大丈夫ですかどこかお具合でも悪いのですかと、道端にしゃがんでいたところを話しかけられたのが、菊との出会いだった。うるせえなあっち行けよと小柄な東洋人をひらひらとてのひらだけで拒絶して、アーサーは膝に顔を埋めた。背後で逡巡する、その気配が鬱陶しかったので、舌打ちと共に罵声を浴びせようと立ち上がりかけたけれど、それよりも先に腹の虫が盛大に鳴った。思わず赤面するアーサーに、菊は笑いもせずに『お腹が空いてるんですね』と労わる仕草で同じようにしゃがみ込んだ。そして、アーサーが耳を疑うような言葉をかけたのだ。
「あの、今から私お昼にするんですけど、よろしかったら一緒に召し上がりませんか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・はあ?何でだよ」
「なんでって」
 私もお腹が空いているので。
 と、菊はなんでもないような顔をして答えた。
「・・・・・気味わるいだろ、普通見も知らない人間飯に誘うとか」
「そうでしょうか」
「金ならないぞ」
「いりませんよ」
「・・・・・お前実は連続殺人鬼で、往来で行き倒れている美青年を連れて帰ってはバラバラにして・・」
「誰が美青年ですか」
 失礼極まりないアーサーの言い分に、菊は笑いながら、もしそうだとしても私はあなたよりも体も小さいですし戦えば勝ち目は無いように見えますよと、確かに小さなてのひらを差し出した。アーサーが着いていく気になったのはただの気まぐれだった。この穏やかな東洋人に興味が湧いたのだ。ここまで親切だと気味が悪いし、理解できない。何か裏があるのだろうと思った。促されるままに少し年を経た日本式の家屋の玄関を潜ったのも、だから、こいつの正体を暴いてやると、今思えば傲慢な目的があったからだ。畳の上に足を投げ出し、小さなテーブルの前で菊が昼食の支度をするのをしばし待つ。そして菊が盆の上に乗せてきたものを見て、アーサーは目を丸くしたのだ。
「・・・・なんだこれ」
「ええと、右から、鰹節と梅のおむすびと、焼き魚とお味噌汁と、明太子が一腹、白菜の漬物と、ソーセージを焼いてみました」
 どうぞ、と菊はニコニコしていた。アーサーはこれでもかというほど顔を顰めて、悪態をつくべく口を開いた。
「・・・・・・これなんだ」
「おむすび・・・・ですけど」
「この米の塊が?まさか手で握ったんじゃ?」
「・・・・・・そうですけど」
「お前が?で、これは?」
「お味噌汁ですね。味噌を出し汁でといたんです。味噌っていうのは」
「泥のようなあれか」
「泥・・・・・」
「これは魚の卵か?」
「そうですね、明太子・・・・こちらはあなたの国で言うピクルスでしょうか。ソーセージは」
「それくらい知っている。これくらいしか食えるものが無い」
「・・・・・・・・・・腹が減っては戦ができぬという諺を聞いたことは?」
「ない」
 変わらず穏やかな笑顔にどこか底冷えするようなものを感じて、アーサーは怯みながら答えた。
「郷に入れば郷に従え」
「ん?」
「・・・要するに、何でも在る物を食べて有事に備えよということです。今私があなたに襲い掛かったとしたらどうしますか?空腹では反撃できないのでは?」
「・・・・・・・・・」
 クソ、と舌打ちして、アーサーは忌々しげに海苔の張り付いた米の塊をわしづかみにして、目をつぶって口に放り込んだ。あまり親しみの無い味に一瞬戸惑いながらも、そのほわりとした暖かいご飯と絶妙な塩加減に咀嚼する口が止まらなくなる。全てを平らげるのに、そう時間は掛からなかった。夢中で口に運ぶアーサーを、菊はやはりニコニコと笑いながら見ていた。完食したアーサーはそれでも、うまかったと一言も言わないのに菊は気分を悪くするでもなく、お茶をいれますねと席を立った。今にして思えば、菊がおむすびにしたのは、アーサーはうまく箸を使えないだろうという配慮だったのだ。ほぐしてあった魚も、ソーセージも、味噌汁も添えられていたフォークとスプーンで十分に口に運ぶことができた。菊が湯気の立つ緑茶をアーサーの前に置く、その頃にはもう恋に落ちていたように思う。そして、アーサーは暇を見つけては菊の元を訪れた。なにを話すということもない。菊が優しく微笑むたび、口を開くたびに照れて悪態をアーサーがつく。時間が来れば菊の作った食事を食べ、そして夜が来る前にアーサーは帰る。そういう穏やかな日々を季節ひとつ分すごした。けれど、時間がたてばたつほど、アーサーが菊に抱く恋心は深さと熱を増した。二人きりが息苦しく感じるようになった頃、アーサーは古い友人を伴って菊の家を訪れた。友人というには多少の語弊がある、その男の名をフランシスといった。軽薄で浮ついていて女好きでヘラヘラして軟弱で小洒落でいて、ワインが好きで、鷹揚なこの男がアーサーは大嫌いだった。なのになぜフランシスを誘ったのかというと、嫌いだからこそだ。大嫌いなこの男に、自分の思い人を見せ付けたかったし、フランシスの自慢の料理の腕に勝るとも劣らない菊の手料理を振舞って生意気な男の鼻っ柱をブチ折りたかった。フランシスになら何の遠慮もしないでいいし、口げんかをしていれば菊の前でも平静でいられる。それに、この超がつく女好きの優男なら、菊の虜になることも無いだろうと思った。菊の良さがわかる男はオレぐらいなものだろうという自惚れもあった。
