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 無造作に投げ出された紙面の筆跡には見覚えがある。意外に几帳面で丁寧に字を綴るのを笑ったな、とロイは思い出していた。朝日が冷えた足元を照らして、心地いいと感じるほどだ。
「私に、それをいただけませんか」
 紙面に視線を落として、口元に笑みを浮かべながらロイは問うた。ブラッドレイは足を組み、さも楽しげにロイを見上げる。
「ふむ?どうしてだね」
「みすみす退役させるには、惜しい人材だからです。エドワードエルリックは、まだまだ軍にとって利用価値があります」
 退役願と書かれたそれを内心腹立たしく思う。あのバカ。一言も相談もなく、勝手にこんなものを出して。人のいうことをちっともきかない癖はいつまでたっても治らないらしい。さっき言葉を交わしたときに、こんなものを出したことを欠片も匂わせなかった。あとで捕まえて一発殴らねば気がすまんなとロイは、怒気を押さえて、あくまで笑顔を装う。弱みをみせれば負けだ。
「だが、扱いづらい駒ならばいっそないほうがいい。違うかね?」
「私には使う自信があります。もう一度、東方司令部へ配置換えを願えませんでしょうか」
「断る。・・・・・・・・・・それに、彼はもう軍に復帰させるつもりはない」
「どうしてでしょう。それほど重大な軍規違反があったとも思えませんが。昨日のことは確かに、許されるべきことではありませんが、彼の今までの功績を思えば、退役はいささか厳罰に過ぎるのではないですか?」
「マスタング大佐、私は腹の探りあいというのが苦手でねえ。どうも君のようにはいかん。困ったものだ。年のせいだろうか」
 いいたいことがあるならば早くいえと、いっそ正面から言えばいいのに、それを言わないあざとさには辟易する。なにが、苦手だと?
「恐れ入ります。では、率直に申し上げますが。彼の身柄を私に預けていただきたい。不当な拘束は、すでにその効力をなくしている」
「どういう意味だね」
「将軍閣下を殺したのは、確かにエドワードエルリックですが」
 いったん言葉を切り、ロイは声に力を込めた。言葉にならない圧迫が正面から伝わる。今にもブラッドレイの手が傍らの刀に伸びて、鞘を打ち払うのではないかとすら思う。
「それを実証するすべは、もはやありません。手打ちになさいませんか。大総統閣下」
「ふむ、よく調べたな。大方はもう君に知れているらしい。それとも、あの子供が話したか」
「両方です」
「しかし、実証するすべがないとは、どういう意味だね。それに手打ちにする?取引になるような材料が君の側にあるとでも?」
「あの子供の罪をなかったことにすることは、けして閣下にとっても益のない話ではありません。むしろ、そのほうがよろしいのではないですか?」
「というと?」
 手元の書類を封筒から取り出し、机の上に丁寧に並べてみせる。昨日ヒューズがわざわざロイに届けた書類がこれだ。全く素晴らしい親友を持ったものだとロイは思う。
「これは、偶然私が拾った、将軍の解剖所見です。・・・・左が、本物。右が捏造された偽の解剖所見です。自殺を装うために作り直された書類です」
「ふむ・・・・・捨てるように言い置いたはずだがな」
 瞳を細めて、ブラッドレイは書類を手に取る。そしてそれをいくらも見もしないうちに掌で丸めて、足元の屑箱に放り込んだ。
「だが、弱いな。こんなものは、マスタング大佐。いくらでも捏造できるのだよ。君にも、それが可能なように。こんなものは、私の弱みにはならない。あの子供が、人を殺したという事実は揺らがない。あの子供が人を殺した事実を、軍が隠蔽したのだと糾弾したければ、もっと揺るがない確かなものを揃えておいで。その医師に証言させようというのならば無駄だぞ。・・証言台に上る前に、寿命がつきるだろうからな」
「勿論、それはあくまでも捨石にすぎません。確証を得るための布石でしかない。本当の切り札はこちらです」
 ホークアイから渡された、反吐の出るような写真の数々を封筒から適当に掴んで、机の上に並べる。ブラッドレイがわずかに眉を顰めるのがわかる。
「これは、将軍閣下の大事な思い出のアルバムですが」
「・・・・・・・・・・これをどうした」
「あの、幼い奥方は自分の伴侶の行状はよくご存知だったようです。我々より、貴方より詳しく。将軍閣下も、ご夫人にだけは自慢のアルバムを見せびらかしておられたようです。想像もつかない反吐の出る行為ですが。・・・・・・とても面白い」
「・・・・・・ふむ」
「もしも、彼が将軍を殺した咎で、処刑されるのであれば。これらを証拠として提出します。少なくとも、彼は死刑になることはないはずだ。そうですね?なにせ、子供を相手にした連続殺人犯だ。正当防衛が認められるはずです。夫人も、証言台に立つことを了承してくださっています。そしてそれを見抜けずに、のうのうとのさばらせた軍の怠慢は糾弾されても文句は言えない。何より、その死を隠蔽しようとした咎は大きいのではないですか?さっきの解剖所見の偽造も、大きな意味を持ってくる。下手をすれば貴方の立場も危うくなるのではないでしょうか。たかだか子供の進退を懸けるには代償が大きすぎると思いますが」
 この写真が切り札であることは真実だった。確かにブラッドレイすら把握していなかった、どう言い訳をすることも出来ない、決定的な殺人の証拠。これがあれば勝てると確証していた。そして、カードはこれだけではない。ホークアイやヒューズは、今頃将軍の殺人の証拠集めを確実にしている頃だ。けれど手の内は全て明かさない。
 明かさずとも、悟られているかもしれない。
 けれどわざわざ教えてやるほど親切にする必要もない。
「ははははは、いや、驚いた。マスタング大佐。君は、賢いばかりだと思っていた。随分下手な立ち回り方ではないかね?そこまで立場を露にするような、愚かな男だったか?それとも私の買いかぶりすぎか」
 正面から敵対する愚かは承知の上だった。けれどここで立場を曖昧にする様な真似は出来なかった。
 もう二度と、あの子供を手放すような失敗はするわけにはいかないからだ。
「純粋に、後見人としての役目を果たしているだけですよ。勿論その前に、閣下の忠実な部下ですが」
「扱いづらい人道主義者ほど、処置に困るものはないな。君がそんなに正義感あふれる人物だったとは意外だが。・・・・・・・・まあいい。そこまでいうのならば、鋼の錬金術師の進退は君に任せよう。罪にも問わん」
「は。ありがとうございます、大総統閣下」
 にこやかに返事を返す。 用が終わったのならば、こんなところに長居は無用だった。朝日の差し込む、自分の気に入りの場所も、こうも禍々しく感じるものかと思う。一刻も早く、あの子供を捕まえて頭を殴りたい。そうしてはじめて、安心できるような気がする。こうしている今でさえ、どこか遠くへ行ってしまうのではないだろうかと、不安が過ぎる。行って、早く安心させてやりたい。もう何も心配することなどないと、お前は安心して私の手元で働くんだと教えてやりたい。
 気が急いて、それに動作がつられるのではないかと、あえてゆっくりと敬礼を返そうとしたときブラッドレイが口を開いた。
「しかし、ぬかった。マスタング大佐、君は大層女好きだと聞いていたのだがね。少年性愛趣味があったとは知らなかった」
「博愛主義なもので」
 心にもない虚辞を言うことにはなれている。口幅ったくも感じない。そのロイの言葉にほとんど重ねて、ブラッドレイが続けた。
「やはり、それならば君をはじめから選べばよかったな。あの男を選んだのは失敗だったというわけだ」
 あの男が誰を指すのか、わからないわけではない。けれど自然と口をついて出ていた。
「・・・・・・・・なにがですか」
「あの男が、鋼の錬金術師に執着していたことは知っていたからな。そのまま彼に命じたんだが」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「ただ犯して都合のいい手駒に作り変えるだけの計画だった。気が狂うほど閉じ込めて犯して、自我をなくすまで貶めて、暗殺者として育て上げるつもりだったのだが。子供は従順で飲み込みも早い。さぞ働いてくれるだろうと期待していたんだがね」
 柔和な笑みを浮かべたままブラッドレイが、おぞましく言葉を紡ぐ。
 腹の底に冷たく焔が点り、胃を焼く。怒りを押さえ込み、ロイは拳を握った。
 誘いに乗るな。常套手段だ。けれどわかっていても、強い怒りが制御できずに内を荒れ狂う。
「君ならば、あの子供も抵抗しなかっただろうに。とんだ失敗だ」
 らしくなかったなと笑い、ブラッドレイは鷹揚に足を組みなおした。深く椅子に腰掛け、隻眼を見開く。
「あの子供はよかったかね、マスタング大佐。確かに口戯は大したものだ。一度味わってみればよい。男と寝るようなおぞましい趣味は、私にはないがそれでも一、二度は迷いかけた」
 挑発だ。
 挑発だ。
 おちつけ。殺意を殺せ。
「せいぜい手の内で、真綿にくるむように大事にしてやればいい」
「・・・・失礼します」
 言い捨てて逃げるように執務室をあとにする。扉を閉めてなお笑い声が追いかけてきて、ロイはたまらなく拳を掌に打ち付けた。





