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男の虚ろな眼窩は何もうつさず、ただエドワードを見下ろしている。濁った、瞳孔のひらいたその網膜の先に暗澹とした地獄のようなものが広がってる。こけた頬が時折笑うように歪むのは、胸にあいた大きな穴がひきつれるせいだろうか。ぼたぼたとこぼれる腐った血が、顔中を濡らし唇から胎内に侵入するのだ。妄想なんだとわかっていても、その不快感はどうしようもない。エドワードはありもしない血液を、力なくぬぐった。
夜になれば、男は必ず現れた。
気がつけばテーブルの下からエドワードを、物言わず見つめつづける。
カーテンの隙間からのぞく。
だれもいないバスルームに影がたゆたう。
薄くあいたドアの隙間から、あの死んだ魚に似た眼だけがのぞく。
ベッドの下の気配。
無人の廊下を歩く、姿なき足音。
与えられた軍指定の宿の一室で、エドワードは毎晩ろくに眠れぬ夜をすごす。アルフォンスがいてくれればと、痛烈に思う。
これが、自分の罪悪感が見せる幻だというならば、なんてリアルなんだろう。
指を伸ばせば、死人の乾いた冷たい皮膚に触れることすら叶うように思う。
オレに、まだあんたが持っていくほど価値があるような、何かが残っているのならばもっていけ。
償いになるのなら、なんだってやるのに。
なかったことになるのなら、なんだってするのに。
熱に浮かされながらエドワードは、覗き込む男を見つめ返した。
恨み言を言うでもなく、男はいつものように青白い顔で無慈悲にエドワードを見つめ続けている。
無性に吐きたい欲求に駆られたけれど、立ち上がることすら出来なかった。昨日軍からこのホテルへの帰途へついた直後から、自分をコントロールすることすら出来ない高熱に襲われた。流石の大総統閣下も、昨日ばかりはご奉仕を免除してくださったらしい。笑おうとして、咳き込む。
ロイのことを思おうとして、やめる。
泣こうとして、笑う。
がちがちと歯をならしながらエドワードは体をシーツの中で丸めた。40度近い体温は、異常な凍えをもたらした。大きすぎるベッドにしかれたシーツをかき集めるけれど、温もりは皆無だ。
このまま死んだらと、一瞬頭をよぎった。
死ぬことばかり考える自分はどんなに惨めでみっともないんだろうか。
だって、何にもないんだ。
いまのオレは何にももってないんだ。
ほら。
オレはとうに気が触れている。
覗きこむ男の顔をいつしか、大佐にすげかえている。
都合よく。
夢の中でくらい、笑ってくれたらいいのにな。
そんな怖い顔、しなかったらいいのに。
昨日は、沢山悲しかったんだ。
オレは、あんたに優しくしてもらって嬉しかったのに、あんなみっともないとこ見られて。
なのにアンタは怒ってすらくれなくて。
殴ってくれるのかと思ったんだ。
そうしたら少しはすっきりする気がした。
ああ、ちがうな。
どうしてオレは、あの時追いかけたんだろう。
どうして汚い手で、大佐の軍服に触ってしまったんだろう。
ああ、ちがうな・・・。熱と過労が、思考能力を混乱させている。
何にも考えられない。
なんにも、かんがえられない。
ただ、アンタがすきだと思うだけ。
いまそばにいたらいいのにな。
そしたら。
ああ、ちがうな。
すき。
しにたい。
死。
殺した。
オレが殺したんだ。
「・・・・ごめんなさい」
うまく動かない指をほとんど衝動に任せて、ロイの顔をした男へと伸ばした。軍服の裾を掴み、ベッドに引き倒す。熱に浮かされた頭で、その体の温かさに、ほとんど無意識で縋りつく。息を乱しながらエドワードは男の唇に、自らのそれを押し付けた。
わけもわからず、男の唇をついばむように愛撫し、溶け込もうとするように舌を差し出し、男の歯列を割る。唾液をのむことすら出来ずに、エドワードの口の端から滴るそれが男に伝う。
「エドワード」
戸惑ったような声がおかしかった。笑いながらエドワードは男のズボンに手をかける。反応のない口付けでも、嬉しくて、何度も何度も重ねてしまう。かあさんのくれたキスを思い出しながら、優しく伝わればいいと、何度も何度も繰り返す。
大佐。大佐。大佐。大佐。
「たいさ」
下半身はとうに熱を持ってしまっていて、エドワードの下着を押し上げている。それを本能のままに男の立てられた膝に押し付けて何度かこすりつければ、性器がじんじんと疼いた。はしたない仕草は、我知らずに覚えたことだ。指を伸ばし、男のチャックを押し下げて中をまさぐる。
