三日目
軍医という立場上、彼女の朝は早い。
早朝訓練中に負傷した兵士が医務室に列を成す前に、前日の書類の整理をして医務室内を掃除して薬品と器具のチェック、注文を済ませていなければならないからだ。小さくあくびをしながら、少々くたびれた感のある、職場のドアを彼女は開いた。
開いて、閉じた。
室内にいた人物に驚いたせいである。
驚き、もう一度部屋を間違えてはいないことを確認し、彼女は恐る恐るドアに手をかける。
見間違いでなければその人は、ここ東方司令部の希代の出世頭、ロイマスタングだ。
ここはお前の部屋かと問いたい程優雅に腰をかけて、朝日などを眺めるその姿はやはり皆が騒ぐだけあって、秀麗だった。図らずも声を上ずらせながら、彼女は声をかけた。
「おはようございます、マスタング大佐」
敬礼にひらひらと右手を振ることで返して、ロイはゆっくりと振り返る。
「おはよう」
どこか憔悴しきったようなその表情は物憂げで、女なら誰でも見とれてしまうだろう。いつもの自信に満ち溢れ、皮肉気に微笑む様に憧れる女は大勢いるけれど、普段を知る分、このギャップは何事かと思う。まるで今のロイマスタングと言えば。
「・・・捨てられた子犬」
「どこにだ?」
失言に気がつき、慌てて彼女は頭を下げる。
「何でもありません、失礼いたしました!」
ロイはそうかね、と茫洋と返事を返し、ふう、とため息をつく。机に肘を突き、頬を支える仕草は幼くさえある。ロイがこんなところへ姿を現すのは珍しい。というよりほとんど初めてではないだろうか。佐官という立場上、彼が怪我を負うことなどなかったし、風邪をひくというようなこともなかった。たまに彼の副官が訪れては、「一週間は寝ないで働けるような強力なカフェイン剤はありませんか」などと無茶苦茶なことを血走った目で言いに来るくらいで。そういうときはせめてもとホークアイへ精神安定剤を処方してた事などを思い出しながら、彼女は困惑しながら、それでも勇気を出して問うた。
「あの、今日はどうされたんですか?大佐」
「・・・・・・うん」
ふう、とまた一つため息をついて、ロイは目頭をこする。苦渋の表情がそこへ浮かぶのに、ドキドキと胸を高鳴らせてしまうのはしようがない。なにせ相手は東方司令部全女性の憧れの的、ロイマスタングだ。密かにファンクラブすら存在する、彼女にしてみれば手の届かない存在であるロイと、この狭い室内に二人きりなのだ。期待などさらさらしていないけれど、それでも緊張することくらいは許して欲しい。近くで見れば、確かにロイは男前だった。つやつやの髪の毛につるつるの頬。目の下には隈、物憂げなため息。思案するその表情はといえば、まるでどこかの王子様のようで。
「実はな」
「・・・・・・はい」
「君に相談があって」
「なんでしょう」
声が裏返りそうになるのを一生懸命堪えて咳払いをする。ロイの次の言葉を待つ時間はまるで永遠のようだ。
「君は既婚者かね」
「・・・・・・そうですけど」
「・・・・そうかね」
ふう、とロイはまた一つため息を重ねて頭を抱えた。期待するなというほうが無理な展開に気が遠くなりながら、彼女は白衣を握り締める。
「子供は?」
「・・・・・・・・・二人いますけど、あの、」
「二人か。可愛いだろうね」
「・・・・・・・・・はあ、まあ。あの、」
「育児と仕事の両立というのは大変なんだろうね」
質問の意図が全く読めないままに、それでも上官の問いとなるべく完結に応えようとする彼女は軍人の鑑だ。
「そうですね、まあでも・・・・夫が協力してくれますから」
「やはり子育てというのは、仕事をしながらの片親ではうまくいかないものなのだろうか」
あ。この人失敗したんだ・・・・と胸のうちに去来した切ない思いはたとえようもない。大方、避妊に失敗したか失敗させられたかで、子供を莫大な慰謝料と引き換えに押し付けられたんだろうか。紛れもなくこれはスキャンダルであり、ロイにとっては失脚しかねない一大事だ。そういうことかと、しかし合点がいく。近頃は音沙汰なかったが、数々の浮名を流したロイマスタングだ。そういう失敗の一つや二つ、ありえない話でもなかった。
「男手一つで育てるというのは色々と困難なんだろうね」
「ええと・・・そうですね、特に新生児ですと三時間ごとにミルクを欲しがったりオムツをかえたり寝かしつけたりと手が掛かりますから、とても男の方が一人で、しかも仕事をしながらとなるとちょっと・・・」
