もとには戻らない








「・・・・・・・・・・・・あの」
「君みたいに美しい人に恋人がいないなんて信じられないな・・・私は幸運だった」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あのー」
「そのドレスはどこで?君のきれいな体の線にあう、繊細なつくりのものが市販されているなんて、東部の仕立て屋もなかなか。侮れないようだね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あの子、なんなの?」
 女の顔を直視することなど到底できず、ロイは、空を見上げていった。
「・・・・・・近所のかわいそうな子だ」
「誰がかわいそうな子だと・・・・?!」
 とたんに背後から膝の裏を渾身の力で蹴飛ばされる。ヘッドロックを予想していたロイは、いっそ見事なほど無様に地面に這い蹲った。
 あああああ・・・・・作戦中なのに、と心の中で泣く。しかし当然の事ながら、エドワードの目に映るのは、「オレにコナかけておきながら、町で女をナンパするいけすかねえクソ野郎」でしかない。
「ちょっともう、この子なんなの!ついてこないでッたら」
 軍の諜報部によるとテロリストの一員であるはずの女が、ヒステリックに叫んだ。それもそうだろう。長く目をつけていた国軍大佐を、誘惑するという重要任務に成功したのだ。それをこんなわけのわからない小僧に茶々を入れられたのではたまったものではない。
「お金がほしいんならあげるわよ」
 懐から小銭をひっつかみ、女はエドワードに向かって投げつけた。ロイが止める間もなかった。欲しけりゃ拾え、と罵声とともに。その一つが瞼を強く打つ。思わず片目を庇い、エドワードが右手で顔を覆った。女は興奮していて気がつかなかったのだろう。エドワードの顔に張り付く、その機械鎧を見て目を見張った。
「・・・・・・・なんだ。かわいそうな子って。アハハハハ、あの手のことね?わかった。みっともないったら。この人が優しいのに甘えて、自分の不幸を逆手に取ってるの。たかろうって言うの?あらやあだ。左足も?かわいそー。アハハハハ。いい?こんなとこで人様にたかってないで、ちゃんと働きなさいよ。体が悪いからって甘えちゃダメよ。なあによ、不幸ヅラしちゃって。確かにソレ、かわいそうだけどさあ、アンタよりかわいそうな人なんか世間には山ほどいるわよ。自分が一番かわいそうみたいにおもっちゃってんの?自分が辛いときほど、ほかの人に優しくしてあげなきゃダメなのよ?アンタのおかーさん、何にも教えてくれなかったの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
 右の瞼を押さえたまま、エドワードがぼんやりと聞き返した。ロイは微動だにできなかった。こんな酷い言葉、これに比類する、醜い言葉を聴いたことがなかったからだ。
 鋼の、と駆け寄ろうとする体を、ギリギリのところで理性で押し留める。動くな。怒りに我を失うな。作戦中だ。我を失うな。これは。今。作戦中なのだ。目の前の女はテロリストなのだという。ここで押さえておかねば、これからのち、ヘタをすれば何十人何百人の命を脅かす。奴らを一網打尽に捕える。それが作戦の意味。怒りに惑わされるな。
「えじゃないわよ。ほんと、人から小銭せびろうだなんてあさましい。ソレはあげるから、さっさとどっかいきな。この人にまとわりつくんじゃないわよ」
 汚いものでも見るかのように、女は目を眇めてエドワードを見下ろした。一瞥して背を向けて、膝まづいたままのロイの肩に手をかける。猫なで声で、上辺のいたわりを毒が染みるようにロイへとあてこする。触れられた部分に感じた嫌悪に、鳥肌を立てながら、ロイは女へ微笑む。エドワードを直視できなかった。
「君は優しいね」
「アハハハハ、近所に子供がいてー。子供の扱いだけは得意なんです。ホラ、最近へんな子多いから。大人が常識を教えてあげないと」
「全くだ」
 掌をぎりりと握り締める。爪をたてて、それでも足らない、と奥歯を噛み締める。


