4日目






「何回考えても俺には今の状況が、理解できねんだけど」
 深く吸い込んだ煙草の銘柄が、いつものハボックのそれよりもニコチン度が高いことに気づいているけれど、それを咎める気力はフュリーにはない。疲れた横顔をみながら、多分僕もこんな顔をしているんだろうと鏡を見るような気持でため息をつく。
「安心してください、少尉。僕もですよ」
 ここ数日ろくに仕事をしなかっただめな上司が机に座り、まるで今から崖から飛び降りるんですかと聞きたくなるような悲壮な表情をして両手を組んでいる。東方司令部の出世頭はもともと勤勉なほうではなかったけれど、ここまで使い物にならなかった経験は今までにない。
 その原因が原因だけに、誰にも手の出しようがなかった。いかに東方司令部の面々が優秀だろうとこればかりはどうしようもない。
「大佐がエドワード君とお付き合いしていて」
「やってる最中に落っことして大将が幼児退行して」
「エドワード君の記憶が戻るまで大佐が父親代わりなんて」
「そんなばかな」
 双子かと思うような見事なコンビぶりを妙なところで発揮しながら二人は、何度目なのか数えることもやめたため息をついた。
「おまえら」
 地獄の底から響くような低音でロイが本日はじめて口を開いた。流石にその声音に背筋を伸ばし、ハボックは手元の煙草を消し、フュリーも立ち上がり敬礼を返す。
「・・・・・・中尉はまだか?」
「はっ、中尉でしたらそろそろ・・・・」
 本当にこの人は中尉が今来ても大丈夫なんだろうかと不安に胸を押しつぶされそうになりながらフュリーが、恐る恐る答える。眼前に山とつまれた書類はもしかして僕の目にしか見えていないのだろうかと横を不安げに仰ぎ見ると、ハボックが全く同じタイミングで目を合わせて、息を飲んでいる。
「いらっしゃると・・・」
 室内の淀んだ空気に息がつまりそうになりながら、フュリーは途切れ途切れに答える。
「思いますけ」
 鋭いノック音にさえぎられて、フュリーは「ど」を言い損なう。一種の清涼剤のようなさわやかさで美しい副官が、一分の隙もない動作で淀んだ室内を切り裂くように敬礼した。
「おはようございます」
 ひっ、とハボックとフュリーは手を取り合い、身を縮める。つくづく、こんな日に限って非番という幸運を掴んだブレダとファルマンが恨めしい。一生分の幸福を使い果たしてしまうようなラッキーなんて今までなかったはずなのにとハボックとフュリーはもう涙目だった。
「・・・・・・・・・」
 ロイの机上を一瞥してホークアイが口を開こうとするのを制してロイがおもむろに切り出す。
「中尉、その・・・・エドワードは?」
 その表情の悲惨さになにか思うところがあったのか、ハボックとフュリーが想像したような(一方的な)銃撃戦は展開されず、ホークアイは怪訝な表情で、腰にのばしかけた指先を留める。
「は?」
「いや!みなまでいうな!わかっている、私が大人気なかった。もちろん昨日はバカのように反省したし、これでもかというほど悪夢にうなされたし、これ以上エドワードを泣かせたりなんて絶対にしない!誓ってみせる!色々考えたんだ!これでも!昨日はエドワードは私を怒っていたんだろう?」
「いえ、大佐」
「仲直りというか、現状打破の切り札というか、とにかく、」
「いえ、そうではなくて。・・・・・・どういうことです?」
 眉根を寄せるホークアイの表情に、ロイの言い訳が止まる。
「・・・・どういうことですとは、なんだ」
「エドワード君は、大佐と一緒ではなかったのですか?」
「・・・・・・・・何?エドワードは、昨日君の家に、」
「いえ・・・・・大佐?」
「・・・・昨日、エドワードと喧嘩をしてそのまま別れた。姿が見えなかったからてっきり君のところだろうと」
 四歳児と喧嘩ですかとは誰もつっこまなかった。ホークアイの沈黙はそのままエドワードの行方不明を指し示していたからだ。
「・・・・っ」
 派手に椅子を蹴倒して、ロイが机を乗り越えて扉に飛びつく。渾身の力で扉を引きあけて走っていくその背中を、声もなく見送り、呆然とした一同を我に返らせたのは、やはりホークアイだ。
「私達も探しましょう」
「・・・・・って・・・・・要するに、どういうことですか?大将がどっかにいっちまったってことっすか?」
「普段どおりのエドワード君だと思わないで。四歳の子供が一晩姿が見えないのよ。誰かが保護してくれているのならばいいけれど、何か事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。曹長、少尉は軍部内、及び近辺の軍の施設に事態を通達。その後軍部内を捜索して頂戴。ブレダ少尉とファルマン准尉も呼び出して。緊急事態だといって。私はアルフォンス君に連絡します。見つかったらすぐに私まで報告して頂戴」
「事態を通達って・・・・」
「・・・・・なんとでもいい様があるでしょう・・・・・!」
 恐怖で声も出ないフュリーはこくこくとネジが緩んだように首を縦に振り、後ずさりしながら扉を器用に開けた。ホークアイの全身から立ち上る怒気にハボックは、この東方司令部一の真実の強者が誰なのかを知る。「ホークアイにだけは逆らわないでいよう」と再確認しながら、長い一日になるだろうとわずかに天を仰いだ。