**********





「女心と秋の空と大佐」
「・・・・・・・その心は!!」
「・・・・・・・・・・・そんな怒らんでくださいよ。山の天気より変わりやすい・・・・・・ってえ!」
 帰ってきたロイの顔を見た途端、そんなことを言う部下の頭を一つ殴りつけて、本来殴りたかった金色の頭を探す。
「どこだ、どこに行ったあの豆粒は。だれか撒いたか?鳩にやったのか?それともコーヒー豆と一緒に挽いたのか?!」
「・・・・・・・そんなどならんでくださいよ。さっきはあんなに機嫌よかったのに。大将なら・・・・・中尉、さっき大将どこに行きましたっけ?」
「更衣室のほうへ歩いていっていたけど・・・・大佐、この後会議が」
「ちょっと10分待て」
「待てません・・・・・大佐?!」
 走るロイマスタングは、確かに珍しい。いつも冷静沈着であるリザホークアイが慌てて声を荒げるほどだ。ロイは、後を追う声をおいて、廊下に出る。更衣室は階下だ。階段を駆け下り、迷いなく、更衣室へと駆け込んだ。
「鋼の?!」
 名を呼ぶけれど、人気のない更衣室には到底いるとは思えずにロイは再び駆け出そうとして、ふと視界に自分のロッカーに赤いものを認めて足を止めた。赤、に反射的に連想するのは、あの子供のコートだ。
 駆け寄り、そこに書きなぐられた文面をみて絶句する。ロッカーをひらけば、脱ぎ捨てられた小さなサイズの軍服が適当に突っ込んである。がつんと叩きつける様に閉めて、ロイは頭を抱えて、背中をロッカーに預けて、ずるずると座り込んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・あの、ばかっ」



『おせわになりました』



 この匂いはペンキだ。
 洗っても落ちない。
 塗りなおしだ。
「必ず塗りなおさせるからな・・・・!」
 ロイは誓って、乱暴にロッカーを殴りつけた。