罪深い夜の終わり
1
「私の箍はもうずっと前に、外れていて」
優しい白い指がそっとエドワードに重ねられた。まるでそんなふうには見えなくて、ずっと、見えなくて。
「すぐ引き金に手が伸びる。まるで自然に、呼吸をするように。それが自分の飼っているかわいい子犬であろうと、いつもそばにいる戦友であろうと、銃口を簡単に彼らへ向けてしまう」
長い睫だと思った。影をおとすほど。
美しい女は、まるでそうは見えないけれど、私は狂っているのだと優しく伝えた。
「戦場へ帰りたいとすら思ってしまう。人を殺す免罪符を欲しがる自分が浅ましくて、時々死にたくなるの。死が茫洋としていて、私にはあまりに無感動で。・・・・しぬことがこわくなくなる」
彼女に似合わない幼い声音についわらってしまった。笑顔を返した美しい女は、エドワードの冷たい鋼の右手をいっそう強く握る。熱を伝えようとでもするように。人の熱を忘れたような少年のために。
「後悔することはあまりないの。そんなことを考える余裕すらない。幸せだとも、幸せになれるとも思わない。けれど、ここから逃げようとも思わない。私にはもう馴染みすぎていて、軍から離れては生きていけないと思うから。けれど、あなたはまだ違うでしょう?」
彼女は優しいひとだと、あの男が言った。それは本当だとおもった。
やさしくて、やさしくて、エドワードをいつも屈服させる。本音をいいそうになって困ると思った。
ごまかすように笑うことすら、愚かしく思えてエドワードは鼻の頭をかいた。なれない軍服の真新しい匂いが鼻をつく。
「・・・・・・大佐は、あなたのことを心配してらっしゃるわ」
「オレ、もういかねーと。次の会議の前に、大総統の執務室に呼ばれてっから」
「エドワード君」
「エルリック少佐だろ?中尉。・・・・・・もう、オレに会いにこんなとこ来ることねえよ?きちゃ、駄目だ」
首を振るエドワードの手を話すまいとホークアイは力を込めた。
「ここは、あなたがいるべき場所じゃない。大佐は、あなたにこんなことをさせるために軍へ誘ったのじゃない。アルフォンス君と離れてまで、軍の狗を続ける理由なんかない。どうして?」
「・・・・・だから、何回もいったろ?昇進したくなったんだって。そのほうが体を取り戻す早道かもしんねーし。東方にいるより、中央で大総統府で働くほうがよほど出世には近いはずだぜ?」
何度もくりかえした嘘を、もう一度肩をすくめながら伝える。段々自分でもそれが真実のように思えてきて、エドワードは背筋に走る悪寒を抑えきれなかった。けれど顔にはだすなと、全身で命令する。
「エドワード君、大佐は、」
「大佐の話は、別にいいって。別に、オレら関係ないしそんなべたべたした関係じゃねえし。ライバルになって今頃あせってんの?オレに先こされるかもって。・・・・・そうかもしんないよ?先に出世したらごめんねって。こっちは最高に居心地いいよ?大総統付きっつっても、仕事そんなにないし」
ロイマスタング。
名前も聞きたくない。
顔も見たくない。
二度と触れたくない。
その資格が無い。
ホークアイの手を外し、重ねてやり、エドワードは笑った。
「クソ大佐によろしく」
あいしてると、大声で叫びたい衝動を飲み込み。
青い軍服をまとい、エドワードは笑う。
エドワードエルリック少佐だなんて笑ってしまう。
柔和な笑みを浮かべ、男は深く大総統だけが腰掛けることの出来る、革張りの重厚な椅子の上でベルトをくつろげている。
奴隷に少佐なんて。どんな冗談かと思う。くそったれと喉の奥でくりかえして、男の足元で犬のように這う。ズボンのチャックに手をかけ、男のモノをまさぐる。