**********





 血相を変えて走るロイに、呆然としながら敬礼をする見覚えのない下士官にぶつかり、転げるようにロイは長い廊下を走っていく。だって、あの子供がいないのだ。
 もう、なにから後悔していいのかわからない。心臓が早鐘のように響いて内からロイを攻め立てる。目の前が真っ赤に染まっていて、うまく見えない。片っ端から扉を引きあけて、あの小さな背中を捜す。脳裏に浮かぶのは泣いているエドワードの背中だ。震えて、ロイを「好きだ」といった健気な愛情だった。
 どうしよう。
 なにかあったら。
 どうしよう。どうしよう。どこから後悔したらいいんだろう。もうここ何日間かで一生分の後悔をしたように思っていたけれど、どうやらまだ足りなかったらしい。ロイは、初めて神に祈った。
 どうか無事でいてくれますように。傷の一つもなく、健康で、なに一つの悲しみも苦しみもなく、またあの笑顔を見ることが出来ますように。笑ってくれますように。
 心当たりはそう多くなかった。それだけに、いなかったらと思うと目の前が暗くなる。軍施設内にいるはずだ。あの子は今、四歳の子供なのだ。遠くへは行かないはず。一夜を明かすことが出来る場所。ほかの人間に見咎められない場所。見咎められたとしても、不自然ではない場所。あの子の好きなもの。
「図書館・・・っ」
 廊下を抜けて、別棟にひっそりとたてられている旧図書館。以前二階の廊下から見えたあの建物に、エドワードはいたく興味を示していたように思う。「秘密基地みたい」と幼い顔で笑っていた。どうか無事でいてくれますように。私の何を引き換えにしてもいい。あの子が無事でいてくれますように。なんだか、いろんなことがわかった気がするんだ。恋とか欲望とかそういうものをはるかに凌駕する存在だということ。君が幸せなら私はなんにでもなれるということ。そういうことを、君に伝えたいんだ。ありがとうといいたいんだ。
「エドワード?!」
 引きあけた旧図書館の扉の中へ向かって怒鳴る。声は響いて、ロイはその無人の巨大な蔵書庫の物音一つ聞き逃すまいと息を詰めた。続けて名を呼ぼうとした瞬間、キンコンカンコンと暢気な館内放送が流れた。
『えーロイマスタング大佐、ロイマスタング大佐、至急医務室までお越しください。お探しのものが見つかりましたのでーえーと、なんつうか、ほらあれですよ、金色で硬くて鋼でできてるあれです。小さめのあれです。大佐ー』
 ハボックの殺意を覚えるような不真面目な館内放送に、いつもならば即激怒して何らかの処分という名のバツゲームを課すべく血をめぐらせるところだが、今はそれどころではない。医務室?今ロイが探している金色の鋼の小さいの。「医務室だったのか・・・」




 医務室の扉の前で、ロイは扉を引くのをためらっていた。それでもなかから聞こえた、エドワードの妙に幼い声が耳に届いたとたん、こらえきれずに扉を引いた。ホークアイ、ハボック、ブレダ、ファルマン、フュリー、軍医に囲まれて、ベッドの上でエドワードは囲む大人たちを見上げて、笑っていた。その笑顔にほっとしながら、エドワードの体に傷の有無を確認する。けれど、エドワードはロイの姿を認めた途端、すうと、夢から覚めたように表情を強張らせ、手元のシーツに視線を落とした。その様子に、あやすように話しかけていたハボックの言葉もつまる。室内がしんと、強張った雰囲気で満たされた。
「・・・・・・エド?」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・昨日は、どこにいたんだ?」
「・・・・・・・・しらないっ」
 表情を強張らせて、そっぽを向く子供を、今すぐ抱きしめたかった。拳を握り締めて、急く心を耐えて、声を絞り出す。
「エドワード・・・怒ってるんじゃないよ。怒る資格なんか、私にはないんだ。仲直りをしてほしくて・・・・君に謝りたくて」
「・・・・しらない」
 今にも泣き出しそうだ。眉をしかめて、裏返った声で、子供は肩を震わせている。
「昨日、君と喧嘩をしてから、沢山沢山考えたんだ。どうして君が怒ったのか、私にはちっともわからなかったから。私は君にちっとも優しくなかったし、君の気持ちをわかってやることもできないし、君に意地悪をした。ごめんね。でもエドワード、私はね、君の家族になりたいんだ。君が、私なんかがお父さんじゃ嫌だというのなら、お母さんでもいいしお兄さんでもいいし、おじいちゃんだっておばあちゃんだっていいんだ。君がすきなんだ。君のそばにいて、君が幸せになれるように生きるのをみていたいんだ。生きて、泣いて、笑って、もう一度15歳の君に会って、謝ったり喧嘩をしたり、老いて、最後まで君と一緒にいたいんだ」
 自分で、口にしながら確認するような作業だった。けれどうそ偽りは一つもない。ゆっくりと話す自分の声を、ロイは初めて好きだと思った。伝わるといい。君を思う心はぬいぐるみの中の綿に似ている。白くてふわふわしていて、あたたかいもの。形のないもの。抱きしめたくなるようなもの。嗚咽が喉につまるみたいに大声で叫びだしたい衝動に駆られること。壊れるほど抱きしめたいのに、それが怖くてそっと掌で包んでしまうこと。
「ヤダ」
 ぽつりとエドワードが呟いた。
「あちゃー・・・大将それはねーだろ・・・」
 うっかり言葉をこぼしたハボックの口を、ホークアイがすばやくふさいだ。口も鼻もふさいでいるのはわざとだろうか、と手足をばたつかせるハボックの後ろで、軍医が祈るように両手を組む。
「・・・・・・絶対、いや」
「エド」
「やだったら、やだ・・・・!!ロイがおとうさんなんかやだ!!!!きらい!!」
「きら・・・・・」
 一瞬血の気が引いて、視界が真っ暗になるのをロイは根性で堪える。ふらつきながらもなおもいいすがろうとしたロイを、エドワードが大声でさえぎった。


