「あれは鬼子よ」
 もはやよく見えぬ目を見開き、女が呟く。醜い皺の寄った掌で卜占の小石を手の中で転がし、未来を見る女は呻いた。
「おまえ、あれはよくない。よくないものだ。お前を穢し呪う忌み子だ。早く手放しなさい。お前はあれに食らわれてしまう」
 なにを馬鹿なと中国は笑った。かつては叡智を誇る美しかった仙女といえど、老いさばらえてはただの女か。日本のどこがそんなに怖ろしいものに見えるというのだ。あれは小さく愚かな生き物だ。この手で守ってやらねば今すぐにも息を絶えてしまうだろう。
「私のかわいい子、あれはよくない」
 おおおおと呻いて女は髪を振り乱した。もはや姿を人型に保つ力すら、なくしてしまったのか。美しい紗の衣の裾からのぞく細い足には獣の毛が生え、顔を覆う指先は長く黄色い爪が生えている。体が膨れて異形へと変ずる様はとても、母とはいえ見て入られずに中国は背を向けた。そう遠くない未来に彼女のために墓を掘らねばなるまい。人ならざるものの時代が終わろうとしているのだ。闇よりも光の時間が長くなり、中国はわが身を清めなければならない。そのためにもあの日本という幼子が必要だった。やがては成長し中国の都合のいい手足になるだろう。幼子は所詮幼子だったし、中国にとって脅威になどなりようがない。気が添わないというのならば、返す刀で切って捨てればそれで済む。しかしその使い勝手のよさとはべつに、あの子供の聡さと愛らしさが、中国は気に入っているのだ。一途に慕う頑是無い愛情を、喜ばないものがいるだろうか。
 仰せのままにと口先で従い、女をおいて、中国は庭で遊んでいるはずの幼子を探して宮を出た。中国の住む、この古い宮は広いけれど子供の興味をそそる場所などたかが知れている。表の日差しは暑いほどだ。中国は手を翳しながら歩いていく。広大な敷地の隅に、中国が昔せがんで作らせた小さな庭がある。デタラメに花を植え、魚を放した小さな池を作らせた。
 その池の傍で、子供は熱心に水を覗き込んでいる。その後姿の稚さに中国は笑みがこぼれた。幼い丸められた背は、頬を寄せても恥ずかしくないほどに愛らしい。
「おめーなにしてるある」
 笑いながら覗き込むと、日本は「さかなが」と恥ずかしそうに池の中を指差した。
「あ?」
「さかながいたんです。ほら、あのちいさいの」
「あれは金魚ある。めずらしくもねえ」
「きんぎょ・・・・」
「欲しいあるか?」
 中国が問えば、日本は恥ずかしそうに小さくうなずいた。薔薇色の頬はさらさらと、白砂のように滑らかで、こうしていてさえ中国は日本を抱きしめてやりたいと思う。韓国という名の、日本と同じほど幼い子供を預かっていたけれどあの悪童は抱きしめてやるよりもお仕置きに尻を叩く機会のほうが多いような気がする。あれも、日本ほどとは言わないがもう少しおとなしければと中国は思った。
「あとで日本の部屋に送り届けてやるある。おとなしくまってろ」
「はい」
 中国さんありがとうございますと日本は頭を下げた。日本の今着ている着物もいいが、後で中国の古い着物を届けさせよう。幼い頃中国が着ていたもので、仕立てはいい。この子供ににならばにあうだろうと、中国はにこにことして日本の下げた頭を撫でた。その手を嬉しいと思うのか、日本が顔を上げた。中国の手が、日本の頭から額に自然に触れる。
「ン?」
「どうかしましたか?」
 中国は掌に触れた違和感に、目を凝らす。膝を地に着き、日本の顔を両手で挟んで仰のけた。
「中国さん・・・?」
「オメーこれ、誰にやられたある」
「え?」
「こぶが出来てるある」
 え、と日本は心当たりがないのか、不思議そうにその小さな首をわずかにかしげた。中国はああ、また韓国が苛めたあるなとわずかに眉を寄せた。白い小さな額の真ん中に、わずかな盛り上がりがある。染みのようにその中心が赤くなっているのを見て、中国はあのクソガキと己の母国語で舌打ちとともに発した。
「韓国にぶたれたあるか?」
「いえ、そんな・・・」
「かばわなくてもいいある。あの餓鬼晩飯抜きあるな」
「いえ、ほんとです、ほんとに、べつになにも」
 ふるふると日本が首を振った。かわいい子。真面目で品もいい。頭もいい。優しい。愛らしい。こんな子供のどこが鬼子だというのだ。あのババアにはこのかわいい子の頭に角と尻に黒い尻尾が見え隠れするとでも言うのだろうか?
「角ねえ」
 苦笑して、中国は日本の額をもう一度撫でた。感触は硬い。
「・・・・・・・・・そんなわけねーある」
 中に、芯があるように硬い。
 中国は一瞬、この幼子の額が盛り上がり黄ばんだ角が生える様を想像して頭を振る。そんなわけがない。この子は成長して、中国を助け、良き友、良き子、良き臣下として、いつまでも手の内にいる。あの韓国はどうだかわからないが、こんなにかわいらしい子だ。そんなはずはない。そんなもの、想像すらできない。この子が我より大きく成長して我を喰らうなどと。
「そんなばかあるわけねーある」
 な、と微笑むと、日本は中国を見上げ、すこし不思議そうに笑った。
 打撲に効く軟膏がある、それも届けさせようと中国は言葉を重ねて子供の小さな額を撫で、その場を離れた。日本は中国の背を見送って、もう一度、池の傍に腰を下ろす。池の中では綺麗な尾鰭をひらめかせて金魚が泳いでいる。中国は気付かなかったのだろう。あの人はおおらかで、金魚の一匹や二匹が増えようと、減ろうと、気付きもしない。もし一匹もいなくなったとしても、疑われるのはあの可哀想な韓国なのだ。
「・・・・私がいつまでも子供だとでも、思うのでしょうか」
 呟いて、日本は稚い指先を水の中へつけた。愛玩用の魚は、思うよりも動きが鈍い。尻尾をつかんで、そのまま水からあげた。ビチビチと手の内で跳ねる肉の感触、ぬめり、エラがひくつく様はいつ見ても心地いい。
「ねえ、韓国さん、こうやってすこしづつ私が、あの人のものを奪っても、あの人は気付かない。不思議ですね」
 ぶちゅりと、手の内で嫌な音がした。小さなものがつぶれる感触だ。向こうの茂みで膝を抱えながら、こちらを伺う怯えた韓国の視線を知りながら、日本はそちらを見ようともしなかった。すこしづつ。すこしづつ。
「でもいつか、全部私のものになる」
 ねえ、と微笑み、日本は今は幼い掌から肉片を捨てて池の水で漱いだ。
 笑う子供の、額には角。