3
雨はきらいだ。
ろくな思い出がないし、何よりわけもなく気分を沈鬱とさせる。
手袋をしたままの指先で窓をなぞれば、曇りガラスの向こうには見覚えのある景色が広がっていた。列車の揺れに体をまかせながら、エドワードは頬杖をつき、イーストシティに続く平野をただ無感動に眺めた。濡れた指先を不快に思いながら、身を縮める。
「酔ったのかね?」
真向かいに座るキングブラッドレイが穏かに問う。
酔うも何も。先ほどまでこの個室でわざわざカーテンまで引いて、いつものように口を犯された。
慣れつつある自分が何より疎ましい。
口中に残る独特の苦味は、今だ胃の腑に不快感を残している。
暇さえあれば、ブラッドレイはエドワードを嬲った。犬のように這わされ、しゃぶらされ、時には彼自らエドワードの下腹部をもてあそぶこともあった。だんだんと矜持は磨耗していき、ああ確かにコレは有効な手だなと冷静に納得する。繰り返し行われる、下卑た行為は疑問を持つことすら許さない。
段々と自分が考えることを止め、抵抗する気力を失い、感情を失いつつあることに、エドワードは心底恐怖した。
コレに慣れて矜持を失い希望を失い、飼い殺しにされてゆく。
シチュエーションを盛り上げてんじゃねえよと雨に毒づく。テンションが無駄に下がるだろーが。
(こんな日は、死にたくなる。)
嘔吐を必死でこらえ、エドワードは窓の外を眺めた。
アルフォンスはどうしているだろうか。
理由を告げることすら出来ず、一人リゼンブールに追いやった。それでも、つないだ手を離したのはこの自分を信頼してくれていたからなのだろう。最後まで、心配しながら「なにかあったらすぐ呼んでね」といっていた。その信頼を裏切っている自覚がある分、まともにアルフォンスを見返すことも出来なかった。
どれだけ不安でいるのかを考えれば胸がつぶれそうになる。
アルフォンス。それはエドワードにとっては特別の名だ。唯一、エドワードを正気へ繋ぎ止めているものがあるとすれば、あの魂だけの弟の存在だった。
弟を元のからだに戻すこと。
それだけがエドワードの生きる支えであり、理由だ。
そしてなぜだかふいに、あの男の顔がよぎり。
エドワードは、再会が近づいていることに怯えていた。
荒野ひた走る列車は、線路を辿りイーストシティの中心部へと続いてゆく。
自分は、あの男にあった時に、どんな顔をするだろうか。
「着いたようだな」
促され、言うことを聞かない体に鞭打ちながら立ち上がる。ブラッドレイの背後に付き従い、イーストシティのプラットホームに降り立つ。ひさしぶりに触れる東部の空気は、中央に比べ冷たい印象だ。長雨に疲弊した人々の群れが行きかい、軍人の塊を避けながら好奇にみちた視線を送っていく。
ふと視線を上げると、数メートル先に見慣れた軍服の一団が視界に入った。
背中を誰かに押され、エドワードはよろめく。体勢を整えながら、ブラッドレイの背後で居住まいを正す。
あちらも到着に気がついたらしく、一人の男を先頭に、隊列を乱すことなくブラッドレイの前に居並んだ。
「お待ちいたしておりました」
最敬礼をする、そのピンと伸びた指先。雨に濡れたのだろうか、雫を滴らせる毛先はいっそう黒く、見るものに鮮烈な印象を与える。その低めの穏かな、けれど厳しい声は、エドワードにとってはあまりに懐かしかった。
もう何年も会っていないかのようなかつての上司を、まともに見ることは叶わずエドワードは駅のホームの薄汚い石畳の隙間だけを見つめている。ロイの背後には、見慣れた面々が付き従っていた。けれどその誰一人ともまともに目を合わせることすら出来なかった。昔は、東部を訪れるたびに帰ってきたという実感があった。けれど、かつての感情はまるで空々しく他人事のようにしか感じられない。
「ふむ。出迎えご苦労。マスタング大佐」
鷹揚にブラッドレイは手を上げてみせ、両手を後ろに組みなおす。
「到着がいささか遅れてね。待たせたようだな」
「いえ。この雨ですから。長旅お疲れ様です」
社交辞令の応酬に口を挟む必要はなかった。所在なさげにただ立ちすくみ、エドワードは視線を漂わせる。
目の奥が不意に温み、圧迫感を覚える。
(会いたかったんだ、オレ)
ごまかしようもなく純粋にそう思う。
会いたかった。たとえどんな状況でも、ここがどこでも、彼が自分を裏切り者だと思っているのだとしても。
会いたかった大佐。
どくどくと、体中を血が駆け巡る。冷えた指先が熱を持つ。
はじめは、わからなかった。
恋だとか、そんなものはしたことがなかったので。
初めて会ったのは11歳のときだ。
手足を失ったばかりで、暗澹と血の匂いばかり嗅いでいたように思う。乱暴に引きずられ鮮烈に怒鳴れらた。
12で再会。国家資格を取って、あの男の下に配属された。
13でいいように扱われ、散々振り回された。
14で経験値をそれなりに積んだ自分たちを制約のもと自由にしてくれた。