 今。発火布があれば。

「さあいこう。すまなかったね。変な邪魔が入った。どこへ行きたい?」
 鳥肌がおさまらなかった。そのまま女の肩を抱き、エドワードに背を向けて歩き出す。
「・・・・・アナタの部屋なんて、はしたないかしら」
 頬を染める女。


 生きながら焼いてやるのに。







 なんだかツカレタナァと、ロイはベッドに腰掛けながらぼんやり思った。いつもは副流煙すら吸おうと思わない(部下からカツあげた)煙草を懐から出して、火をともす。薄暗い室内で、女が自らのドレスの前ボタンに手をかけて、「いつもはこうじゃないんだけど」とか「はしたない女だなんて思わないでね」とか「実は、初めてなの」とか寝言をたれているが、どうやら目は覚めているらしい。夢遊病かなんかじゃないだろうか器用な女だと、くだらないことを考えながら、先ほどのやり取りと、エドワードの顔と声と言葉と、全てを何度も何度も脳裏で繰り返していた。心のどこかが麻痺してしまっている。取り返しのつかないことになった、ことだけはようよう理解できる。もうとりかえしがつかないだろう。あんなに傷つけてしまった。あの子にはかすり傷も負わせたくないのに、一番、醜い、酷いやり方で傷つけた。けれどなんとも思わない。麻痺している。謝っても、ゆるされることじゃない。もうもとには戻らない。
 もとにはもどらないのだ。
 作戦上、ロイの自宅として用意されたこの部屋の両隣には兵士が息をひそめて突入の合図を待っている。ああ、早く終らせて帰りたい。泥のように眠って、なかったことにしたい。何も考えずに眠り、熱いシャワーでも浴びて、ワインのボトルをあおって、また眠る。次に目覚めたときには、平気なはずだ。心を挫く全てをすっきりと追い出して、驚くほど冷酷に仕事をこなせるだろう。そうすれば、どんな激務にも堪えられそうな気がする。ああ。ゆっくりと、勿体つけてもたもたと女がくるくる回ったりしながら、ボタンを外していく。ようやく胸元が露になる。この分じゃあ全裸になるまで日が暮れるのではないだろうか。しかし上層部は、一応爆発物所持している可能性もある。女が一糸まとわぬ、生まれたままの姿(ロイはその言い回しを将軍の口から聞いたときに笑ってしまった)になるまで突入の許可はできない。しかしこの作戦、どうみても私は囮だな・・・・あわよくば私も消してしまおうという心積もりか?いざとなれば女を殺してもいいとは言われているが、なんだかばかばかしい。いろんなことがバカバカしい。難儀な職業を選んでしまった。後悔、とは少し違うのだけど。ポケットの中の盗聴器のスイッチを入れる。突入の合図の合言葉を声に出さずに確認して、ロイは唇を舐めた。
 そのときだった。コンコン、とノックが繰り返される。どうなっている?女は慌てて前をかき寄せて、ロイに寄り添うようにベッドに腰掛けた。どうする。誰だ。突入は許可していない。兵士ではない。
 しばらくの沈黙の後、ドアが開かないことに観念したのか、扉の向こうの気配はためらいながら口を開いた。
「大佐?」
 ぽつりと問われて、ロイは思わず立ち上がった。
 この声。
「・・・・・・・・・・・・・・・エド?!」
「開けろ」
「・・・・・エド、」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エドワード・エルリック?」
 女が背後で呟いた。しまった、と自らのミスを痛感する。が、遅かった。ロイが振り向くより一瞬早く、女が内腿に隠していたナイフをロイの背中に押し当てる。心臓の上。
「あーあーあー。聞いたことがある。鋼の錬金術師。小柄だとは聞いていたけど、子供だとは知らなかった。さっき気付かなかったのは私の失敗ね。やけに馴れ馴れしいから、本当に近所のかわいそうな子かと思っちゃった。アンタにタメ口だし。・・・・・・・・それで、どういうことかしら。ロイ・マスタング大佐」
「なんのことだ?」
「あたしははめられたってわけ?」
「まだ何もしていない」
「そっちじゃねえよ・・・・!」
 両手を挙げる。どうする。自身が人質になるなんて、なんという間抜けな展開だ。これでは突入できまい。焦燥と、それから扉の向こうの気配に惑う。どうする。どうして。

