過去(閑話休題)





 気がつけば視界に入る小さな背中の意味を知ったのは、それからずっと後のこと。


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 またこんなところで。
 ロイは背中を丸めて一心に字列に視線を走らせている小さな部下を、自らの執務室に見つけて苦笑した。
「おい」
 本当にそれまでロイの存在には気がつかなかったらしい。うたた寝をする猫に触れるのに似ているなとロイは思った。ソファからわずかに飛び上がったのだ。そんなに驚かなくても、と思うとおかしい。
「勝手に人の仕事部屋に入り込んで優雅に読書とは。いつから君はそんなにえらくなったのかな」
「・・・・・うっせえな・・・・いいだろ別に。無駄に豪華なソファおきやがって。職権乱用だろ、こんなの」
 少し頬が赤い。ロイが来た事に気づかなかったことを照れる、子供の唇の先が尖っている。エドワードは本を閉じて、ソファの上で胡坐をかいた。
「だがそのソファをことのほかお気に入りにして、私より使用しているのだから君も同罪だろう」
「・・・・うっせ」
「気がつけばここで読書しているくせに。ほんとうに君は私の部下か?」
 軍の犬となって久しいこの少年は、長旅を終えると大体一週間程度、ここ東方ですごす。書類の提出や各地で集めて発送した書籍の調査などが主にその理由なのだが、そうして彼が東方にとどまるその期間、ロイは気がつけばこの子供の背中を見つけることができた。
 いつのまにか視界にいるなと気がついたのは、つい最近のことだ。
「たまには息抜きをしてはどうだね。そんな小難しい本ばかり読んで。子供らしく絵本でも読んでみては?」
「っていってこの間アンタが押し付けた絵本なあ、あれ洒落んなってねえぞ・・・・!なにが『これがほんとうの童話』だよ。お姫様の爪先切って無理やり靴につっこんだり、お爺さんがおばあさんを食べたり、子供を鍋で煮たり・・・・!こええっつうの!」
 エドワードは歯をむいて怒鳴った。それでもほんとうに全部渡した本を読んだのだなとロイは感心する。
「全部読んだのか。へえ。大したものだ」
「しょうがねえだろ。読み出したら気になるだろ、先が」
「私は読んでないんだ」
「・・・・はあ?」
「あんな幼稚なもの読むわけないだろう。私もなかなかに忙しい」
 からかわれたのだとようやく気がついたらしいエドワードは、声も低く、重ねて問う。
「・・・・・・渡したときに、『これがとても面白かったから鋼の、君も読むといい』とかなんとかゆって渡したじゃねえか」
「あっはっは。冗談だ冗談。そうか、そんなに面白かったのか」
 まっすぐ返る反応がおかしくて、からかいの種を探してしまうロイに悪気はない。この子供が気が強く乱暴なわりに、怖いはなしが苦手なのもそうしているうちに見つけた弱点のうちの一つだ。弟思い、牛乳が嫌い、口が悪い、寝相が悪い、執務室のソファが好き、読書中に話しかけると照れる、犬は嫌いじゃないが苦手、身長にコンプレックス。真面目で、生意気。あざといようでいて、純粋。
「ならば私にくれるかね、鋼の。読んでみよう」
「・・・・・・・・・・もー捨てたよ」
 ぷい、とそっぽを向き、再び手元の本を開く。機嫌を損ねてしまったんだろうかと思うけれど、出て行かないところをみるとそうでもないらしい。全く飽きないな。エドワードがいてくれれば、今日一日仕事の合間のいいストレス解消になりそうだ。ここで笑えばまた叱られるなと、ロイは声を押し殺し傍らに腰を下ろす。
「・・・・んだよ、せめーな」」
「いいじゃないか。私も少し休憩だ。今は何の本を?」
 無言でずい、と眼前に押し出された本の背中をみて、ロイは見覚えがあるなと既視感に駆られる。
「それ・・・・」
「んだよ、かさねえぞ」
 勘違いして、頬を膨らましながらロイの視線を避けるように本を大事そうに抱える。触れた膝からも逃げて身を縮こまらせる仕草は野良猫に似ている。未だに警戒されているんだろうかと、意地悪くわざともう一度膝をあわせ身を寄せると、逃げ場所のないソファの上でエドワードが唸った。
「てめ・・・狭いッつううの!なんだ一体!」
「どこかで見たな」
「・・・・・・どこで?」
「うん?・・・・・・・いや、やっぱりいい」
 にこやかに両の掌を見せて降参の仕草をして見せたロイに詰め寄るエドワードは、ほんとうに素直な子供だ。
「てめ・・・・・・この本はオレがわざわざ南の端っこまで行って、ようやっと手に入れたきっちょおおおお!な本なんだよ。時間も金も掛かってんだ。で、そのオレが苦労して手に入れたこの本をどこで見たんだって?」
「・・・・いえば君は怒る」
「もー怒ってんだよ、早く言え、こら!!」
 しまった黙っていたほうがよかったかと思ったけれど、時はすでに遅い。仕方なく、白状するロイの口元は、けれど意地悪げに笑ってしまう。
「私の家」
「・・・・・・・・・マジでか・・・・!なんっで、さっさとかしてくんねーんだ!!」
 悲鳴のように叫ぶのに、今度こそ笑い声をロイは抑えきれなかった。
「忘れていたよ。本当だ」
「嘘くせえ・・・にやにや笑いやがって。アンタ、本当に意地が悪いのな。根性が腐ってて、すげー臭い。あーくせえくせえ」
 鼻をつまみそっぽを向く、小さな頭の後ろの三つ編みの先が、ロイの眼前ではねる。
 可愛いな、と思うのはこんな、なんでもない瞬間だ。
 三つ編みに手が伸びそうになるのを堪え、ロイは懐柔手段にでる。勿論それすら計算済みで怒らせたのだから性質が悪い、とは本人は思ってはいないだろう。
「その本には続きがあるんだ。知っていたか?」
「・・・・・・・・知ってるけど」
「残りも家にあるよ。よかったら貸そうか?それとももう、持ってる?」
 ちらりと視線を送り、ロイの顔をうかがうエドワードの双眸はすでに輝いている。
 ほんとに、可愛い。
「・・・・・・・・借りる。いつ?今日?大佐ん家、行ってもいいの?」
「いいよ。もうすこしで終わるから、そしたら一緒に帰ろう。貸してやる。なんなら食事でもどうかね?なにせ久しぶりに会う。少しは旅の話しをしてくれてもいいのでは?」
 この時点では、ロイにとってはエドワードは可愛い子供でしかなかった。毛色の変わった、面白い、可愛い子供。殺伐とした仕事場にほんの少し、温かい色をのこすような。

