12










 今朝は驚くほど早く眼が覚めた。夜はいつの間にか明けていて、自分が熟睡していたことを知る。毛布を深くもう一度かぶって、体を横に向ければ、鮮烈な青とオレンジがカーテンの向こうに広がっているのを感じる。体にわずかに残る鈍痛に、嬉しくなるなんて、おかしいだろうか。体を起こして、洗面所へ向かう。蛇口をひねれば痛いほど冷たい水が渦を巻いて排水溝を流れていく。左手だけでは、顔を洗うことも困難だ。びしゃびしゃに襟元をぬらして、タオルで乱暴にぬぐう。
 鏡を見るのも久しぶりだ。
 生まれ変わったようだ。
 そこにうつる、自分の表情に、生気がみちていることがわかる。鏡を覗くことすら恐ろしかった、あの鬱々とした陰りは今どこにも見当たらなかった。
 見るもの全てがあたらしく、鮮やかに、透明に見える。
 用意されていた真新しい軍服を着なおす。袖を通す感触がぎこちなくて、笑ってしまう。
 カーテンを開ければ、朝日が遠くから美しい光をもたらして瞳を焼いた。
 なんだ。
 リゼンブールとなんら、かわりない。
 朝日は、どこでも平等じゃねえか。
 どこにいても、オレはオレだったんだ。
 部屋を出るときに、わずかに振り返る。ベッドの下で、虚ろな眼をして横たわる男を直視する。いくらかの沈黙の後に、アンタはおいていくからとだけ告げる。恨めしそうな視線も、最早怖くはない。その胸の傷にも、怯えはしない。自分に出来ることは、怯えることではなく償うことだと知ったからだ。
 少し早いだろうかと思いながら表へ出る。司令部までは、そう遠くない。道端のパン屋で焼きたてのチキンパイとオレンジジュースを買って、歩きながら口の中に詰め込んだ。。散歩中の老婆におはようと声をかけられて、大きな声で返事を返す。
 朝の澄んだ空気のなか、東方司令部はまるで無人の病院のように、人を拒否する圧力でエドワードを迎えた。門を押し、一人くぐる。人気のない廊下を、静かに歩いた。ブラッドレイが、既にここに来ていることは知っている。迷いもなく、現在ブラッドレイが使用している執務室へと足を向けた。
 扉の前で、一つ深呼吸をする。ポケットの中の物を確かめてから、左手でノックを三度繰り返す。
 くぐもった返事を確認してから、ノブを回した。
「おはよう、エルリック少佐」
 振り返らずにブラッドレイは窓際で、後ろ手を組み、言葉を発した。逆光にわずかに眼を細めて、エドワードは左手で敬礼をかえす。
「おはようございます。閣下」
「昨日は随分活躍したそうだな。話は聞いた。命令に背いたのだと。私の命令にも背いたな。これは重大なルール違反ではないのか?鋼の錬金術師」
 本来のブラッドレイは、何の感情もうかがわせない、鉄のように冷え切った威圧をもつのだと今更ながらにエドワードは知った。けれど、怯えるものはいまの自分には何一つない。
「何故背いた」
「すいません」
「理由を聞いている。昨日も呼び出したのだが、従わなかったな。マスタングに懐柔されたか?お前は自分がしたことを忘れたようだな」
「忘れていません。オレが将軍を殺したってことは、一生忘れることはないと思います。贖いは、します」
 逆光の中、ブラッドレイがエドワードに向き直る。口元に、いつもの柔和な笑みをたたえて。
「一から調教しなおさねばならんな。お前の主人が誰で、お前を支配しているのが誰なのかを」
 来い、と命令されてゆっくりと歩み寄る。
「跪け」
 がちゃがちゃとベルトを片手で外し、ブラッドレイはチャックに手をかける。今までに、何度となく行われた行為が脳裏をよぎった。
 エドワードは膝を折り、笑う。
「なにを笑う?」
 膝で立ち、口元だけでエドワードは笑った。
 ロイは、何者にも跪くなと言った。
 約束をした。
 一方的だったが、あれは約束だとエドワードは思う。
 唯一渡された、ロイの願いであり、約束だ。
「口を開けろ」
「いいですよ。でも、これで最後だ」
 エドワードは笑う。







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 自分で思うよりも、今まではずっと強く気を張っていたらしい。ロイは、壁に張り付く時計の針の位置を見て、わずかにため息をついた。寝過ごして、遅刻だ。しかも、車酔いだ。胃を押さえて低くうめく。ハボックの乱暴な運転に胃をかき回され、内臓をかきまわされた。腎臓と肝臓が入れ替わるぐらいはしてるかもしれんなとぐいぐいと鳩尾の辺りを押してみる。腎臓はどこにあっただろうかと真剣に考えるうちに、執務室は間近だった。ブラッドレイに呼び出された時間には間に合いそうだ。右手に抱える書類を、もう一度持ち直した。
 廊下の先にある執務室のドアから出てきた、小柄な人物に、ロイは眼を見張った。同時にロイに気がついたのか、エドワードが眼を見張るのがわかる。明らかに気分が優れない様子で、左手で口元を覆って、背中をわずかに曲げている。
「よう大佐。おはようさん」
「おまえ・・・・」
 険しく眉を寄せて、ロイは厳しくエドワードをみる。その視線の意味に気がついたのか、苦笑してエドワードは手を振った。
「・・・・ちげえよ。なに、アンタも大総統に用があんの」
「まあな。呼び出された」
「・・・大丈夫かよ」
「お前に心配される筋合いはないと何度いえばいい。・・・・・・・体は大丈夫か」
