オレンジ色の侵食は、人を否応もなく憂鬱にさせるものらしい。段々と青に染みて、無駄にセンチメンタルな気分にさせる。ロイは体を、投げ出すように椅子に預け眉根を寄せた。こうして太陽が落ちれば夜が来て、そして朝がくる。そうしてまたデスクワークの一日が始まるだけだ。
 殲滅戦を思い出すのは、不謹慎にもこういうときだ。
 仕事に疲れているとき、思うようにいかないとき、不必要にいらいらとしているとき。
 炎の感触を掌に覚えて、ロイは両手を握り締めた。
「・・・・おつかれーっス」
 負けず劣らずにくたびれた声を聞かせて、ハボックはロイの真横に腰を下ろした。どすんと勢いよく体を投げ出した部下を、眉を寄せることで非難する。
「・・・・・すんません。大佐は今日はもうあがりですか」
「そうだ二日続けて徹夜では身が持たんからな。お前はまだ残業だろう」
「はあまあ。アーオレも帰りてえ」
「お前はたまには頭を使ったほうがいい。だからもてないんだ。ちょっとガタイが良くて金髪でたれ目だからといって、そのままでは持ち腐れだ」
「・・・・宝のっていう語彙はつかないんスか」
 首を傾げるように隣をうかがえば、自分で言ってて恥ずかしくないかとでもいわんばかりの上司の視線にまともに出会い、ハボックはうなだれるしかない。
「で、大佐は何でこんなとこに?」
「タバコでも吸おうと思って」
「珍しい。・・・・で、そのタバコは?」
 空の両手を見つけ怪訝な表情をするハボックの軍服の内側を、ロイは指でさした。
「ここだ」
「ここだって・・・・・・アンタのタバコは歩いてくるんスか」
「なんだ一本や二本でけちけちするな。何も一箱よこせというんじゃあるまいし」
 内側のポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出し、ロイに差し出す。意外にも器用にそれをくわえて見せ、ロイはタバコの先端を差し出した。ハボックが火を差し出せば、親しんだ紫煙があたりに漂う。
 自身もタバコをくわえながら、ハボックは窓の外の夕暮れに目を奪われたように「きれいっすね」と、ロイとはほとんど真逆の感想を漏らした。
「まずいきつい苦い辛い。それからなんだ。生暖かい」
 散々ないい様に、けれど人のを吸っておいてその言い草はとは反論しないハボックは、流石にロイとは長い付き合いだった。
 この上司は、ここの所どうも機嫌が悪い。
 その理由はわからないでもないけれど、それをあえて口に出すこともない。
「生暖かいのはしょうがないでしょ。それにもう、軽いのじゃ全然吸った気にならないんスよね。ニコチン中毒なんで」
「まあな。徹夜明けの頭には確かにこのくらいがキく」
 疲れた表情をしてみせ、ロイは何度か頭を振った。
「24時間デスクワークをしてみろ。そのうち幻覚と幻聴に襲われて、手は震えるは、めまいはするは。そのうち痔になる。そうなったら労災申請して一週間くらいまとめて休んでやる」
「・・・・・・・泣かせるはなしっすね」
 黙ってれば男前でもてるんだろーがなあ。本人が言うほど女に興味がないことももてるわけでもないことを知っている部下としては、こういうときに切なくなる。この悪辣な毒舌は、相手が女だからといって容赦される種類のものではなく、基本的には全方位発射なのである。面と向かって、「肩の上のそれは埃かファンデーションかフケか、はっきりさせたまえ」といわれて泣いた女性下士官を、ハボックは知っている。まあ確かに、TPOも選ばず厚化粧をしてきた女の無神経さにはハボックとて腹を立てていたのだが。
「家まで送れ。ここにいるから支度して来い」
「イエッサー。・・・・・・・・・あ」
 ふと言いよどみ、ハボックは歯切れ悪く続けた。
「の、ちょっといいすか」
「なんだ」
 早々にタバコを灰皿に押し付け、ロイは視線を上げもせずに返事をよこした。それに構わず、ハボックは二本目のタバコに火をつけながら、声をひそめながら切り出した。
「大将のこと何スけど」
 ぴり、と一瞬にしてロイの周りの空気がいびつに軋む。表情は変わらないままだ。それだけにハボックは、緊張しながら続きを口にする。
「・・・・評判わりいっすよ。セントラルでも、ここ東方でも。だいぶたたかれてるみたいで」
「たたかれたくらいでへこむタマかアレが。せいぜい縮むくらいだ」