 そのとき、どうして知ることが出来ただろう。
 やがて自分が、心臓を握り潰すほど、この子供に囚われてしまうなんて。


「やった!オレねー肉くいてえな、肉」
 万歳と、両手を挙げた瞬間エドワードの右手があたったのだろうと思う。それはいつも彼が抱えていた小さな黒いカバンだった。書類や衣類を詰め込んだ、旅の傍らにいつもあった、何の変哲もない黒いカバン。弾かれて横たわった、その黒いカバンをエドワードはよく閉めていなかったらしい。そのカバンは、ばちんと音を立てて執務室の床に転がり口を開け、中身を吐き出した。
 思わず視線をやった先の、散らばった本の表紙を見てロイは目を見張る。
 それは確かに、先月エドワードに冗談で渡した童話とたった今話していた書籍の続きそのもので。
 瞬間理解できずに、ロイはエドワードと本とを順番に見比べた。
 エドワードは体を硬直させて、一瞬で血の気の引いた白い顔をして、それから真っ赤になった。
 熟れすぎた林檎のように。
「・・・・・・・・っ」
 床に飛びついて本を抱え込むその素早さは、そういう競技があれば間違いなく世界一だろうと思われる。床にへたり込んで、体が震えるほど力を込めて、本を抱きしめるその後ろ姿はまるで頼りない。表情は見えないけれど、うなだれた頭にちょこんと覗く、耳たぶが恐ろしいほど赤いから、多分恥ずかしがっているんだろうと思う。ロイはただ呆然とするしかない。
 ロイが冗談で渡した童話を、エドワードは「捨てた」といった。
 すでにもっていた書籍の続きを、エドワードは「借りる」といった。
 これがなにを意味するのか、どうしてもわからずにロイはただその背中を見つめるしかない。丸まった、小さく震える、その背中を。
「エドワード?」
 そっと触れた背中はかわいそうなほど熱を持っている。熱を持って震えている。
「・・・・ちが・・・・・ええと。違う。お、おかしいな・・・・・・あれ?」
 泣くのかと。
 ロイは思わずその肩を掴んだ。
「エドワード」
「や・・・・・・なんか・・・・・・ははは・・・・ちょっと間違い。色々。間違えただけだから。オレ行く。アル待ってるし。あの、ほんとごめん。よくわかんねえけど、わ、・・・や、・・・・・ええと。だから、ごめん」
 顔を背けたままエドワードが散らばった紙片や衣類やペンをのろのろとカバンにしまう。その指先は、震えて何度も紙片を取り落とした。肩に触れるロイの指から逃げようと、滑稽なほどエドワードは身をよじっている。まるでロイの指が焼けた鉄で出来ているかのように。
「・・・・・・こっちを向け」
 ごくりと我知らず息を飲みながら、ロイは慎重に言葉を口にした。
 どうしたらいいのか、自分でもわからない。
 けれど、このまま逃してはだめだと思った。
「・・・・・・鋼の・・・・・・エドワード?」
「・・・・・・・・・・・・・別にっ」
 振り向くと同時に右手で指先を払われた。痺れるような感覚を覚え、同時に散った紙片を無意識のうちに目で追う。怒声に視線を引き戻される。
 エドワードは泣いていた。泣いていたと、思う。
 顔を真っ赤に染め上げて、激情に双眸を潤ませて、震えながら叫んだ。それがなぜだか、可哀想で。
「別にオレ、どうしたいとか!どうなりたいとか、そういうのないから・・っ」