「いや、四歳児なんだが」
過去の失敗か・・・!と内心の絶望を隠し、表情一つ変えない彼女はやはり軍人の鑑だった。
「四歳児ですか」
「そうだ。ここまで大変だとは思わなくてな。正直手を焼いていて・・・・」
「ご相談というのは、ですからその、育児の?」
「ああいや・・・違うんだ。実は」
希代の出世頭。
29歳の若さですでに大佐。
そのどこか幼さを残した童顔は、女性を魅了してやまず、その小さな頭の中に渦巻く野心に見合う才能は言い表せない。
東方女性の憧れの的、ロイマスタングは。
「その子供への性的欲求を抑えるには」
「・・・・・・・・・・・」
「どうしたらいいとおもう?」
りっぱな変態だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・わたし誰にも言いませんから」
問われてもいないのに誓ってしまうのは、自分でもその自信がないからだろう。こんな凄まじいスキャンダルを果たして自分の胸一つに収めておけるのだろうか。東方司令部所属、ロイマスタング。地位は大佐が、遊びが過ぎた挙句、四歳になる子供を押し付けられ、しかもその子供に欲情するようなド変態だなんて。近親相姦の上幼児性愛趣味だなんて。
「子供に欲情するなんて私は変態なんだろうか。いや、そうだな、変態なのだろうな。しかしこのままでは彼の父親になれない。彼との約束を破ってしまうことになる」
しかもホモかよとは彼女は言わない。ただ遠くなる意識を繋ぎとめるのに精一杯だからだ。
「私は彼と一緒に風呂に入ったり、夜絵本を読んでやって一緒に眠ったりしたいんだ。どうしたらいいのだろう。あの子の父親になるのだと、もう約束してしまった」
「そうですね、あの、ちょっとすいません眩暈が・・・・」
「うん?大丈夫かね。・・・・そういえば顔色がよくないな。いかんぞ、軍医ともあろうものが自らの体調管理も出来ないようでは下のものに示しがつくまい」
ロイは顔をしかめ、誰のせいだと詰らない不憫な部下の手をとる。ベッドに横たわるのを手伝おうと、シーツを払う様は、変態でさえなければ惚れ惚れするほどだ。いっそこのまま意識を失えたらと彼女はおもった。そして後にいっそ意識を失ってしまったほうがよかったのだと激しく後悔する事になる。
「ろい!!!」
静かにと注意する気も失せるほど激しく扉を叩き開けながら、錬金術師としてロイとは名を争うほど有名な少年が飛び込んできたのは、その瞬間である。いつもは綺麗に編まれた金髪を振り乱して、泣きはらしたような真っ赤な目で、鋼の錬金術師エドワードエルリックは肩で息をして立ち尽くしている。ロイはびくりと体を揺らして、視線をそらしている。
「エドワード、ついてくるなとあれほど」
「なんでおれからにげるの・・・・・っ」
「逃げてなどいない。いいからあっちへいっていなさい。今私は大事な話しをしてるんだ」
果たしてそんな真剣な話しをしていただろうかと彼女は疑問に思いながらも今の状況についていけないでいる。どういうことだろうか、これは。
「うそだもん・・・っ、ろい、おれのことみてないも・・・・」
ぐじゅ、と顔をゆがめて朱に染めながら、金色の双眸が見る見る潤む。鼻を盛大にすすりながら、必死になくのを堪えようと、エドワードは歯を食いしばっている。
「き、きのうから、なんかろいちが・・・もん・・・っく・・・ひっ・・・・・お、おようふくきせてって、おれゆったのに・・・・っ、しらんかお、するし・・・・っく、ひっ・・・・おしっこ、ついてきてくれな・・・しっ・・・・お、おれいいこにしてるのに、ろ、ろいが・・・・・い、いじわるするも・・・っ」
「ちがう、ちがうよエドワード、ちがう。そうじゃないよ・・・いじわるじゃないんだ」
顔を蒼白にさせてしどろもどろといいわけするロイは、誰がどう見ても疚しいところがあるとしか思えない。そうなんだ、この二人はそういう関係なのねと彼女はその爛れたロイの黒い交際にいっそ感心しながら事態を見守ることしか出来ない。いつも元気で活発なこの少年がこんなに見も世もなく取りすがっているのだから、もっと大事にしてやればいいのにと同情すら覚えながら、彼女は身をすくめる。巻き込まれては叶わない。
「も・・・いい・・・っ・・・・・」