「エルリック少佐。東方から君に客があったようだな」
しなびたそれに舌先を伸ばす。口に含む、ぐにゅりとした感触に嘔吐を誘われ必死に飲み下した。いい加減慣れない自分のプライドが、たまらなく愚かしく思えてエドワードは口元を無理やり歪ませて笑う。頬を狭め、唇を使って舌で嘗め回す。
この行為には愛情など塵ほども介在しない。
ただの服従を確認する作業に過ぎない。
純粋な忠誠を試す、ユニークな行為だとは思わんかね?と隻眼の男が笑う。
くそったれが。
こんなことで傷つくものなどなにもない。
体なぞ魂の器に過ぎないのだから。自分はそれを誰よりも知っている。
安いものだ。
愛情が介在しないのならば、いくらでも出来る。こんなもんしゃぶって、弟の体が手に入るのなら安いもんだ。犬のように這い蹲り、靴の底だって舐めてやる。望めば足だって開いて、突っ込まれて喘いでやんのに。
「東方に戻りたいとおもうかね?」
近所の気のいいおっさんみたいな穏かな声と表情がたとえようもなくグロテスクだった。漆黒の髪だけが彼を連想させて、同時にそう思った自分を、エドワードは嫌悪した。
忘れろといつも戒めているのにこうして、彼の欠片、彼にたどり着こうとする意識を未だにとめる事が出来なかった。なにかのきっかけで、すぐ顔を出す。帰りたいと思ってしまう。女々しいことだ。
口中に嘔吐を誘う唾液がたまり、それが皮肉にも男の性器を潤した。ぐじゅぐじゅと口の中で泡立てるように舐めまわす。わずかに硬く立ち上がり始めたそれがエドワードの喉を突く。
「何時までこの屈辱に耐えられる?」
口を離せば、唾液が糸を引き青い制服をわずかに変色させた。右手でぬぐうのは、少しでも鉄の味を覚えたいからだ。口の中に指をわずかに突っ込み、こする。
「いつまででも平気ですよ。オレ忠誠誓ってますから」
真実味の有無は、重要ではなかった。利害が一致していることは、疑いようもない事実だからだ。
「年をとるというのは、嫌なものだな。エルリック少佐。年々体のあちこちが痛みはじめ、いうことを聞かなくなる。君のように美しい少年を前にして、こうしてくわえてもらうのがせいぜいだ」
唇を寄せて、丁寧に裏筋を舐め上げる。言葉を交わすことが無意味なことは、もう充分にしっていたから。
「君が私の誘いに乗って大総統府への着任を了としたのは、彼のためでもあるのだろう。なにもしらないとでも思っていたのかね?。これは陳腐な言い回しだが」
「弟以外に大事なもん、オレにはないですから」
「前々からマスタング大佐には打診をしていたのだが、どうも彼は君を手放したくなかったらしい。ああも逆らわれると、私も年のせいかな。意地悪をしたくなって困る。・・・・どうも君はそれを見越していたようだが」
「大総統になるっつーのは、やっぱ思慮深い性格してないとだめなんでしょうね」
正面きって疑りぶかいなといったも同然のエドワードの言葉に笑い、ブラッドレイは小さな金色の頭に指を差し込んだ。鷹揚に、委細かまわずとでもいいたげに。
「別にあんなやつどーなろうが、オレの知ったこっちゃないんで」
「ふむ。素直じゃない」
ぐ、と力を込められ、肉棒に喉を突かれたエドワードがむせ返る。構わずブラッドレイは、エドワードの頭を強く揺さぶった。嘔吐感はいっそう強くなる。
「まあ、君の意思などはじめから無いも同然だがね」
男は笑う。
*****
人を殺したことはなかったので。
こんなにも刃こぼれするなんて、知らなかった。
ぬるついた脂肪が、てらてらと刃の形に錬成された機械鎧に絡みつく。
