一日目(夜の部)
「いい加減にしなさい!!」
がん、と掌をテーブルに打ち付けると、エドワードの手元のスープ皿にかすってしまったらしい。スープ皿はぐわんとゆれて、なかのコーンポタージュをテーブルの上にぶちまけた。エドワードの顔や手や、洋服も見事にクリーム色に染まる。エドワードは一瞬びくりと体を固めて、いままでふりまわして遊んでいたスプーンを取り落とす。そして目を見開いて、その金色の瞳にみるみるうちに雫を溜めて、ぷるぷると震えた。
その表情に、思ったよりも大きな声で怒鳴りつけてしまったのだなと思うけれど、すでに遅い。ああ、またかと憂鬱な気持を隠せずに、ロイはため息をついた。それとほとんど同時に、子供はひっ、ひっ、と嗚咽を漏らしはじめた。堪えようと懸命に下唇を噛んでいるけれど、堪えきれずに目からぼたぼたと水分が滴る。けれど泣かせてしまった罪悪感よりも、苛立ちが増していた。感情のままに、言葉を続けてしまう。
「どうして大人しく食べられないんだ。パンはちぎって放り投げる、スープ皿に胡椒をありったけ突っ込む、ナイフを何度も落とす、食べ零したものを足で踏む。人が黙っていればいつまでもいつまでも。どうしてそんな真似をする?」
押し殺した声にはどうしても怒りの感情が滲んでいる。
午後6時に激務を終え、暴れるエドワードをあやしながら夕飯の支度をして、ようやっとテーブルにつけたと思えば、折角作った食事を台無しにされて、部屋までぐちゃぐちゃに汚されて。これで、頭にこないほうが、どうかしている。
ロイは腹立たしく、エドワードのテーブルの前の皿を乱暴に片づける。無理やり重ねたせいで、さらにテーブルを汚してしまったけれど関係なかった。これだけ汚れていれば、一緒だろう。
「そんなに食べたくないか。私のつくった食事では不満なのか」
相手は四歳児なのだと言い聞かせても、攻める口は止まらなかった。謝りもせずに、ただ泣く子供に腹が立った。
「・・・・・・・・・・・う、ううっ、ひっ、・・・・ひっ」
「何とかいったらどうだね」
「・・・・・・・・・・・・・うっ・・・あっ・・お、おか、さん・・・っ、おかあさんのとこいく・・・っ」
「・・・・またそれか。都合が悪くなれば、すぐにおかあさんだ、君は」
はあ、と大きくため息をつき、ロイは頭を抱えた。
正面にすわり、大声でお母さんと泣き叫ぶ子供を心底もてあましていたからだ。
胃がちくりと痛む。針の先で内側から突付かれているように。
「おかあさん・・・っ」
上手く呼吸できずに、ロイはもう一つ息を重く吐き出した。
「もういい。いいからバスルームへ行って、シャワーを浴びてきなさい。そのままの格好では、食べるに食べられまい」
「・・・・えっ、えっ、ひぐ・・・っ」
「・・・・・・・・・・・ああもう・・・・・」
立ち上がり、泣きじゃくる子供の手を引いて、バスルームへ連れて行く。着替えはまた用意してやらねばいけない。バスタオルの場所を教えて、綺麗になるまででてくるんじゃないと厳命して、ロイは部屋をでた。出る、それまでが限界だった。扉を背に預け、ずるずるとへたり込む。膝に突っ伏して、もう一つ盛大にため息をついた。
子育てというのを甘く見ていたと、自分の認識を反省せざるを得ない。
司令部にいるときはよかったのだ。ハボックやアルフォンスや、他の手の開いた面々がエドワードと上手に遊んでやり、彼も始終ご機嫌で、いまこんな風に泣き叫んだりするようなことはなかった。むしろ楽しそうに、きゃあきゃあと跳ね回っていて、その無邪気さに、ロイも頬を緩めていたものだった。遊びつかれて眠ったところを車でつれて帰ってきたのだが。
まさかこれほどのものとは。
正直辛い。
気に入らないことがあれば、すぐ暴れる。泣き出す。お母さんと叫ぶ。
昨日から、何回この子供をなだめすかして、あやして、抱きしめたんだろう。最後に数えることをやめた。
苛苛の要因は、多分寝不足のせいでもある。昨夜は散々お母さんと泣き叫ぶエドワードをあの手この手であやして寝かしつけてからも、妙に興奮して眠れなかった。今朝は今朝で異様に早く目を覚ましたエドワードに朝食を用意しろとねだられて、いつもよりも早くたたき起こされて。体はもはや限界に近い。
そこへ来て、折角作った食事でああも遊ばれたのでは、仕方がないじゃないか。
正直、ロイは料理はうまいほうではない。昼間図書館から、簡単な料理の本を何冊かかりて、時間をかけて一生懸命つくったのだ。作っている最中だって、エドワードはちっとも大人しくしていなかった。危ないからと言い聞かせるのに、ロイの足元から離れないで、遊ぼう遊ぼうとダダをこねただのだ。エドワードのためにつくっているというのに。そしてなまじ、エドワード自身のサイズは15歳そのままだったから、余計にいらついた。もしかしてこいつ実は記憶はそのままで、私をからかっているだけなんじゃあるまいなとまで思った。そして、そう思った自分をどうしようもなく嫌悪してしまい、一層辛い。