 どうしてきたんだ。エドワード。 

「とぼけんじゃねえよ。あたしがだれだかわかってたんだろ?それで鋼の錬金術師を呼び寄せたんだろうが。・・・・死なない程度に自由を奪って誘拐して、、仲間に連絡する算段だったのに。さてどうしよう?」
 ぐ、とナイフを差し込まれてわずかな痛みにロイは揺れた。ナイフは薄皮一枚分ほどロイの背中につきたてられた。
「ええと・・・・君。誤解があるようだからいっておくが。鋼を呼び寄せたわけじゃない。むしろ、自ら彼は来たんだ」
「・・・・・どういう意味」
 怪訝そうに女が声を潜めた。
「私と鋼のは、性的関係のある恋人同士でね。街中で、私が浮気をしているのを見て、許せなくてここまで追いかけてきたんだろう」
 それは半分真実で、半分デタラメだった。いや、やはり全てデタラメか。真実は、「無理に性行為を強要して、彼を貶めた」。そしておそらく、鋼のは、誇り高い彼だから、怒りに血を上らせて扉の向こうにいるのだろう。彼は、私を許しはしない。絶対に。自虐的に笑い、そんな風に女に教えてやる。が、案の定女は信じずにナイフを一層深く突き立てた。
「てめえ、そんなデタラメ信じるとでも思ってんの?!!バカにすんのもいい加減に・・・」

 ガン。

「返事しろ。大佐、ここにいんだろ」
「どうする?なんと答える」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰れといえ。とりあえず、ここへは入れるな」
 押し殺した女の声に頷く。これ以上底はない。とことん嫌われようと知ったことか。ハハハハハ、もうほんと最低。
「やあ鋼の。今いいところなんだがねえ。邪魔をしにきたのか?」
「・・・・・開けろ」
「それとも君も混ざりたいのか?それなら私がお相手するが」
「・・・・・・・・・・・・」
「どうだね、でないのなら、サッサと弟のもとにかえって慰めてもらってはどうだ?せいぜい頭でもなでてもらうがいい」
「だから・・・・・・」

 ガッ。

「アケロ、っつてん、だ、ろがッ」

 凄まじい騒音を立てて、目の前のドアがけり破られるのを見た。扉の中央から、機械鎧の左足が生えている。女はぽかんと口を開けて、それをぼんやり眺めることしか出来ない。左足が引き抜かれ、右手が突っ込まれる。鍵を弄り、最後にはもどかしげにドアノブをもぎ取り、エドワード・エルリックは、扉の向こうで凶悪に笑った。
「よう」
「エドワード、」
「とりあえず死ね」
 パン、と両手を合わせ、エドワードは渾身の力で掌を床にたたきつけた。






*******************







「タチわりぃなぁ、大佐」
 ハボックは、横暴な上司から取り返した有害物に火をつけて、深く肺まで煙を吸い込んだ。吸い込んで、澄ました顔で現場の指揮を執るロイを軽く睨む。妙にいきいきしながら、背中から血をダラダラ流し、これからのテロリスト撲滅に向けての作戦を手短に兵士に命じている。その横で、ふてぶてしく腕を組む、国家錬金術師の少年。
「大将に手伝い依頼してんなら、そういえばいいのに」
「まあまあ。敵を欺くにはまず味方からといいますし。実際エドワード君がいなかったら、大佐ももうすこし傷が深かったかも」
 フュリーの言い分は実に一理ある。後ろ手に縛られて転がっているテロリストの女を一瞥して、ハボックはそれでもため息をついた。
「・・・・・・・・・あれ方便じゃなくて真実じゃねえの?」
「なにがですか?」
「恋人同士って奴」
「はははは、まさかぁ。とにかく大佐が無事でよかった。エドワード君が錬金術で女を拘束してくれなかったら、どうなっていたか。あれが事前に打ち合わせなしだったら、そっちのほうが驚きですよ」
「演技なのかねぇ・・・・・怪しいな」
「あっ、大佐が連行された」
 背中からダラダラ流れる血に、我慢できなくなったのだろう。鋼の錬金術師こと、エドワード・エルリックがその血まみれの背中を渾身の力で蹴りつけて、上司の襟首を捕まえて引きずっていく。
 引きずられるロイを見送りながら、ハボックは大佐、なかなか脈ありじゃねえのと、恋も仕事もうまく行き過ぎる上司を恨めしく見送った。



