10
「よっ!」
一気に空気を軽薄なものに変えることが出来るのは一種の才能なんじゃないだろうか。エドワードはそう思いながら、久しく顔をあわせることのなかった、多忙を極める人物を東方司令部の廊下に見つけてあわてて顔をこすった。不覚にも流した涙の後は、頬に残っているかもしれない。
「中佐?なにやってんだよ、こんなとこで」
不自然な距離をとりながら、並んで歩いていた上司との間にある気まずさをごまかすように、声を張り上げる。弟以外に弱音をはくことも涙をみせることもなかった。あんなふうに泣くことにどうしても慣れることは出来ずに、結局帰りの車からここまで無言で来てしまった。ロイも、なにを話すでもなく、エドワードに合わせるように口をきかずにいた。居心地はわるかったけれど、離れがたかったのだなんて、到底本人にはいえない。そっぽを向いたまま歩くエドワードに、歩調を合わせてくれていたことを知っている。
浮かれてる。堪えようとして堪えきれずに、それを自覚する。
そんな場合じゃねえのになと内からの声が聞こえるけれど、どうしようもない。
見捨てずにいてくれた。気にかけてくれていた。頭を撫でてくれた。
それが、どんなに嬉しかったか。上手に伝えられる自信がない。
エドワードは、振り切るように、出来るだけ顔をしかめヒューズへと駆け寄った。
「おーきくなったなあ!エドワード」
久方ぶりにあう、親戚の人間のような挨拶にももう慣れた。ヒューズは乱暴に、ロイとは違う遠慮のない優しい所作でエドワードの頭をわしづかむ。
「エリシアよりおおきくなったんじゃねえか?」
「・・・・・・・・ったりまえだろうが!!はじめっからオレのが大きいだろ?!」
「そうだったっけか?よう、ロイ!イヤイヤお疲れさん。首尾はどうよ」
陽気な呼びかけにロイは、眉根を寄せながら返答をかえす。
「上々に決まっているだろうが。あたりまえのことを聞くな」
「上々って顔か、それが」
にひひと笑うひげ面には、無条件で警戒を解いてしまう作用がある。無闇にほっとしながら、エドワードは大きく息をついた。
「そっちじゃねえよー。こっちの首尾だよ」
「片はつかんがまあ、ぼちぼち上々だ」
ちらりと視線をよこされたのは気のせいだろうか。不審そうに見上げれば、大人は二人、顔を見合わせている。
「ちょっと、いろいろ面白いもん手に入れた。渡そうと思ってな。ハイ、これ」
かさばるサイズの茶封筒をロイに大げさな仕草でヒューズは渡した。
「借りは高くつくぜえ」
「それはこの小僧が払う」
指先でつつかれるように額をおされて、エドワードは思わずつんのめる。
「はあ?何の話だよ」
「大人の話。小僧は黙っとけ。お前、ちょっと痩せたか?なんだなんだ色気づいて。ダイエットでもしてんのかあ?このこの」
「してねーよ!中佐こんなとこで遊んでていいのかよ。仕事は?」
「生贄を置いてきた。心配するな」
「・・・・・・・・・それが一番心配だっつの」
「で、その腕どうした」
「聞くのがおせーよ!ダイエットとかどうこう言う前に、腕のこと聞くだろ普通!吹き飛ばされたんだよ、この放火バカに!!」
肘から先のない右腕を振ってみせて、ヒューズへ向けて怒鳴る。それをロイが聞き咎めて、低く威嚇する。
「何だと?もういっぺん言ってみろ。毛も生えてないくせにえらそうに」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「なんだあ、エド、お前まだ生えてねえのかよ。まだまだだなあ、オレが15のときなんか、もっさもさだったぞー?」
あっはっはと笑いながらヒューズが品のない返答をかえす。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っ、・・・・・・・・・・っ」
どこから反論したものか、いやしかし反論するべきではないのかと判断に迷ううちに、性悪の大人たちは可憐な15歳の前で猥談すれすれの話題に花を咲かせている。何度も何度も思ったことだが、どうしてオレはこんな男が好きなんだとエドワードは拳を握る。
「ここは軍部だぞ神聖な職場だぞ、あんたたちにはモラルとかそういうのねえのか・・・・っ」
「そういうことは生えてからいえ」
「生えてたらえらいのかよ!生えてなきゃあ人間じゃねえのか!」
「そうだ」
「・・・・・・・肯定するかそこで・・・・っ」
非道にも頷いた上司の顔を殴りたいと思ったのは、一度や二度ではない。
「まあまあ落ち着いて。毛の生えてない錬金術師」
「そうだぞ、毛の生えてないエドワードエルリック」
あっはっはっはと妙に気のあう親友同士が顔を見合わせて笑っている。
「・・・・・・・・・アンタたちの友情が続く理由がわかったような気がする」
人をおちょくるコことにかけては、このコンビの右に出るものはあるまい。