 全ての段階をすっとばして東方から、大総統府大総統付きの秘書官として出世したエドワードの異例の人事は記憶に新しい。ある日突然、あのコドモはセントラルへ出向し、そしてそのまま帰らなかった。
 初めて聞いたときは、ロイは何かの間違いだと思った。
 出発前には、まるでそんなそぶりなど見せなかったのだから。いつものように、軍の狗はめんどくせえ、さっさと手足を取り戻してこんなとことはオサラバだ、クソ大佐ごきげんよう、オレらはそのまま旅に出るからしばらくお互いムカつく顔見なくてすむなと、こ憎たらしい笑みを浮かべて出て行ったのは、ついこの間のことのようだ。
 それがどこでどう間違えば、大総統付きの秘書官になるんだろうか。
「全く、だまされた。子供コドモだと甘く見すぎていたようだな。敵は身近なところにいたようだ」
「敵つうか・・・・・どう考えてもおかしいでしょ。あの大将がですよ?出世とは一番遠いとこにいるじゃないっスか」
「鋼のも15だろう。野望に目覚めてもおかしくない年頃だ」
「そうスか?オレが十五の頃といえばナンパするか友達とノッパラで軍人ごっこやるかで、人生を楽しく謳歌してましたけどね。大佐は15の頃なに考えて生きてたんすか」
「その頃には士官学校の試験の追い込み真っ最中だな。勉強して勉強してぶっ倒れて勉強だ」
「でしょー。とりあえず、15で手足がもげたり弟が魂だけになったり母親が病死したり父親は行方不明なんてことはなかったわけですけど、大将だって,そんなに差はねえとおもうんですけどね」
「何が言いたいんだお前。回りくどい言い方するな。はっきり言え」
 じろりとにらまれて、ハボックは苦笑するしかない。この頭の異常に回転のいい上司が、たかが自分の言うことくらい予想がつくだろうにと思えば笑うしかないのだ。
「ハメられたんじゃねえかなって・・・・まあ、勘っす」
「ハメられて、昇進できるならば私だっていくらでもハメられてやろう。筋の通らないことを抜かすな」
 当たり前といえば当たり前の指摘に、けれど歯切れ悪く、ハボックは頭をかいてみせる。
「そうなんすけど・・・・。なんっつったらいいんスかね?あーなんかこう、納得いかねえっつうか。ここら辺がいらいらするっつうか」
 胃の腑の辺りを押さえてみせて、ハボックはタバコをくわえなおした。
「凄い噂になってるんスよ。大佐とエドワードと大総統の爛れた三角関係とかっつって」
 今度こそ、馬鹿にしたような目で上司ににらまれ、あわてて言葉をつぐ。
「俺が言ってんじゃないスからね!だから!噂で!・・・・大佐と付き合ってたエドワードが大総統に乗り換えて、体を使って昇進したんだとかなんだとか」
「それこそ馬鹿馬鹿しい。そんなことで昇進できるようなら!以下同文!口に出すのも煩わしい。そもそも優秀な子供だ。希望さえ出せば、大総統府の秘書官くらいの地位は簡単に叶う。出世したくなったんだろうよ。煩わしい弟を捨て、軍人として成功すれば一生身は安泰だ。賢い選択だと思うがね。それに誰があんなへちゃげた丸裸の小鳥みたいな子供と付き合うんだ。お前、私がそんな変態に見えるのか」
 ならばなぜ、アンタはそんなにいらいらしてんスかとは言えず。ハボックは声のトーンをおとしながら続けた。
「そんなコドモじゃないことは、アンタが一番よく知ってるでしょうに。・・・・・先月からの中尉の出向は、エドワードに会いに行ったからじゃねーんですか?」
「そんなわけあるか。おめでとうといってやるほど私は人はよくないぞ」
「こうは考えられませんかね。・・・・・・すでに後継者選びが始まってるのかもしんないすよ」
 その物騒な言葉の意味を理解して、ロイは眉を寄せた。
「・・・・・・・・・おまえな」
「ちょちょ!大佐。だからコレはオフレコで。・・つうか、コレが下士官の間のもう一個の噂です。大将は次の大総統として見込まれたんじゃないかと。傀儡にするには、大佐みたいなとうの立ったのより、若くて賢くて自分の意のままになるような子供は一番適してますからね。あながち、でたらめとも」
「なにを言う。私のほうがかわいくて頭もよくて、あの単細胞のくそがきよりよほど従順だ」
 白々しいロイの言葉をもはや無視することに決めるハボックは懸命だ。付き合っていては会話にならないことを悟ったのは、日ごろの鍛錬の賜物による。
「でも、事実そのおそらく軍部一従順でないはずの大将をてなづけて、手元に置くことに成功している。きなくさかァないですか」


 妙な子供だった。