 それなのに。










「アハ、アハハハハハハハハハ!アハハハハハハ、ちょっとまってくれ、お腹が痛いよ、アハハハハハハハハハハ!それでまんまとフランシスに片思いの相手を奪われたっていうのかい!」
「うううう、信じられねえ・・・・なんでだよ、なんでなんだよ、なんで・・・っ」
 ダンッとアーサーはテーブルにウォッカのビンを叩きつけながら号泣した。こうして兄に泣き付かれるのになれているアルフレッドはといえば、爆笑してイスごとひっくり返った。
「アハハハハハハハハ!!そ、それで、アハハハハ、それで?」
「それでもなにも・・・・!」
 思い出すだけで涙が滲むのか、アーサーは唇を噛んで、先ほどの出来事を思い出す。
「いつもみたいに呼び鈴押して、玄関で待ってたら上半身裸のワイン野郎が、『ちょっとまってなー菊いま風呂だから』ってニヤニヤニヤニヤ・・・・・っ!『で、なんの用?』って・・・・・・『おまえね、オレの菊にもうあんまり飯たかりにくるんじゃないよ、お小遣いほしかったらこのおにーさんに相談しな』って超!超上から!!なんでだ?なんでアイツなんだ?!なんであんなデタラメなナンパ男・・・・!」
 ダンダンとグラスをテーブルに叩きつけ、アーサーは叫んだ。それに、ようやく笑いを収めてアルフレッドがコーヒーを片手に、向かいのテーブルに着く。
「そりゃ、客観的に見てしょうがないんじゃないかな?空腹で行き倒れてるところを救ってやったのに礼の一言もない、口を開けば悪態つくし、そんなにいやなら来なきゃあいいのに三日と開けずに訪れてはただ飯三昧、目的も分からないでよく菊は辛抱したと思うよ。菊の好きなアニメもマンガも薄気味わりいオタク趣味扱いしたんだろ?正直、君のドコを好きになればいいのか弟のオレでもわからないくらいなのに」
「菊・・・・・・・・・って・・・・オレお前に名前教えたか?」
「ああそうだっけ、言ってなかったっけ、菊とオレは結構昔から仲のいい友達で」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「『アーサーさんって本当になにを考えているのか分からなくて、あんなに日を空けずに来られると私も迷惑なんですけど角を立てずにそれを言える自信が私には無いんです』って」
 がくりと床に両膝を突くアーサーを止めるものはこの部屋のなかにはいない。完全に面白がっているアルフレッドが止めるわけが無い。ゴロゴロゴロとウォッカのビンがアーサーの膝が当たり転がっていく。
「いやーほんと菊とフランシスってお似合いだよ!フランシスは確かに女たらしだけど一度惚れたらそりゃあ一途で紳士で誰かさんみたいにがっついてないし、素直だし、でも大人の余裕であの人見知りの菊とのちょうどいい距離のとり方を知ってて、来てほしいとき来てほしくないときを弁えてるし、料理も上手いし、菊の日本食を否定するんじゃ無くて取り込んで二人で楽しめる食事を作ってくれるって菊も惚気てたよ!」
「・・・も、もうやめ・・・」
「フランシスはアニメとかマンガなんか興味ないだろうなって菊も最初は隠してたらしいんだけど、見せたら彼がすっごいハマってくれて共通の趣味になっちゃってお互い一緒にいるとすごく心地いいんだって!それにさ、フランシスも菊も男と付き合うのははじめてだったらしいんだけど、流石フランシスだよね、全然痛くなかったんだって!それどころか、」
「も、もうやめてくれ・・・・」
「すっごい!気持ちよかったって!!」
 朗らかに笑うアルフレッドは、まるで自分の応援するチームが優勝した野球少年のような無邪気さだ。やったーやったーと飛びはねんばかりのアルフレッドの足元でアーサーは絶望を体現している。
「あはははははははははは!あははははははは!アーサー、笑おうよ!笑おう!あはははははは!」
 アーサーの失恋を肴に飲むコーヒーほど旨いものはない。
「あはははは、かわいそうなアーサー!あはははは、ほら、元気をだしなよオレがいるじゃないか!本当にかわいそうだ、少しずつ恋を育んでいたつもりだったんだろうけど、残念ながら菊にしたら浅ましいたかり屋だったんだからショックだよね!そりゃあショックだよ、オレだったら今頃自殺しているかもしれないな!」
 これでもかというほどアーサーの独りよがりだった恋を踏みにじるアルフレッドの声は明るい。とても菊とフランシスの仲をとりもつために暗躍した男とは思えないほどアルフレッドは朗らかだった。内向的で思ったことが表情にも態度にも出にくい菊の本心を、男同士という壁にぶち当たって折れそうになっていたフランシスに伝えたのはアルフレッドだ。
「あはははは、まあハンバーガーでも頭にのせてみるといい!ほら、元気がでるだろう、ほら、あは、ぶは、あは、あははははははは!あははははははは!ヒー!!似合うよ、似合う!いいよ、似合う!」
 うなだれたアーサーの頭にハンバーガーを積み、アルフレッドは笑う。嗜虐欲をそそる兄の恋路を、これからも頑張って邪魔していこうとアルフレッドはハンバーガーに誓った。
 だって楽しいからね!