「また、セントラルにきたら俺んちにでもよってくれ。グレイシアのアップルパイは会心の出来栄えでクリームチーズパイは絶妙の味わいだ。しっかり太らせてかえしてやるよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・また今度」
「・・・・・・・・・・・なんかいおうと思ってたんだが」
ヒューズがぼりぼりと顎をかいて、エドワードを見下ろす。
「お前のその顔見てたら忘れちまった」
もう一度頭をがしがしと掴まれて、エドワードは視界を揺らす。温かな掌から、言葉にはされなかった情が伝わる。お節介は相変わらずだ。忙しい合間をぬってこんな田舎まで出てきた理由は、ロイにその封筒を渡すためだけではなかったのだろう。言葉にしない優しさに自分への信頼を感じて、エドワードは無造作にその手を払いのけた。
「・・・・・・・・・・・縮む」
「はははは、違いねーわ。おっ、縮んだ縮んだ!」
「人を洗濯物みてーにいうな!」
声を荒げながらも、エドワードは顔が赤らむのを止められない。
「じゃあ、俺は帰るわ。ちょっと息抜きにでてきただけだしな。ロイ、またなんかあったら報告する。お前も電話してくれ」
「ああ」
短いロイの返答に手を振ることでヒューズは答える。
「中佐!」
「なんだよ」
背中を向けるヒューズにあわててエドワードは声をかけた。いいそびれる後悔はもうし飽きていた。
「ありがとう!」
「意味わかんねえよ」
なんでもない風で、ひらひらと手を振りヒューズは出口へ続く廊下を歩いていく。残されたエドワードとロイは、なぜだか立ち去りがたく、その背中を見えなくなるまで見送った。
沈黙が落ち、そしてふたりとも動けずに立ち尽くす。
ふと現実に引き戻されて、改めてエドワードは息をついた。まるで以前と変わらない時間を、短くともすごせばあの地獄のような場所へ帰る勇気はなくなる。言いようのない恐怖を覚えて背筋を震わせる。昔に戻れたらと、以来何度も考えた栓のないことを再び思う。
物音ひとつしない軍部の廊下は、磨き上げられて光を反射している。今日はいい天気だ。表の陽気が、ガラス越しに熱を伝えてエドワードの足元を暖める。
沈黙を先に破ったのは、ロイだ。
「・・・・・・・・・・・・ハボックが」
ぽつりと、本当にこぼれたという風情で、ロイがぎこちなく言葉をつむぐ。こういう話し方をするロイは珍しい。思わずふりむいて、視線をあわせれば、ロイのほうからそれをそらした。なんなんだと思いながらも先を促す。
「少尉が?」
「・・うるさくて。お前が心配だ心配だと。いちいちにお前の話だ。朝迎えにきてはお前の話、休憩中にやってきてはお前の話。なんだあれは、ストーカーか」
「ぶっ」
人好きのする笑みをもつ、穏かで気のいい男の様子は容易に想像がつく。今日も、命令を無視して突っ込んでいく自分を本気の声で怒鳴ってくれた。まだ怒っているだろうか。それを思えば胸が痛んだ。
「中尉は中尉で、頼んでもいないのにセントラルに出張するしブレダもフュリーもファルマンも、お前を気にかけていた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・あとで皆に礼をいっておけ。まあ、ハボックあたりには殴られるかもしれんが。避けるんじゃないぞ」
拳を避けられたことを根に持って、ロイが横目でじろりとにらむ。
「・・・・・・・・・・・・・・・わかった」
なんだ。
すとんと正解を導き出してエドワードは体中の力が緩む。嫌な感触はしない。
照れてるのか。柄にもなく、オレを励まそうとして。
感情が言葉にならずに、エドワードは震える指先でロイの軍服の裾に触れる。
「大佐、あの、」
「ここにいらっしゃったんですか。エルリック少佐」
背後から、慣れない階級で呼ばれてエドワードはびくりとロイから体を離した。振り返れば、セントラルからブラッドレイに追従してきた下士官の一人だ。表情ひとつかえない、蛇のような視線をもつ男がエドワードは苦手だった。仕事になれないエドワードを指導する立場だったこの男は、隙のない敬語で話す。
「大総統がお呼びです。・・・・・今日の戦闘のことでお話があるとか」
「・・・・・・・・・・すぐいく」
ロイは何もいわずただ黙ってたっている。背後でどんな表情をしているのだろうか。それをみるのがこわかった。振り返ることが出来ずに、エドワードは動こうとしない両足を意思の力で前へ押し出す。体中が拒否していることがわかる。もう一歩も歩きたくなかった。あそこへ戻るのかと思えば、忘れていた吐き気が胃の腑から這い上がる。窓の向こうに、殺した男の影をみた気がして、寒気がした。
「大佐、じゃあオレ・・・・いく」
「ああ」
とめてくれないのかと思うのは甘えだ。そこまで落ちぶれてはいないつもりだ。