辛い。
辛い、辛い、辛い、辛い、辛い。
「・・・・・・・・・・・・・・・はあ」
今日は、よく眠ってくれるだろうか。これ以上、我侭をいうことはないだろうか。
どうしてやったらいいのかすらわからずに、安うけあいした昼間の自分を、ロイは呪った。
素直に、アルフォンスに任せて置けばよかったのかもしれない。無理せずに、あの子供扱いの上手なあの子に。そのほうがエドワードだって、よほど楽しかったに違いないのに。自分が妙な気をおこしたばかりに、みんなを苦しめているようで、なおさら重圧を覚えて、ロイは最早何度目かもわからないため息をついた。矢先だった。
今まで大人しかったバスルームのなかから、ぎゃあ、という悲鳴とも泣き声ともつかない叫びがロイの耳を打った。ぐったりとしていたロイは、突然心臓を握られたかのように体を揺らし、震えて立ち上がる。その酷い声に、たまらずバスルームへ飛び込んだ。バスルームのなかはもうもうと湯気が立ちこめ、息苦しいほどだ。蛇口を全開にしてあるシャワーは、タイルの上に強い水圧で出続けている。
まさか、熱湯を出したんだろうか。
青くなりながら、服を着たまま風呂場のタイルの上に蹲るエドワードを慌てて抱き起こす。
「エドワード!」
「・・・・っ、えっ、えっ、く、」
出っ放しのシャワーを慌てて止める。温度を確認すれば、それは確かに直接あびるには高温で、ロイの背筋を寒くさせる。
「どこだ!どこにあびた!」
気が急くあまり、怒鳴ったロイに、びくりと震えてエドワードは泣きじゃくるばかりだ。
左手を乱暴にひっぱり、腕をかざす。明らかに熱湯を浴びた、子供の皮膚は赤くなっていて痛々しい。けれど、火傷というほどの熱でもなかったことにロイは安堵した。火傷に関していえば、得意分野だ。自信がある。
「・・・・・大丈夫だ。たいしたことはない」
けれど、念のためにと嫌がる子供の手を押さえつけてしばらく水に晒した。
泣こうが、わめこうが、関係なく。
酷い一日だ。そう思いながら、ロイはもうひとつため息をつく自分を抑えられなかった。
流石に泣きつかれたのだろうか。エドワードはいまだ嗚咽にひくひくと喉を鳴らしながらも、ロイが薬を塗るのをぼんやりとみている。特に赤い、左手の甲にだけ薬を塗り、勝手に触ったり口元に持っていかないように、包帯を巻いてやる。無言のままの作業は妙に気まずく、耳鳴りすらもたらす。すでに時計は11時を回っていた。子供は眠る時間だ。眠たいんだろうかと、ほっとしながら、ロイは苦くつまる喉を無理やり使う。
「・・・・・・・・・・・・・もう寝なさい。明日も早いから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・あの」
「お前の部屋は、ここだ。私の部屋はとなりだから、なにかあったら呼ぶように。いいな」
「あの、あのね」
かすれた声で、何かを言いかけようとしたエドワードに答えてやる気力などなかった。ロイはそのまま気だるそうに立ち上がり、背中を向ける。
「あのね、ろい」
「お休み」
背中をむけたままの「おやすみ」には、返事は返らなかった。
扉を閉めて、自室へ閉じこもってしまえば、やっと一人になれたのだと実感して。
同時に頭痛にも似た自己嫌悪が襲う。
なにをやっているんだろう、私は。
わたしのせいで、エドワードは記憶を混乱させてしまっているというのに。
「やさしく、できない」
ぽつりと呟けば、情けなさに鼻の奥がつんと痛んだ。
あんなに大事に、かわいがっていた、唯一の恋人だったはずなのに。
しかも、精神年齢四才という幼い子供に対して、今日は怒鳴ってばかりいたような気がする。
子供のやることだと、どうして笑って受け流せないのか。
やさしくしてやれずに、怪我までさせてしまうところだったのに。
後悔の言葉がやたらに去来するけれど、ほんとうに感じているのはただの疲労だけで。
それが辛い。
わたしは、エドワードよりも自分のほうが大切なんだろうか。
だから
こんな
「・・・・・・辛いな・・・」
眉を寄せて、左手で顔を覆う。今日は寝よう。早く寝て、体を休めて、そうしてまた改めてあの子供に向きあえばいい。自分の体さえ万全ならば、もうすこし違った一日になるはずだ。というよりも、せめてそれを信じなければやってられない。
