視界の端で羽ばたいた小鳥を追って、日本はふと顔を上げた。そしてまるでついでなのですと言い訳をするように、隣を歩く白皙の美貌の人の横顔を盗み見た。凛と前を向き、まるで背中に鉄でも背負っているかのように背筋を伸ばし、どこか険しさを感じさせる彼は、日本の想い人だった。唸る薄曇の空の下でさえ、彼は美しい。
二人、ただ無言で歩く。会議の後、常ならばすぐに国へ帰るスイスが、今日は違ったのだ。騒がしい会議室を後にした日本は、すぐに彼が後を追ってきていることを知った。いや、追って、というのは語弊があるだろうか。なぜなら彼は日本に用があるというわけではない風情だったから。たまたま帰る方向が同じなのだという雰囲気が二人の間にあった。同じ道を行くのだと気づいた以上、そ知らぬ顔も出来ずに、日本は奥歯を噛み何かに耐えるような心地で後ろを振り返り、彼に頭を小さく下げた。お前の家はこの先なのであるかと問われて小さく頷いた。そうか、と返事をよこしたきり、スイスは無言だった。そしていつしか、同じ速さの歩調で穏やかに二人肩を並べる羽目になった。
日本は彼が好きだった。
勿論口にするつもりなどない。絶対にない。
彼はたおやかな、ともすれば女性的ですらある美貌の持ち主だったけれど、その強靭な精神は苛烈と表現しても過言ではない。消極的で優柔不断で曖昧で、会議の場ではアメリカという同盟国である男の言いなりになる日本を、時折憎しみすら篭っているのではないかと思うような厳しい視線でスイスは睥睨する。おそらく嫌われているのだろう。彼とは真逆で、女々しいばかりの自分には自覚があった。けれど、心の中で憧れるのは自由だ。凛々しく美しい、ともすれば傲慢ともとられかねない誇り高い人。気がつけば目で追い、いつしか心臓が高鳴り、頬に血が上るようになり、恋に落ちたのだと知った。知られれば、終わりだ。彼に軽蔑されるくらいなら、死んだほうがましだ。ただ、日本は彼を好きでいたかった。それだけが望み。会議のたびに顔を合わせるというだけの関係。日本にはそれで十分だったのだ。
だから、今の状況は日本にはとても複雑だ。
二人きりでいて嬉しい。でも、彼を笑わせるような気のきいた話など出来ない。彼と肩を並べて歩いていることが恥かしい。私のようなものが、果たして並び立っていていいものかという苦悩に段々胃が痛みはじめていた。沈黙に耐え切れず、無視をされてもかまわない、折角のこの機会に話しかけてみようと日本がようやく決意して、あの、と乾いた声を上げるのと頬に雫がはじけるのとが、ほとんど同時だった。ああ降り出したと空を仰ぐ。パタ、パタパタパタ、と雨足は早くなり、アスファルトを濃く染め替えていく。
「あの!」
勇気を振り絞った声はみっともなくかすれていた。けれど、恥じらいよりも、彼を濡らしてはならないという使命感のようなものが先に立った。私の家がすぐそこなんです、よろしかったらと日本は声を張った。緊張する一瞬スイスがああそうさせてもらうのであると、気負いなく答える。その表情がどこか和らいでいるような気がして直視してしまい、日本はあわてて視線をそらした。こちらですと早足で先を行く。今度こそ彼が後を追ってきていることに、思わず顔が緩む。やがて雨は本降りになり、慌てて我が家に駆け込んだ。古い日本家屋は手入れと掃除だけは行き届いている自信があった。人を通して恥かしい家ではないはずだ。恥かしいと感じるのは、自宅を彼に見られるというただそれだけ。引き戸を開けて、彼を手招く。遅れて玄関をくぐったスイスの銀に近いブロンドの、長めの髪からは雫が滴っていた。
「随分ふりましたね」
「ああ。・・・・・・・ここがお前の家なのであるか?」
もの珍しそうに首をめぐらせるスイスの仕草が少し幼い。自然に笑って、日本は手のひらで自らの頬をぬぐって水を払った。お互い着物を絞れば水がたまる程、降られてしまった。玄関の叩きで向かい合いながら、しばし笑いあう。
「はい、古いのですこし恥かしいですけど・・・ちょっと待ってくださいね。今タオルを」
と、はたとお互いを改めて眺める。タオルではとても追いつかないほど濡れそぼっていると気がついたからだ。
「あの・・・・」