「たいさ」
息を呑む音が聞こえて、エドワードは笑った。笑うしかないと思った。笑う以外に、オレにできることなんか何一つない。大佐はもうオレを見捨てるだろう。ゴミでもすてるように、オレを捨てるだろう。
笑っていて、何が悪い。
オレはこんなにきたない人間です。
アンタとする夢を、何回も見ました。
アンタを思って何回も自慰しました。
アンタがすきで、アンタの顔を何回も想像してました。
虚実が入り混じって、俺の頭はぐちゃぐちゃだ。
「・・・・っ」
引きずり出した男のモノに、そっと指を這わせる。その部分の熱に引き寄せられるように、掌で握りこむ。何度か上下に動かせば先端がぬるつきはじめた。ああ粘膜だとエドワードは無意識に思い、口を寄せた。
あの男にしてやるときとはまったく別の衝動だ。吐き気を堪えるために喉の奥を締め付ける必要がない。
皮膚がはりつくほど、一緒にいたいな。
ここからとけて、オレが、アンタの養分になったらいいのにな。
「鋼の・・・っ」
途端に突っぱねるように頭を引き剥がされ、エドワードはベッドの上に力なく転がる。口の中に残る苦味を飲みくだす。喉の奥の、ひきつれたれた部分が和らいだような気がした。
「・・・・・・させてよ」
泣き笑いのような、みっともない顔に多分なっているんだろう。
夢の中でまで、嫌わないで。
ロイは、怒ったような顔でエドワードを見下ろしている。けれどその表情に妙に安心してエドワードは笑うことが出来た。寒さに耐え切れずにロイに身を寄せる。押し付ければ、硬いままの果実が男の腿に触れた。男の手をそこに導く。
「たいさ・・・・」
ロイは唸り、少し乱暴にエドワードの下着の中に指を差し込んだ。すでに蜜を零しているそこは、ロイの指が触れた途端いっそう強く張り詰めた。その滑りをかりて、ぐちゅぐちゅとしごきたてられる。
「・・・・・っん・・・・!っ!」
吐精の瞬間はあっけなく訪れた。強く先端を弄り、裏筋をなぞられて、エドワードの性器は簡単に精液を漏らす。下着の中で、白濁がにじむ。
エドワードは人の手による快楽の凄絶に、びくびくと体を揺らした。
意識をほとんど手放しかけながらも、ロイの軍服の裾を掴んで離すまいと指先に力を込める。
いかないでと呟いたような気がする。
ロイは、高熱にうなされる子供の下肢の後始末をしてやりながら、忌々しそうに唇をかんだ。子供はロイの軍服の裾を掴んだまま離そうとしない。
「皺になるだろうが」
悪態をつき、温かく湯気をくゆらせる濡れタオルで丁寧に子供の額をぬぐった。
途切れ途切れに、必死に何かを口中で喋っている。
よく眠れないのだろう。あまりに酷い熱に、ロイ自身途方に暮れる。看病などしたこともない。
けれどこんな状態のエドワードを誰かに任せることなど、できるだろうか。
無理やり指を軍服から引き剥がし、少しでも寒気がおさまればと手配した毛布や新しいシーツで、これでもかというほどくるんでやる。がたがたと震えながら、子供はそれでも完全に意識を手放すことをしない。
たいさ、とかすれた声で呼ばれ。
不覚にも性欲を刺激された。
これでは、あの男と一緒ではないかと思うと同時にエドワードへの強い怒りがわいた。
それなのに、あんな表情をされては。
笑いだしそうな、泣き出しそうな、みっともなく、必死に縋りつく、あまりにもらしくない顔に全ての抵抗する力を奪われた。
「怒るに怒れんだろうが。バカモノ」
額を小突いてやり、首周りにしっかりと毛布を押し込む。
「・・・・情けない顔をするんじゃない」
うっかり見舞いになど来るものじゃないなとロイは嘆息する。こんなことなら、ハボックに無理やり仕事を押し付けたりせずに、真面目に仕事にいそしめば良かったかもしれない。そうしたら、こんな風に複雑で妙な同情にかられることもなく、いまも怒りに任せていられただろうに。
エドワードが欠勤したと聞いて、仕事半ばに放り出してきた。二人きりで話すチャンスはこれが最後だろうと思ったからだ。
きてみれば、この小僧はロイがいままで見たこともないような高熱を出しているし。
熱に浮かされて、欲情するし。一体どういうつもりで。
大佐、と確かに発音していた。聞き間違いでもないだろう。。
まさか、この子供は自分のことを好きなどというのじゃあるまいな。
ハボックの言葉が一瞬脳裏をよぎった。ばかな。あいつがいった「すき」は親愛の意味であって恋愛のそれではないはずだ。
いらいらする。
気分が悪い。
とにかく気分が悪い。どうしてこんなにも気分が悪いんだろうか。
