははじめから大層目立っていた。注目されるのも、今更だろうか。
「いやいやいや、思ったより元気そうじゃねえか?てっきりしょぼんとしてっかと思ったら」
「・・・・・・・・・・・・・なにが、なんで?」
「心配してんだぜ?これでも。お前、泣きそうな顔してっから」
「はあ?!オレが、いつ、」
「駅降りてすぐ。オレらと目もあわせねーし、似あわねー軍服きて、かしこまってさ。お前、そんなキャラじゃねーだろ?なんかあったんかなって」
自分でも覚えがあるのか、エドワードは気まずげに視線をそらす。膝を抱えなおして、縮こまればいっそう場違いだ。子供のコスプレみてえとハボックは思う。
「中尉も少尉も・・・・・・・・・・・・・・・・・大佐も。も、すげーお節介。過保護。うるさい。余計なお世話。なんなんだよほんとに。オレがどーしよーと勝手だろ」
「まあでも。・・・・・・・・・・・・・頼れよ。な?」
「・・・・・・・・・・・・」
沈黙を返したエドワードに、言い出そうかどうしようか迷っていた言葉を歯切れ悪くハボックは押し出した。
「大佐となんかあったのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんで」
途端に身をわずかに硬くしたその反応は、何よりも雄弁にそれを肯定している。
「大佐はずっと機嫌悪いし、作戦指示されてもお前はそっぽ向いてろくろく返事もしねえし、大佐はさらに大人気なく大将を無視してるっぽいし。コレで、なんもないとかいうほうが無理だろ。大将熱出したんだって?あの日になんかあったんじゃねえのか」
畳み掛けるようなハボックの問いに、小さく笑ってエドワードは首を振る。口が堅いのも強情なのもしっているけれど、いまは少々は歯がゆかった。手を差し伸べることすら許さない、その傲慢さを嫌いではなかったけれど。
少しでも手助けしたい気持ちを汲むことが出来ない、それはどれだけ残酷なのかこの子供は知らないのだろうか。
「今、そんな話してる場合か?少尉、そんなんで大丈夫かよ?」
なんでもなかったように、エドワードは軽口を聞く。その表情に、問い詰めることをやめてハボックも冗談交じりにかえした。今、自分が聞く必要はない。あの性悪の上司が誰より有能なことは自分が知っている。そしてこの子供を、過度と感じるほど実は心配していることも。
まかせときゃいいか、と口には出さずに、ハボックも口の端に笑みを浮かべてみせた。
「いったな。お前こそ大丈夫かよ?戦闘なんか参加すんのはじめてだろうが。びびってねえか?」
「・・・・・・誰がびびんだよ。だっせ。少尉こそそんなこといってびびってんじゃねえの?」
「オレ?オレはびびってるぜ。いっつも」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「人の命を奪うのも、奪われるのも怖いからなあ」
「・・・・・・・・・・・・・・・ひところすって、どんな感じ」
不意にトーンをおとして問う真摯さに、ハボックはすぐには返答できずにだまりこんだ。けれど流石に無神経な問いであることに気がついたのか、エドワードは言葉を取り消そうと慌てた。
「ごめん!・・・・・あの」
「・・・・・・・・・・大将は知らないほうがいい。知らないほうがいいことだって、世の中にはあるんだ」
目の前の優しい男が、手になじむ銃器で人の命を奪う様はどうしてもエドワードには想像できない。
けれどかえされた言葉は、命を奪う意味を充分に知っている男のものだった。
少尉も、夢にみる?
殺した人が枕元で覗き込む?
気配をいつも感じる?
「・・・・・・・・・・オレが守ってやっから。心配すんな。どうせ雑魚の集まりだ。すぐに終わらせて帰ろう。・・・・心配しなくていいからな?」
ぐしゃぐしゃと、大きな掌に頭をかき回されてエドワードは抵抗できずに頭を預けた。どうしてもぬくもりに飢えていることを実感して情けなくなるけれど、今だけだと甘える。
エドワードは口中で何かを呟いた。ハボックの耳には届かず、聞き返すのにも、子供は首を振るばかりだ。
思えば、そのとき既にエドワードの決意は固まっていたのだ。
「何か言ったか?」
「ううん。別に」
手に余る鉄の塊を改めてエドワードは握りこんだ。