自分で選んだことだ。
遮二無二助けを求めて迷惑をかけるつもりは毛頭ない。
それこそ、死んだほうがましだ。
でも、もうできない。はいつくばって、あの男のモノを咥える真似はできないだろう。何故だか、そう思った。
「早く。閣下はお怒りで」
短い言葉に苛立ちを覚えた。ロイの顔はみずに、先頭を行く下士官の背中についていく。どんどんロイから遠ざかるのがわかる。
大佐。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・っ」
喉元にこみ上げる衝動を抑えきれずに、エドワードは振り返る。
ロイはまっすぐエドワードを見つめている。
視線が交わり、絡み合う。
大佐、と喉の奥で呟く。
大佐、大佐。大佐。
「・・・・・・・・・さ」
「少佐?なにをして・・・・」
「エルリック少佐」
ロイが低い、けれど邪魔をする何者をも許さない強い口調で階級をよぶ。
いつしかエドワードは掌に汗をかいている。
無意識のうちにごしごしと軍服でこする。
ないはずの右手の先にも汗をかいているような感覚。
ごくりと唾を飲み込んで、干からびた声で答える。
「・・・・・・・・・・なに」
「まだ用事はすんでいない」
「すみませんが、マスタング大佐、大総統が少佐をよんで、」
「作戦の終了までは、エルリック少佐のことは私に一任してある。いつになるかわからん。そう伝えておいてくれ」
「ですが」
つかつかと歩み寄り、ロイはエドワードの生身の左手を掴む。
「いくぞ」
「ちょ・・・・大佐?」
呼び止める下士官の声を背中に聞きながら、エドワードはよろけながらロイの後をついていくほかない。握られた左手が熱い。
汗を。
汗をかいているのに。
それが妙に気恥ずかしくて、振り払いたいけれど硬く、痛いほど握られた掌は到底振りほどけそうにもない。
「たいさ、たいさ!まってって・・・・」
どれだけ歩いたのか、エドワードにはわからない。引きずられるようにあるいて、歩いて、階段を上り、歩き、そしてエドワードすら入ったことのない扉の中に無理やり押し込められる。
中は薄暗く、雑然と物がおかれている。真ん中にぽつんとおかれた机は、要するにただ放置されていて、この場所の役割をエドワードに教えた。
「倉庫?こんなとこあったんだ・・・」
「私の憩いの場所だ」
やっと離された掌はじんじんと疼く。痛みなのか、そうではないのか。エドワードにはわからない。
ただ体の真芯が熱く凝っている。ずくずくと何かがうねるような、そんな感触が怖い。
ロイは乱れた前髪をかきあげながら、低くけれど確かに言葉を発した。
「今から抱く」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だく?」
抱く、という言葉の意味が伝わらずにエドワードは呆然と目を見開く。
何度も口の中で言葉を反芻するけれど、ちっともわからない。
まるで違う言語のようだ。
目の前の男が、まるで別の何かに変化してしまったみたいで。
何かをロイが投げ捨てた。先ほどヒューズが渡した書類だろうか。
「そうだ」
ロイは、自らの軍服の襟を乱暴に寛げる。発火布の手袋を歯で咥えてひきぬき、唇を湿す。顔を真っ赤にしまま呆然としていたエドワードもその段になってようやく理解できたらしい。ロイがエドワードの軍服のボタンに手をかけたときにあわててその手を押しとどめる。
「ちょ・・・・!なにすん・・・・・!大佐!大佐大佐!落ち着けって!何?何するんだって?!」
「だからセックス。ここで抱く。文句あるか」
「・・・・・・・・・・・・・はあ?!なんで!」
「知るか」
その間にも手馴れた仕草でロイは軍服を剥いでゆく。ズボンに突っ込んだ白いシャツを引っ張り出され、ベルトに手をかけられてエドワードはぎゃあと叫んだ。
「知るかってなんだ!どういうつもりで、この・・・っ」
「知らん。知らんが、欲情した。責任を取れ」
「なんだそのいいかたっ・・・・ちょ、どこさわって・・・!ぎゃー!」
「やめてほしければ『大佐、オレはじめてだから優しくして欲しいにゃん』といえ」
「てめ、強姦の上に羞恥プレイかこの・・・っ、ぁ・・・んっ」
シャツの中に手を突っ込まれ、直接肌が触れる。指先が子供の腹を辿り、確かめるようになぞっていく。
「・・・・・・・・・・・・・・・・っ・・・・・」
「おまえが」
らしくもなく、急いた口調でロイが低く告げる。確かに欲情しているのだと、そんなことはエドワードにはわからない。
「お前があんな眼で見るから」
ロイは小さな頭を抱え込み、ゆっくりと口付けた。
くちゅ、と濡れた音が響く。
「どうしても厭なら、いえ」
既に返事を返す余裕はエドワードにはない。
ロイの首に回された片腕の震えだけがそれを証明していた。