ひとをころしたのだ、という実感はない。ただどうしようとおもった。
どうしよう。
びくびくと痙攣する男の体が気持わるかった。真っ青の軍服は、刃を差し込んだ胸の辺りから真っ黒に染まっていき、エドワードの足元にも血溜まりをつくった。いっそう強くエドワードの右手に体重がかかる。軋む機械鎧の刃を抜こうとしてかなわず、エドワードは急速に熱を失う男の体とともに床に倒れこんだ。右手のひじがわずかにへしゃげるほどの勢いで。渾身の力で刃を引き抜き、男の体の下から這いずり出る。
心臓が今更のようにうるさいほど高鳴った。耳元で誰かが割れ鐘を鳴らしているようだった。
ひとをころしてしまった。
セントラルへの召喚に応じて、こちらへ到着したのは昼過ぎだった。アルフォンスは宿に待たせて、面倒くさいいくつかの書類の届けと図書館へ取り寄せを希望していた書物の受取手続き、将軍准将、まあとにかく上官への挨拶まわりをこなす予定だった。そしてその途中で、この薄暗い一室へ引きずり込まれた。
殺される、と本能的に感じて、けれどその男の大きな手が下半身をまさぐりはじめ押さえつけられ下着にまで手を差し込まれたとき、ソウイウコトかと合点がいった。男の顔には見覚えがあった。将軍職にある割には、どうしようもねえ変態だなとそのとき思った。下手に逆らうことは賢くないとわかっていても、そんな風に大人しくしてやる義理もなかった。渾身の力で、男の腹部に拳を叩き込もうとして、その右の拳にナイフを突き立てられた。「大人しくしろ」「ロイマスタングの子飼いが」「死にたくなければ」「黙って足を開け」「乗り換えるならば今のうちだ」。
下卑た笑い声は今だ鼓膜のそこにへばりついてるかのようだ。混乱して、思わず力を抜いた。そして男の性器が眼前に差し出され、口を無理やり開かされた瞬間。
火花でも散ったかのようだ。
意識が遠のいて自然に体が動いた。
機械鎧を変形させて、ナイフを弾いて、男を押しのけるつもりだったのに。
相手が悪かった。
将軍の地位にまで上り詰めるだけあって、その体術は生半ではなく。
手を抜くことが出来なかった。きがつけば、その刃は深々と男の胸に刺さり、肉と筋肉がぎちぎちとそれを締め付けたのだ。
上官殺し。第一級犯罪。銃殺刑。大佐にも迷惑がかかる。直属の部下の不始末の責任。国家錬金術師であるというだけで、いままで軍に対して従順とは言いがたい自分。なんのいいわけも通用しないだろう。有無を言わさず処刑されておしまいだアルフォンス。アルフォンス。にげなくちゃ。にげなくちゃ、いけない。死ぬのは嫌だ。人を殺しのたのに、死ぬのは嫌だ。オレにはやることが。体を取り戻さなくちゃいけないのに。大佐。大佐。大佐。どうしよう。けれど、ノックも無くその扉が開いたとき、エドワードは逃げることも、立つことすら出来なかった。呆然と侵入者を見上げるばかりで。
血まみれのエドワードをみて、軍の最高責任者である男は笑った。
これはこれは。
はじめに私に見つかったのは幸運だ。
鋼の錬金術師。
君にチャンスをやろう。君をただ無為に死なすのは、あまりに勿体無い。
私の直属の部下になりたまえ。
信頼できる部下がほしいところだった。
そこで転がってる男よりもよほど使える、腕の立つ部下が。
けして私を裏切らない、従順な犬のような部下が。
君がしたがうというのなら、コレを無かったことにしてやるがどうかね?
破格の条件だと思うが。
断るならば、事情はどうあれ君は死ぬだけだが。
選択肢は、ほかにはじめからなかった。
全てを仕組まれたような気が、しないでもなかったけれど。
そうして、エドワードは本当の犬になった。