 そうかと思った。


 なんだ。そうか。
 この子は私を好きなのか。
 
 そうか。

「ほ、ほっといてくれたらいい。なんでもない風に、してるし、・・・・・嘘ついたりとか、悪かったけど。でも別に、アンタになんかしたいとか、そういうのないし・・・っ」
 どくどくとこめかみが脈打つのがわかる。全身の神経が研ぎ澄まされて、今なら空気の流れすら皮膚で感じ取れるだろう。目の前でエドワードの唇だとか、首筋の脈だとか、皮膚の小さな傷だとか、部分部分がやけに鮮明だ。頭の中が熱をもち始めていた。
「私を好きなのか」
 びくりとエドワードは肩を揺らした。
 真摯に視線を返し、うなだれる。
 迷い。
 躊躇い。
 それから、小さな声で呟いた。
「・・・・・・・・アンタが、好きで」
「・・・・・・・」
「一緒にいたくて」
 ぽつりと零れた言葉がどれだけロイの胸をしめつけたのか、おそらくエドワードは知らないだろう。知らないまま、自嘲するように言葉を続ける。
「・・・・わかってるから。気持ち悪いだろうし、こんなガキ相手にしねえだろうし、っつーか訳わかんねえだろうし。だからさ・・・・・だからさ。あんま酷いこととか、いうなよ。別に・・・・・好きなだけで。なんもしねえし、オレ。ほっといてくれるだけでいいから」
「・・・・・酷いこと?」
「ア、アンタ意地悪いから。ほっとかれるのは・・・・・平気なんだけど・・・・・・・大佐から・・・・・・・気持わりいとか言われたらやっぱ、つ、辛い・・・・・から」
「・・・・言わないよ」
 笑うならば笑えと思う。
 好きだといわれてすぐにその気になったのかと、言われればそうだとしか答えようがない。けれど、囚われたと思った。子供の真摯な愛情は、即効の猛毒によく似ていた。すぐに全身に回って、息の根を止める。
 呼吸が止まった。 
 床の紙片を握り締める、エドワードの生身の左手に触れる。逃げようとするのを押さえつけて、そのまま引く。強く抗い、顔を背けるのを無理やり抱き寄せる。
「・・・・なにす・・・・・・大佐!っだ・・・っ」
「こっちを」
「やだ!!」
 胸元で暴れる、その子供の体から発せられる熱にあおられながら、けれどにがすまいと思う。今逃がせば、エドワードが渡そうとした愛情が歪んでしまうだろう。この子はもう二度と素顔を自分にみせようとはすまい。それは直感だったが、後で思えば正しかったように思う。人よりも自制心の強いこの子供は、自分の感情くらい、なかったことにするのは得意なのだろうから。可哀想なほど。
「・・か、からかって、からかったりとか!そういうの・・・っ」
「私を好き?」
「・・・・・・・・さっきもいった・・・・っ」
「どうして」
「わかんねえ!」
 怒鳴り返されて、何故だか笑ってしまった。たまらなく彼らしいと思ったからかも知れない。
 笑って、そのままロイはくちづけた。右手で小さな金色の頭を引き寄せて、触れるだけの、けれど慈しむように、きちんと。
「・・・・・・・っ、・・・っ」
 どん!と一度殴られて、けれど抵抗はその一度だけだ。空気を抜かれたように、エドワードはロイの腕の中で大人しく抱かれている。表情は知らない。キスのときは、目を閉じるものなのだから。
 ロイが目を開ければ、子供の顔は吐息が掛かるほど間近にあった。
 息を継げずにいたんだろう。呼吸が荒い。
「・・・・・・・・・酷いことなど、言わないよ」
「・・・・・・・・・・・」
「嬉しかった。本当だ。ありがとう」
「・・・・・・・・なら」
 もう一回、と蚊の鳴くような声でエドワードが言い、ロイの軍服の裾を引いた。
 アンタのくれた本なんか、捨てるわけねえじゃねえかと教えてくれたのは、その後で。
 アンタと居たくて、本の続きを持ってるのに嘘をついたんだと教えてくれたのは、その更に後の話になる。


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 気がつけば視界に、エドワードが居た。いや、居てくれた。けして素直な子ではなかったけれど、そのひたむきな愛情は常に傍らにあったように思う。つかず離れずに寄り添う、その意味をずっとロイは知らずに居た。だから今までわからなかったんだろうか。
 離れてみて、はじめて。
 一人で目覚め、一人で朝食をとり、一人で支度をする。
 以前は当たり前だったことなのに、いまはこんなに空しい。
 あの手を、離してしまった。
 熱を持つ、あのきれいな愛情を渡す掌。
 父親でもよかったのだ。父親でも、上司でも、恋人でも、なんでも。
 あの愛情をなくすことに比べたら、それがなんだというのだ。
 私はなんでもよかったはずだったんだ。



 からっぽの両手を眺めて、ロイは新たに決意する。
 簡単に諦めたりなどしない。自分は愚かで、沢山失敗したけれど、これからも沢山間違うのだろうと思うけれど。

 もう今更。
 あの掌を離しては、生きていけないのだ。