「は、鋼の?」
「・・・・・・・・・・・・」
「どこへ」
「・・・・・・・・・・・手当て。しねーとまずいだろ」
 そっけなく告げられて、ロイはそうか、と呟いた。
 気まずい。
「は、鋼の。いつから作戦に気がついていたんだ?まさか君が助けに来てくれるとは」
「何にも気付いてねえよ。助けに、行ったわけじゃねえ」
 低い、恫喝するような声に血の気が引く。タダでさえ血が随分流れ出てしまっているというのに。青くなりながら、ロイは大人しく、せめて自分で歩こうと体勢を立て直す。早足で先をいく、エドワードに追いつき、横に並んだ。エドワードは無表情のまま、前を見据えていた。
「どこだよ、医療用に用意してる部屋」
「あ、そこの、106だ」
 106、という扉の数字を確認してから、エドワードはロイの襟首を掴み、部屋に引きずり込んだ。突き飛ばす勢いで、上司を扉の向こうに押し込む。
「エドワード?」
「あんたが」
 エドワードは俯いている。俯いて、その小さな拳に力を込めている。薄暗い室内で、表情は良くわからなかった。
「アンタがオレを好きだといったんだ」
「鋼の、・・・エドワード?」
「オレ、アンタと寝たよ。寝たよな?間違ってねえよな?」
「エドワード」
 確認するように、不安そうに瞳を揺らして、エドワードがまっすぐ顔を上げた。必死に、訴えるように。
「なかったことにするな」
「・・・・・・・・・」
「もうもとには戻れねえのに。簡単に、忘れるな。なんで?いやだったのか?大佐はオレと寝て、イヤだった?あの時やれれば誰でもよかったのか?違う。だって、アンタはオレをすきだっていっただろ」
 この子は。
 アルコールに任せて吐いた、酔っ払いの戯言を真摯に信じていたのか。
 細い糸を手繰るように、健気に。
 たった一つの言葉に縋って。
「すきだって、アンタが言ったから」
 ああ、もとには戻らない。私がした最悪の行為は、なかったことにならない。
「・・・・・・少しも、それを疑わなかったのか?今日女といっしょにいるところを見て、浮気だと思っただろう?」
「ああ、いや。だってアンタ怒らなかっただろ」
「へ?」
「あの女がさ、オレに色々暴言はいてたのに、アンタ怒らなかったじゃん。そういうの許す人間じゃないだろ?それは・・・よくしってっから。・・・なんか理由があるんだろうなって」
 まあでも腹の虫がおさまらなくて、順番に血祭りにあげてやろうと思って女拘束した途端、兵士が30人突入してくるんだもんなとエドワードは笑った。そんなところも好きだ。
「そんなデケー作戦だとは思わなかった。変にかき回してスンマセン」
「・・・・・・・・・・・いや。おかげで助かった。君は、どこまでも前向きだなあ」
 現実から目をそらして逃げ回っていた私とはえらい違いだった。バカだな。私のようなくだらない人間を、君みたいなきれいなこころの人間が好きになるなんて。鋼のは、バカだなあ。私は逃げたのに。目をそらして逃げて言い訳をして、君に嫌われたくないなんて都合のいいことばかりを考えて、君を傷つけたのに。
 それなのに、君は私を好きだという。
「なかったことにすんなよ・・・・なあ?大佐・・・・・オレはねえ、・・・・アンタが好きだよ」
「・・・・・・・君はもの好きだ」
「・・・・・・・・・泣いてんの?」
 キメェ、とエドワードが呟いた。
 そんなところも好きだ。
「ちゃんと言うよ。君が好きだ。もうずっと、君が好きなんだ・・・・」

 言葉をなくしたように、好きだと呟く私にしがみついて、鋼のが再び「キメェ」と笑った。