 いや、面白い子供だったというべきだろうか。
 その強さも弱さも、およそ子供らしくない子供だった。短気単純乱暴。けれど錬金術という分野においては対等、いや、ロイよりも勝る才能を有している、いつも不敵に笑う子供だった。
 願いをかなえてやりたいと思った。
 自分の出世にかかわらず、何かしてやりたいと思う自分が、けれど心地よかったことを覚えている。
 あの子供たちが司令部を訪れるたびに、色あせたような殺風景が、少しだけ色を持つ。
 子供の力は偉大だなと思っていた。
 こんな形で裏切られるとは思ってはいなかったけれど。


「オレぁ・・・別に、大将がほんとに自分で考えてきめたことならいいんス。でも、もし自分の意に添わずに無理やり誰かにそうすることを強要されてんなら・・・・・なんつーか。嫌だなーと思って。アルフォンスと離れ離れになってまで、大将が出世街道をひた走るなんて、どう考えてもおかしいでしょ」
「くだらん。うかつなことを口走るな、ばか者」
「・・・・・大佐だってでも、そー思ってんでしょ?」
「は?あんな子供いなくなってせいせいしている。上官の言うことはきかんわ、扱い難いわ、しかも私にだけ異常に逆らうわ」
「ああ。それは、大将は大佐のこと好きだから」
 あっけらかんと言い放った部下を、渾身の力でロイはにらみつけた。その表情に、ハボックは笑顔を返した。
「違いますよ?さっきの肉体関係云々は関係なしに、大将はアンタのこと、スキですって」
「肉体関係とか言うな、気色悪い!好きなわけないだろう。こっちの善意もそ知らぬ顔でくそ大佐だの無能だの散々」
「だからそれは大将なりの愛情表現でしょ。なんだ、ほんとに気がついてなかったんスか。大将は、アンタのいうことなら結構素直に聞いてましたよ。自分らの目的も二の次にして、結構健気に。むくわれねえなあ」
 報われないのはこっちの台詞だと、ロイは信じられずにいっそう眉を寄せた。一方的だと思っていた情を、ふいに他人に知らされて、どう反応していいのかわからない。
 自分に、何の相談もせずに配属をかわったあの子供の、どこが自分を好きだというんだろう。
 ばかものめと口中で呟く。
 ハボックはそれには気づかず、ほとんど独り言のように続けた。
「あいつらが、なんか無理やり誰かにいいように使われてるかと思ったらたまんねーっすよね。なんかそんなのは、見たくねえなー。本当のことが知りたいなあー」
「・・・・・・・おまえ、そういうのはもうちょっと遠まわしに言うものだぞ」
「・・・・・ひとりごとっすよ?・・・・・後、コレは真剣な話。アイツなまじ顔がかわいいから。変なことされてねえかと。ほら、火のないとこに煙はたちませんからね」
 それまで口の端に浮かべていた笑みを消してぞっとするようなことを言いながら、タバコの深紅の熱を、に三度意味ありげにハボックはふって見せた。不意に全てをなかったことにするように、タバコを灰皿に押し付け、膝を勢いよくたたいて立ち上がる。
「じゃ、オレ下で準備してますんで。支度が出来たら降りてきてください。送ります」
「わかった」
 短く返事を返し、ロイはもう一度深く腰を下ろした。ずるずるとほとんど寝そべるような姿勢を見たら、あのうるさい腹心は文句を言うだろうか。
 ホークアイは中央へ出向させている。ヒューズからの連絡はまだ入らない。何せ、ことは大総統府に関する。ロイとてそうそう簡単に情報が手に入るとは思っていなかった。
「私も大概お人よしだ」
 呟きは、すでに闇に落ちた廊下に溶けて消える。
 おせっかいでお人よしだなんて自分の柄でもない。けれど放っておくことも出来なかった自分は愚かだっただろうか。
 自問自答に答えは与えられない。
 ただ急がねばと思った。
 真実を知る必要がある。
 あのハボックの耳にすら、そんな噂が届いているのならばいくばくかの信憑性があると見ていいのかもしれない。
 あのくそがきめ。
 一言の相談も出来ないほど私には信用がないのか。
「ほんとに、世話を焼かせる」
 ハボックにはつげなかったのだが、来週は大総統の東方視察が予定されていた。期間は十日。
 そして必ずエドワードも追従して、東方へくるはずだった。
 その十日が勝負だなと、ロイはため息をつき。
 そして、上を仰ぐ。
 自分の心情をまるで透かし見たかのような、ハボックとの会話を忌々しく思いながら、お前に言われずとも手配済みだと、ロイは小さく呟いた。