15で気がついたら、夢中になっていた。目で追い、指が触れれば頬が熱くなった。言葉のいちいちに一喜一憂したり、怒ったり怒鳴ったりした。賢者の石を探すなんて、途方もない目的にも笑わずに情報をくれて、協力してくれた。自分はずっと子供で、何の見返りもない彼の好意に、罵声をかえしたり嫌味を言ったりそんなことしか出来なかった。彼の前では、自分達は子供らしくいれたように思う。気を張ることもなく、枷もなく、自由で居られたように思う。それが自分だけではなくアルフォンスにとっても救いだったことは、なによりエドワードにとって支えになった。
たまに笑う、その顔が好きだった。
端正な顔をぐしゃぐしゃにしてわらい、エドワードの頭を撫でたり、アルフォンスに冗談を言ったりする、変な大人。優しいだけの男ではなかったけれど、だからこそこんなにも魅かれるのだとおもう。時折、彼に飛来する戦争の断片や残酷な思考、人間らしい感情の欠落を感じるときですら、いとおしかった。
どこがときかれたら、上手に答えることは出来ない。
けれど、指の先まで震えるほど、ロイの言葉一つ一つはエドワードの心を揺さぶった。
アンタがスキだっていっておけばよかった。
こんな子供から告白されても嬉しくもなんともないだろうけど、あの頃の自分には、そんな他愛のない情を渡すことくらいは出来たはずだったから。
今となっては遅い。それがなによりもエドワードを苦しめていた。
伝えることも出来なくなってから、気がつくなんて。
オレはほんとにバカだ。
いつまでも子供のままで、11歳のあの時から、何にも変わっちゃいないじゃねえか。
*********
「東部で不穏な動きがある」
そう切り出したブラッドレイに、わずかに動揺を見せたことを内心歯噛みする。奥歯を、悟られないようにかみ締めながらロイは居住まいを正した。
これは、ただの視察ではないということか。
少なくともそんな話は自分にとっては初耳だ。真偽の程は別にして、それで、と得心が行く。
今回の視察に際して、ブラッドレイが中央から連れた部下は、名の通った国家錬金術師数名、白兵戦のプロとされる第十三師団、その長である将軍など、ただの警護に当たるには仰々しい面々だったからだ。
「諜報部のものが幾人か帰ってこないままでな。殺されたか素性が知られて捉えられているのか。最後の交信の際に伝えられたことは、東部に反乱軍が潜伏しているらしいという事だけだ」
「・・・・・・それでは今回の視察の目的は」
「その組織の壊滅及びそれに属する不穏分子の抹殺だ。東部自体に関して、特に私は心配などしとらんよ。君を信頼しておる」
「は。光栄です」
「武力を用いた反乱軍の蜂起に際し、軍、治安当局の拠点及び政府要人の住居、放送・通信施設等の襲撃にそえなえよ。そしてこの10日で結果を出したまえ」
10日で全ての結果を出せと、反論すらゆるさず、傲然とブラッドレイは言い放った。出来なかった場合という選択肢ははじめからないらしい。
10日という期限はけして長くない。最悪の視察だと、ロイは呪わしく腹の底に力をこめる。
しかし表面上は穏かに返事を返し、頷いてみせた。
そうする意外を男は許さない。
「それではその情報の真偽を確かめ次第、追ってご報告いたします」
敬礼を返せば、ブラッドレイは傍らのエドワードに今はじめて気がついたように視線をやる。
エドワードは、駅に到着したときからずっとうつむいたままだった。そのことが、何故か腹立たしくロイも視線を合わせることはしなかった。
「エルリック少佐も今回の作戦へ参加してもらう」
ふともたらされたその言葉に、ロイもエドワードも顔を上げた。
「情報が真実ならば戦闘になること必死。国家錬金術師のうちでも名の通った、焔にくわえ鋼が参加すれば下級兵も心強かろう」
「戦闘に、彼をですか」
「うん?不満かね?」
「いえ・・・・ただ、少佐はこれまで戦闘への参加経験がありません。正直足手まといになるのでは」
「マスタング大佐はなかなか手厳しい。しかし、いつまでも引っ込んでいるわけにもいくまい。手柄を立てれば、いわれのない陰口も少しは収まるのではないかね?」
耳に入らないことなどないというわけか。
地獄耳にも程があるだろうと、ロイはもう一度奥歯をかんだ。
視線を上げ、エドワードを見やる。
呆然としているように、見えた。
初めてまともに交わった視線はすぐにそらされ、エドワードはまたうつむいて、手にした書類を抱えなおす。
「・・・・・・・彼はお役にたっていますでしょうか。なにぶん監督が行き届かず」
「うん?おお、そうだな。勿論。なにせ優秀でな。・・・・・役に立っている」
何らかの含みがあるように思われる。邪推しすぎなのだろうか。
「安心いたしました。・・・・・では、しばらくお時間をいただければ。任せていただいてる自地の異変に気づかなかった不手際、申し訳ありません。こちらに作戦本部を設立し、情報が確定次第軍議を開き作戦を決定いたします」
「うむ。期待している」
敬礼し、背を向ける。自分がいつも使用している執務室に敬礼して退出するのは、妙な感覚だった。
フルダヌキめ。
わざわざしゃしゃり出て、あらさがしか。
不快感を飲み下し、頭を下げる。
扉を閉める瞬間、エドワードと目が合ったような気が、した。