そう思い、汚れたシャツを脱ぎ捨てて部屋着に着替える。シャワーは明日だ。もう体がくたくたで指一本も動かしたくない。ベッドに倒れこむように飛び込んで、ロイは体の力を抜いた。
眠りに引きずり込まれることは簡単だ。力を抜いて、視界を真っ暗にすればいい。そうすれば、向こうのほうから手を引いて誘ってくれる。頭の芯が痺れたように重い。もう何も考えたくない。
暗闇になれたころ。引きずり込まれる寸前。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ろい」
小さな声に驚いて、ロイは覚醒した。身を起こせば、戸口にエドワードが立ち尽くしている。
どうしたんだ、と仕方なくきこうとして、ロイはエドワードから白く伸びたものの正体を知る。それは、先ほどロイが丁寧に巻いてやって包帯だった。すでに解いて、引きずってしまっているそれは、もう使い物になるとは思えない。
これ以上は、心がもちそうにないというのに。
ロイが苛立ちに任せ怒鳴ろうとしたその瞬間、小さな声が先をいった。
「ろい、あたまいたいでしょ?」
「・・・・・・・・・・なに?」
「あのね、あたまぎゅうってして、ハーって何回もいってたからね、いたいのかとおもってね」
着せられた大き目のシャツの端を右手で握り締めて、エドワードはためらいながらロイに近づいた。そして手にした包帯を、ベッドに腰掛けるロイの頭へと絡ませる。
「いたいのかわいそうだから。おれの、これあげる。おれいたくねーし。ね」
小さく首を傾げて、エドワードはまだ嗚咽の残る声で無邪気に笑った。瞼を真っ赤に腫らして、さっきは怖かっただろうに。
今は平気な顔をしてロイに、痛かっただろうという。
ロイをたまらなく、させているとも知らずに無邪気に。
喉に苦く辛い何かがつまって、ロイは上手に息もつけない。ため息すら出てこない。何かが瞳に滲んだ。
「エドワード」
「いたいのいたいの、とんでけー。おれにとんでけー。ねえ、いたい?もうへいき?」
温かい掌に、額を摩られる。壊れ物を扱うように優しい掌が伝える熱が、,先ほどまでイライラと胸のなかに凝っていた棘を一つ一つ抜いていく。
「あのねおれね、いいこじゃないからね?」
拙い言葉で一生懸命に、何かを伝えようとエドワードが口を開いた。そうした仕草は、まるで15歳のエドワードエルリックそのままで、ロイを惑わせる。あの子も、言葉がヘタクソだった。だから、時間をかけてゆっくり、けれど言いたいことを譲らずに、恥ずかしいのを我慢しながら、一生懸命に、ロイに伝えてくれていた。その潔さや愛おしさを、急にもどかしいほど欲して、いつの間にか、手を伸ばしてしまう。抱きしめた子供の体は、相変わらず鶏ガラのようで、けれど温かい。心に染みるほど温かい。
「ろい、おこった?」
「・・・・・・・・・・・おこってないよ」
「あのね、ごはん、とってもおいしかったの。でもね、ひるま、ちゅーいがねえ」
「うん?」
「ちゅーいがおかしくれてね、ないしょねっていわれたから、ないしょなんだけど・・・・」
顔を覗き込むと、エドワードは眉を寄せて、いおうかいうまいか思案しているらしい。すでにいったも同然なのに、判っていないエドワードは本当にただの四歳児だった。天才錬金術師でも、生意気な15歳でもなく、ただの子供だった。かつてはロイもそうだったように。
「そうか、それで晩御飯が食べられなかったのか」
合点がいき、つまらないおこり方をしてしまった自分を心底反省する。
「おふろねーどうしたらおみずがでるのかわからなくてねえ、やっとでたら、すごくあつくて、でもねえ、きれいにしないとろい、でちゃだめってゆったでしょ?」
そうだ。わたしは教えなかった。15歳のエドワードであればそれでよかったのかもしれないけれど、相手が四歳だということをすっかり忘れて、どうやったらお湯がでるのかを、教えなかったのだ。
ご飯を食べないエドワードを、理由も聞かずにただ叱った。
怪我をした子供に優しくしなかった。
話しかけてきてくれたのに、無視をしたんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「だからね、あつかったけどねおようふくもおててもきれいにしようとおもってがんばったんだあ」
えへへ、えらいでしょう、とでもいいたげに子供は胸をそらした。
もう言葉が出ずに、ロイはただただ苦しがるエドワードをだきしめることしか出来ない。
「・・・・・・・・・っ」
「ろい?あたまいたい?おくすりいる?だいじょうぶ?おれいたいのいたいのとんでけ、たくさんしてあげるよ」
いいこいいこと頭をなでられる。
その頑是無い声に言葉もなく、ロイはただ子供を抱きしめた。