「だっておとうさんとはけっこんできないもん!!!!!」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「エドしってるもん・・・・!!おとうさんとこどもはけっこんできないもん!!!えどロイのおよめさんになるも・・・・ろ、ろいはオレのこといやでも、お、オレはロイの、ロイの、お、おじょめじゃんじ・・・・・っえっ・・・・わ、うわーーーーーーーーー!!!!およめじゃんーーーーー!!」
 ギャーと顔面からあらゆる液体を垂れ流しながら、エドワードはベッドに突っ伏した。ヒステリックに泣き叫ぶこどもに手を差し伸べあぐねて、大人たちは全員口をぽかんと開けて立ち尽くした。いつもならば、こういう状況で真っ先に事態を茶化すハボックの口は中尉の掌で封じられていて、ハボックの命すら風前の灯火だ。
「お、およ・・・・およよよっよよよよよよよよよっ」
 ツッコみたいのを全員が必死で堪え、ロイの言葉の続きを待つ。
「およめさん・・・・っ」
 嗚咽するあまりえづいているエドワードを前に、ロイの顔が見る見る紅潮していく。
「わ、わたしは変態でもいいのか・・・?君に欲情してもいいのか・・・・・?」
 良い訳がなかったが、事態を早く収束したいホークアイは懸命に堪えた。ハボックの口を震えながら押さえ込むことで必死に耐えた。痙攣するハボックが床に倒れこんでもなお許さず、口を押さえ込む。
「ひっ・・・ひっ・・・・・・えぐ、おぉぇ・・・・っぎ、ぎ、ギャーーーーーーーうぇヴォっ・・・・」
「け」
 っこんしよう、とロイが両手を広げると、殆ど同時だっただろうか。
「あ」
「なんだよ、フュリーいいとこで邪魔すんなよ。早くしねえとハボックが死ぬだろが」
「はあ・・・・ブレダ少尉、でもあれ・・・」
「え?」
「ゴキブリ」
 フュリーが指差す先、えづき転げるエドワードの手元に確かに黒々とした昆虫がいた。
「ギャーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 絹を裂くというよりも、電話帳を裂くような絶叫の発生元が、全員が理解できずに呆然とする。けっこんしよう!と両手を広げたまま固まっているロイとて同じだ。ホークアイは、絶叫しながら、渾身の力で、手元にあったものをその漆黒の昆虫へと投げつけた。すなわちジャンハボック。成人男性。意識の朦朧としていたハボックは面白いほど目標物めがけて吹っ飛び、その頭部で、ベッドでえづいていたエドワード・エルリックの頭部をも強打し、目標物であった昆虫をついでのように押しつぶす。すべてが一瞬の出来事で、みな呆気にとられるよりほかに、できることがあっただろうか。いやない。
「・・・・・・・・・・け、けっこん・・・・・」
 ハァハァと肩で息するリザホークアイを振り返り、ロイが呟く。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すみません・・・・・取り乱しました」
 無い襟を正すホークアイも、それなりにやらかした感があるらしい。しらじらと視線をそらして窓をみては、「今日は射撃訓練日和ですね」などと一人呟いている。
 せっかくの非番にたたき起こされて、見せられたものはとてもじゃないが笑えもしない茶番で、ブレダはベッドの上で泡を吹いている少年と同僚を見ながら、ここが医務室でよかったな・・・と冷静に思った。ファルマンはホークアイと同様に窓の外を見た。ロイは座り込み、軍医は「誰にも言いませんから」と呟いている。そして、背後で響くドタドタガチャガチャガツンガツンと響くアルフォンスの足音に、大佐が殺されませんようにとフュリーは祈った。