赤いコートを翻し、駆け出そうとしたエドワードはべたんと一度床に躓く。ひどく鼻を打ったのか、顔を抑えよろめきながら廊下を走っていく。
「まちたまえ・・・っ」
ロイはといえば、やはりよろめきながらエドワードの後を追う。
呆然とそれを見送りながら、ああ、軍医というのは大変な職業だなと彼女は思いながら、床にへたりこんだ。
*********
「待ちたまえ、エドワード・・・・!ちがうんだ、話しを聞け!」
つかまえた左手に血がついているのにぎょっとしながらロイは、けれど手を離すまいと縋りつく。
「話しをききたまえといっているだろう!」
早朝とはいえ、ここは軍の廊下である。すれ違う人々は、涙と鼻水と鼻血をたらし必死に逃げようとするエドワードとそれをにがすまいと捕まえるロイに視線を合わせようとはしない。その異様な光景に割って入るほど命知らずはここ東方司令部にはいないからだ。
「や・・・ッ・・・・・・ばなぢて・・・・」
「いいからこっちに来たまえ!」
すこし乱暴だろうかと思いながら強く手を引き、手近な扉へ飛び込む。中で書類の整理をしていた下士官に、「作戦会議だ、出ていてもらえるかね」と強引に追い出す。
泣きじゃくるエドワードをただ不憫に思う。
いまもロイの手を嫌がり逃げようとしている。エドワードの泣き顔を、ここ数日で何度見たのだろう。私は泣かせてばかりいる、といいようもない苦痛が去来する。それは心臓を握りつぶすような、胃を熱くさせるような、味わったことのない痛みだ。
「・・・・・・・・・・可愛い顔が台無しだ」
ポケットの、すこしよれたハンカチで顔をぬぐう。涙は止めようもなく、何度頬をなぞっても流れていくばかりだ。鼻をかむようにいうと、少し顔を歪めて言うとおりにするのが可愛らしい。
「痛かったか?・・・血はもう止まったな。今も痛む?」
ぶんぶんと首を振って、エドワードは泣きじゃくる。何かを言おうとしては、喉が詰まって言葉にならないのだろう。
「・・・・えっ・・・・ひ・・・・・えっ・・・・あ・・・っく・・・・うええ・・・・っ」
「話しを聞いてくれる?」
「・・・・・・・・っ・・・・・んっ・・・・」
「あのな、エドワード。君を嫌いなんじゃないんだ。むしろ逆だよ。君が大好きだ」
「・・・・ック、じゃ・・・っだんで・・・っ」
「・・・・・大好きだよ・・・・・」
自然と指が伸びていた。やせた肩を強く抱く。
痛いだろうか。
けれど、この自分をすきだといってなく子供を、慰めたいと思った。
そのためになら、いくらでも自分の情動など押さえつける覚悟で。
かつての恋人の肩を、ただ純粋な愛情で抱きしめる。
抱きしめるための、努力だ。
彼をすきだったことを忘れよう。あんなふうに、手が触れるだけで、血が沸騰するような、そんな愛情は今のエドワードには重荷でしかないのだから、忘れるしかないのだ。
忘れよう。
父親に、いい父親になることが、今のわたしに出来る唯一のことなのだ。
ならばそうするしかないじゃないか。
「エドワード・・・・」
「・・・・・・・・なに・・・・」
「君が好きだよ。本当に好きだ。信じてくれるね?」
「・・・・・・ほんとう?」
「勿論。・・・・・・・君が好きだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「私はいい父親になる。努力をする。私の子供になってくれるだろう?」
イエスを待ち、ロイは瞳を閉じた。
父親になる覚悟。いい父親になる覚悟だった。
「・・・・・・・・・・・・・やだ」
だから。
腕の中から、まさか否定が帰るとは、思わなかったのだ。
「エドワード・・・?まだ怒っているのか?ちがうんだよ、昨日のは、」
「ろい、おとうさんにならなくっていい」
「昨日は、ちょっと私もはじめて君との入浴でよく勝手がわからなくて・・・それで・・・」
「ろいがおとうさんなんかやだ」
「エド?」
聞き間違えたのだろうかとさえ思う。
「おれろいのおとうさんなんかやだもん!!!」
どん、と胸を突かれて、その痛みだけがやけに鮮明だった。そのときロイは自分がどんな表情をしていたのか、エドワードはどんな顔をしていたのか、いつの間にエドワードが部屋をでていったのかはっきりと記憶がない。
ただ頭の中が真白だった。
いやだと叫んだエドワードの声が耳の奥でこだまする。
確かだったのは、今度こそ嫌われたのだという事実だけだった。