いくらか逡巡し、それから日本は言葉を選んでスイスに問う。
「お急ぎですか?もし少し時間をいただけるなら・・・・・あの、ご迷惑でなければなんですが、・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・なんだ」
もどかしい日本の言葉を、苛々とせかしてスイスが視線を下ろす。身長はほとんど変わらないけれど、それでも少しだけ彼のほうが高い。威圧感にわれ知らず震えるようだった。けれど一度出した言葉を引っ込めるわけにも行かず日本は両手を握り締めて、思い切って言った。
「よろしかったら!お湯を・・っ、つ、つかわれませんか!!おいやで!なければ!」
驚いたように。目を見張り、それから彼はそうだなと視線をさ迷わせた。
「あがってもかまわないのか?」
「勿論」
「急ぐ用はないのだ。散歩のつもりだったのである。だから、我輩は時間はかまわない」
「すぐに湯を張りますから。シャワーだけじゃなくてお風呂につかってください。温まりますよ」
「うむ。・・・・・興味があったのだ」
「え?」
「・・・・前にな。アメリカが言っていた。日本の家の風呂は木で出来ていて、とてもいい匂いがするのだと」
そういえば押しかけられて無理やり泊まっていったアメリカが、総檜造りの風呂を気に入ってワンダホーだかビューテホーだか大喜びしていたっけと、迷惑だった一拍二日を日本は思い出した。思わぬところで功を奏したアメリカに感謝をして、日本は今度新しいゲームソフトをアメリカにプレゼントしようと心に誓う。目に見えて浮かれぬよう、口元を引き締めて慣れぬ冗談を口にした。ええそうなんです、お風呂だけはとても自慢なんですという日本の言葉を真に受けてか、ニコリともせず、スイスは感心したように頷いた。咳払いをし、日本はタオルを手渡してから風呂の準備に走った。出掛けに掃除をしていた浴槽は、湯をためるだけでいい。湯温を調節してから、なにも考えずに着替えを揃えて脱衣所の籠に入れた。浴衣の丈は、急に押しかけてくるアメリカやイギリスのために誂えた品で、そもそも長めだから腰で調節すれば彼にも着れるはずだ。玄関で待つ彼を呼び、風呂場へと案内する。湯温の調節の仕方や石鹸の種類タオルと着替えの場所を説明しているうちに、湯がちょうど浴槽に溜まる。それでは、ゆっくりなさってくださいと言い置いて、日本は浴室を出た。嬉しい。うきうきと、足取りが軽くなってしまいそうだった。時間はあるとスイスは言った。湯上りに何か飲み物と、もし腹がすいているというならば一緒に食事を取るのもいい。彼との仲が、下心とは関係なく親密になれるかもしれないと思うと嬉しくてたまらなかった。和食の苦手だったアメリカが海老や筍の天婦羅は随分と喜んで舌鼓を打っていた。麦飯と天婦羅とあとは南瓜でも煮ようか。ナマスは苦手だろうか。温かい汁物があるといいかもしれない。献立を考えながら、先に自分も着替えだと、浮き足立つ自分を日本は自覚した。
名を呼ばれたような気がして、日本は包丁を持つ手を止めた。たすきを解いて、手を洗う。布巾でぬぐい、台所を出た。もうスイスは風呂をあがったのだろうかと無邪気に考え、呼ばれるほうへと足を向ける。スイスさん、どうかしましたか、と声をかけながら廊下を歩いていく。角を曲がった先が風呂場だった。角を曲がり、正面に立っているスイスを見て、日本は絶句した。
「・・・・・・・・・・・・・あ」
「着方がわからない」
困ったように、綺麗な眉を寄せてスイスは浴衣の襟を掴んでいた。前を肌蹴て、白い素肌を晒している。まっすぐ伸びた浴衣のラインは、足元でたゆたい、帯は落ちていた。日本は呆と見蕩れた。浴衣の間から覗く細いけれど鍛えられた体、淡い金色の茂みの下に息づく桃色の肉、太ももの間から綺麗なラインでふくらはぎにと続く足。妄想をしたことがある、彼の裸は想像よりもずっと美しい。思い浮かべて何度も何度も浅ましく自慰をした。スイスが好きで。彼がとてもとても好きで。
「・・・・・・・・・・・・ぁ」
かすれた声をあげ、ふとスイスと視線が合う。彼は困っているような顔をしていた。日本のあからさまな視線に当惑し、浴衣の襟を掴んだ手がどこか所在無さげだった。日本は自分がどれだけ浅ましい目で彼を眺めていたのかにようやく気がついた。物欲しそうな顔で。そして、一瞬で頬に血が上る。着物の下の体が火照り、隠していたはずの欲望が疼いて、腰の奥が甘く痛んだ。