この子供はいつもロイの感情をかき乱す。
ちょびヒゲでも書き込んでやろうか。
「・・・・・さ」
名をよばれたような気がして、ロイは視線を落とした。虚ろな金の双眸が、熱で潤んでいる。
「・・・・・・いさ」
「なんだ」
無愛想な返答に、エドワードは泣きそうに真っ赤に顔をゆがめている。
「・・・・・・いっしょに、いてよ」
「無理だ」
「・・・・・あのおとこが、いつも、オレをみてるんだ。ねれないんだ」
「閣下のことか」
「どうして、だれもオレのことおこんねえの。おこんねえの?なんで?オレがころしたのに」
「・・・・・・・・殺した」
「なんで、あんたは、オレにころされたのに、おこんねえの。やめてくれよ。どっかいけよ。ほしいもんがあれば、なんでもやるから。うででもあしでも、やるから。オレをもとにもどしてよ」
「エドワード?」
がくがくと、寒さだけではない異常な震えに歯の根をがちがちとあわせ、子供は怯えた様に自らの体を抱く。目の前にいるのが、だれなのかもわからない様子だった。ロイは、何も出来ずにその右手を取り握り締めた。鋼の右手は驚くほど冷たい。そのことに一瞬ぞっとして、ロイは力を込めなおす。
「かえしてよ。オレをかえせよ。もとんとこに、かえせよ。どっかいけよ。もうやだ。もういやだよ」
「エドワード」
「・・・たいさに、きらわれたんだ。オレ、捨てられるんだ。汚いから。やくにたたないから」
「・・・・・」
「どっかいけよ・・・・」
力なく、ロイの指を振り払いエドワードは意識を唐突に手放した。
ロイは不機嫌そうに眉を寄せた。。
殺した、か。
偶然以上の符合に、心底吐き気がした。
仕事に戻ろう。
今の自分に出来ることは、それ以外にないのだから。
詳細は、間をおかずに明らかになるはずだ。なにせ、自分の親友と副官は有能だ。
手を離しがたい自分を抑え、ロイは立ち上がった。
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ホークアイは机の上に投げ出された紙面に一通り目を走らせて、氷点下の視線をハボックへ向けた。
「遊んでいる暇があったら働いてもらえるかしら?」
「だ、だって!中尉!」
「直訴状?くだらない。大佐に言いたいことがあるのならば直接いったらどうかしら」
そこにある稚拙な文面にため息すら覚えながら、ホークアイはその白い指で紙をにぎりつぶした。
その1・大佐は八つ当たりをしないこと
その2・フュリーを必要以上にいじめないこと
その3・急に勤務交代を押し付けないなど、ハボックの心の叫びがそこには淡々とつづられている。
「誤字脱字をなおしてから、出直してらっしゃい」
「・・・・昨日、なんかあったんスか」
「・・・・・・・・さあ」
「あまりの怒りの波動に、曹長なんか失神寸前でしたよ。ぴりぴりぴりぴり。中尉も何があったかきいてないんスか」
「ええ」
たしかに昨日、執務室へ赴いて後のロイの怒気をはらんだ気配にはホークアイも息を呑んだ。あの上司が戦場以外で、あれほどの怒りや殺意にも似た攻撃性をあらわにしたところは見たことがない。ホークアイですら、息を呑むほどの。
「今日は今日でエドワードは欠勤、大佐は突然夜勤宣言。・・・・オレらになんか内緒で中尉は動いてるみたいだし?」
のんびりしているようで聡いハボックの、キシシシシというガキ大将がそのまま大きくなったような笑顔に、仕方なくイエスの代わりの苦笑をかえす。
「詳細は、トップシークレットですから」
「・・・・了解」
「大佐!」
彼らしくもなく、興奮したようにフュリーが室内に飛び込んできた。両手に余るほどの資料やコード類をかかえている。目当ての上司の存在を確認できずに、きょろきょろと辺りを見回している様は、さながらリスやネズミのような小動物を連想させる。
「大佐は」
「今日は夜勤です。多分あと一時間もすれば出勤されると思うけど。どうかしたの?」
「反乱軍の名称および、その所在を確認しました!」
えへへ!とでも続けそうなフュリーの声音に、室内がいっせいに緊張する。
「では大佐が見えたらすぐに報告を。作戦本部にはすでに通達してあるわね?」
「勿論ですとも。因みに、ぼくの手柄です。最新の電波傍受機器と手製の盗聴器が功を奏しまして」
ホークアイはその言葉に、普段の無表情からは想像も出来ないほど表情をほころばせた。
「お疲れ様。大佐のご機嫌も、少しは治るのじゃないかしらね?」
戦闘間近だと、ホークアイはもう一度わらった。