 改めて、こんな華奢な体を抱いたのかとおもい、ロイは気遣いを滲ませてエドワードに問う。
「昨日はきつく抱いた」
「こ、こんなとこでそんなこというんじゃねーよ!」
 途端に頬を赤らめてエドワードが慌てる。内心、威勢が殺がれていない事に安心しながらも表情には出さずにロイは囁いた。
「そうだな。最後はよがっていた」
「てめえの下品はしなねーとなおらねえらしいな・・・!」
「はっはっはっ、照れるな照れるな、おしっこ漏れちゃうっていったことは誰にも話さん」
「いってねえだろが!」
「そうそう、下の毛がほんとうに・・・」
「わー!わー!!テメ、黙れマジで!!!」
 口を塞ぎにかかるエドワードの左手を難なく捕まえて、ロイは笑う。流石に抱きしめるまでは出来ずに、中途半端に手を繋いだままでいるけれど、エドワードは強く抵抗はしなかった。
「・・・・・・・・・大佐、昨日さ」
「うん?」
「最後のへん」
「なんの」
「・・・・だ、だだだからー・・・・オレが、気い失う最後のへん、アンタなんか言った?」
 あー・・・と、思い当たることがないでもなく、ロイは視線を上方に走らせる。
「いってない」
「うそ」
「嘘なぞつくか」
「そっか・・・・」
 なんだ、とエドワードは笑い、幾らかの迷いを表情に乗せて、あたりに人がいないことを確認してからぎこちなく体を寄せてきた。胸元に頭をそっと預ける。甘える仕草は珍しくて、ロイも咄嗟に反応できずにいた。
「大佐」
「・・・・・・なんだ」
「ええと。ありがとう」
「なにが」
「ありがとな」
 ひたむきにありがとうと呟く子供の額が胸元にあるのに、なぜか苦しく思ってロイは沈黙した。露になった額が幼く思えて、わずかに胸を打つ。
「オレを、もとんとこに帰してくれて、ありがとう」
 どこへとも、なにがともきかなかった。きいてもしょうがないことのように思えた。エドワードの中の話なんだろうと思う。エドワードの、戦いの話だと思った。
「どういたしまして」
 せいぜい澄まして答えながら、ロイは腕を回せずにいる。ただ掴んだ左手を強く握った。
 離しがたい左手を、やがてエドワードのほうから指を解いて、体を引いた。
「いけよ。・・・・よばれてるんだろ?」
「ああ。お前本当に大丈夫か?・・・・なにかされたのか」
 顔色の悪さは、隠しようもない。重ねてきいたロイに、悪どい笑みを浮かべて、エドワードが唇を吊り上げた。
「逆。してやった。けけけけけ。せめて一矢報いねえとな?朝っぱらからチキンパイとオレンジジュース詰め込んだ甲斐があった。まあ、いけばわかるよ」
 その顔に、先ほどのエドワードの言葉の意味がわかるような気がした。確かに、今目の前にいるのはあのいじけた瞳をした、陰気な子供ではない。ロイのよく見知った、傲慢で尊大なクソガキだ。
「なにをしたかはわからんが。まあいい。すっかり、かわいげがなくなって。しょんぼりして鼻水をたらしている鋼のもかわいかったが」
 ぽんぽんと頭に手を置く。その手を撥ね退けられて、ロイは笑った。それでこそ、と思う。
「・・・・・・・やはり、お前はそうしているほうがいいな。気持悪い。うん」
「じゃあ。まあ、せいぜい気張って。しかられて泣くなよ?まあアンタが泣いたら、オレが慰めてやっからさ」
「言っていろ」
 既に背を向けて、エドワードは歩いていく。こちらを向かないまま、ひらひらと手を振るのを見送って、ロイは表情を引き締めた。
 一筋縄でいく相手でないことは、充分に承知している。
 やるかやられるかだ。切り替えろ。ここは戦場だ。
 戦場において、気を緩めたものは片っ端から死んでいく。それが道理だ。
 歩いて執務室の扉にたどり着く。重厚な木材の扉に幾度かノックをしてから足を踏み入れた。
「おはようございま、す」
 咄嗟に鼻をついた刺激臭にめげずに、おはようございますと辛うじて言い切った自分を、ロイは褒めたい。ブラッドレイは、盛大に汚れた軍服のズボンを前に、ただ立ち尽くしている。
「閣下?」
 吐寫物だと気がついて、それと同時に先ほどのエドワードのあくどい笑みが脳裏を過ぎる。
「あっはっはっはっは、やられたよ、マスタング大佐。どうしたらいいのかな?これは」
「・・・・は。着替えられたほうがよろしいかと。今着替えをお持ちします」
 一矢報いたという言葉の意味を思って、内心笑いを堪えるのにロイは必死だ。あのクソガキ・・・・!人の出世の邪魔をどれだけすればいいのだ。ここで笑えば軍人生命が終わるとロイは必死に笑いを飲み下す。全く。口元が歪みそうになるのを唇をかみ締めて堪えて、ロイは頭を下げて、早足で執務室を出る。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 新調したばかりの、自分の軍服がまだロッカーだったなと思い出して、ロイは更衣室に急ぐ。その途中でハボックにすれ違い、「えらくご機嫌ですね」といわれるのに、口元を引き締めなおす。けれど我慢できずに、小さく笑い声を立てれば後は止まらなかった。あははははは、と大声で笑うのに、すれ違う女性の下士官が怪訝な顔をするけれど止まらない。
 全く。
 クソガキめ。
 これではなにが何でも、手元から手放せないじゃないか。
 お前の上司の手腕をみてろよと、ロイはもう一度笑った。