「ぁ、あの・・・・・・・・・・わたし・・・・・・・・」
眩暈に視界が歪んだ。黒と赤のマーブルが眼窩の中からうねってのたうつようだ。着物で隠している体が、はしたなく反応して膨らみはじめていた。みられた。スイスに。醜い欲望を知られた。彼の裸を見て、股間を膨らませる日本はどれだけ醜悪にうつるだろう。吐き気すら催しながらも、下肢の疼きが押さえられなかった。日本は両腕で膨らんだ部分を隠しながら廊下にへたり込んだ。うずくまり、そのまま土下座に似て、額をつめたい床につける。許しを乞う姿勢そのままに、スイスの断罪を待った。
「・・・・・・・・・・・ごめんなさい。・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」
震える声が引き攣れていた。ああ。なんて浅ましい。浅ましく、醜い。
あなたを好きで、ただそれだけでよかったのだといって、いまさら誰が信じるだろう。
「・・・・・・・・・・・・・・・何をあやまるのだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・あなたがすきなんです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」
かすれた声は哀れだった。無様で、日本がスイスにもっとも知られたくない自分の姿だ。こんなつもりではなかったのだ。家へ誘ったことも風呂を勧めたことも、恥じるべき欲望に唆されたからではない。そんなつもりはなかったのだ。下着の場所や浴衣の着方を説明しなかったのはただ単純に、忘れていたからだ。アメリカとイギリスは浴衣をでたらめに着て、棚にしまわれた小さな行李の中に用意された客用の下着を勝手に出して着て大騒ぎをする。そういう日常に慣れてしまっていて、スイスに説明することを浮かれるあまり忘れていただけだ。そういいたかった。信じて欲しかった。でもそれを弁解するべき言葉が、日本には何一つない。性器を膨らましてうずくまる、みっともない男に言い訳できる言葉があったはずがなかった。
「・・・・・・・・・・ごめんなさい」
「・・・・・・・日本?」
「ごめんなさい」
「・・・・・・・・・・日本」
その、困ったような響きの声音に、消えてしまいたくなる。この優しい人をこれほどに困らせて、私は何をやっているのだろう。ああ早く彼が踵を返して、濡れた服をもう一度着てこの家を出て行ってくれたらいい。そしてもう二度と私に声をかけてくれなくてもいいから、見てくれなくても、それでいいから。
「日本」
けれど彼は立ち去ろうとはしない。日本を見下ろして、立ち尽くしている。二人の間にただ静かな雨音が響いた。どれくらいそうしていただろう。やがてぎしりと床が鳴った。離れていく足音ではない。一歩一歩、日本へと近づいてくる静かな足音だ。床に付けた額のすぐ上に、彼がいることを知りながらも顔を上げられない。小さく震える日本の肩にそっと手が触れた。うろたえた日本が言葉を選ぶうちに、なにか優しい感触が後頭部に触れる。
口付けだと、混乱した頭で理解する。
なぜどうしてと言葉が巡る日本の両肩にスイスは手をかけて体を抱き起こす。スイスを間近で見上げた日本は戸惑った。表情こそ厳しいままだったけれど、その白い頬が赤い。
「何、」
「・・・・・・・」
黙したままスイスが目を眇めて首をわずかに傾げた。信じられない思いで目を見開く日本の頬に、唇がそっと触れて離れていく。
(同情か)
「、離してください・・・!」
もがいた体を強く抱かれて、泣きそうになる。小鳥にエサをやるような、そんな惨めな同情は最も日本が恐れていたことだ。いかに自分が哀れだと醜悪だとしても、そんなものならばいらない。
「あなたの優しさにつけこむつもりはないのです・・・・!」
「日本、」
「あなたから施しを受けるくらいならば死んだほうが増し・・・・っ」
「違う」
イヤだともがく日本を、スイスは力強く抱きしめて離そうとしない。声を荒げずに、静かに、強くスイスは『違う』と繰り返した。ただ、違う、と。
「・・・・・・・・・・・そうではないのである」
「ではなぜ・・・?どうして・・・口付けたり・・・。ああ、そうか、そうですよね、あははははは、私、何を勘違いして、・・・・・・・・・・勘違いしてしまいました、」
「日本?」
「外国の方の挨拶でしたね、頬にくちづけるなんて、そんな、誰にでも・・・・・する・・・・ことで・・・・あはははは、私ったら。勘違いしてしまいました。すみません、狼狽して、・・・・・・みっともない。本当にすみません。離してくださいませんか?私はもう大丈夫です」
気がついてしまえば、血の気が引いた。とてもではないが、これほど醜態を重ねて平静ではいられない。眩暈を堪えて、スイスから指を離す。けれどスイスは変わらず日本を抱き寄せたままだ。八つ当たりとは知りながらも苛々と声を荒げようとした日本の頬に、スイスはもう一度口付けた。それから、優しい唇が頬を辿り、唇の端を小さく舐めて、ゆっくりと唇に触れた。優しく重なった唇が、ゆっくりと離れていく。スイスの顔は、もはや耳たぶまで赤い。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あの・・・・・」
「なんだ」
「・・・・・・・・・・・・今のも、挨拶ですか?」
「・・・・・・・・・・・そんなわけがあるか。ばかもの」
「・・・・・・・もう一度していただけますか?ねだれば、していただけるのでしょうか?」
呆然とした日本の唇に、間違いなくスイスのそれがもう一度触れた。信じられずに目を見開いたままの日本は、確かに見たのだ。閉じられた瞼の長い金の睫が間近に触れる瞬間も、ポコポコ湯気が昇るほどスイスがより顔を赤らめる瞬間も。
「・・・・・・・・・・・真っ赤ですよ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・散歩は嘘なのである」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わかりません、そんなの」
「お前と、・・・・・・・・・・日本と・・・・・・・・・親しくなれればと」
「・・・・・・・・・・おっしゃってくださらないと・・・・・わかりません」
「・・・・・・・・・・・・・泣くな、日本男児なのであろう」
「・・・・・・・・・・・・・・だって、信じられません」
夢のようで、と日本が呟く。言葉を拾うように、スイスは日本にもう一度口付けた。繰り返し繰り返し、泣くなという優しい叱咤の変わりに。抱き寄せられ、背中を優しく撫でられる。スイスの肩に、熱い瞼を押し付ければ浴衣に涙がにじんでいくのがわかった。スイスは、うなだれた日本の首筋を鼻先でくすぐった。首をすくめる日本の首筋に口付け、頬を寄せる。
「スイスさん・・・・」
乱れた吐息を隠せなくなってきた頃、スイスの指先が日本の着物の裾を割った。太ももを這う指先は、ゆるく立ち上がった日本のペニスに触れた。びくりと震え、逃げようとする日本を許さずに、スイスはそのまま手の内で握りこむ。先端の濡れた部分を弄られて、みっともない声が危うく出そうになる。ああ、とかすれた声がこぼれた。恥じて、日本はスイスの浴衣の肩を噛んだ。恥かしいけれど、うれしい。彼に触れられていることがこの上ない喜びだ。同じほど硬くなっているスイスのペニスが、抱き寄せられた体に触れている。自分に触れることで、スイスも同じように欲望を覚えているのだとわかる。いまだに夢の中にでもいるようだった。
さっきまでは絶望していた。今はといえばスイスに抱き寄せられて求められている。
「ぁっ、・・・・ぁっ、あ、ああ・・・・・・・」
「日本・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・ああ・・・・・」
雨は降り続いている。
激しくなる雨音は二人の耳には届いていなかった。
「抱いて下さい・・・・お嫌でなければ・・・・」
ほころんだ薔薇のように艶やかな誘いを、誰が断ることが出来ただろう。
長くなったので一端切ります。後半は言わずともがなエロです。