奇妙な出来事の連続に気がついたのは、10月も終わりの頃のことだった。



 裏の戸口においておいたサンダルが無くなっている。庭にたわわに実った柿が一枝、折りとられている。玄関の前に、毎朝タバコの吸殻が5、6本落ちている。郵便物が送付の日付から一週間遅れて届く。封書であれば、中が空いていることもあった。奇妙な出来事は家の周りだけではない。寝る前には確かに閉めたはずの食器棚の扉が開いていたり、気のせいだといわれればそれまでかもしれないが、前日の夜に作った夕食の鍋の中身が減っていると感じることもある。微妙に位置が変わっている鏡台や、引き出しの中身。この古い家には、日本が一人住むだけだというのに、家中のそこかしこに人の気配を感じることもある。そんなことが続いてからというもの、日本は寝る前に神経質なほどに戸締りに気を配るようになった。けれど、連続する違和感は消えない。
 疲れているのだろうかと、日本は湯船に深くつかりながら目を閉じた。ぬるめの湯に深い吐息をつく。気のせいだと思いたいけれど、家鳴りにすらびくりと怯えてしまう自分がいる。心当たりがないわけではないからだ。湯を手ですくい、頬に当てる。韓国という名の、隣家に住む男の顔が瞼の裏にこびり付いているように思い浮かぶ。あまり表情のない、切れ長の瞳と黒髪の、大柄な男は先月越してきたばかりだった。はじめましてと挨拶をした日本を、無視する男を無愛想な人だなと思った。人はそれぞれだし、日本もけして人付き合いが得意なほうではなかったから、特に気にはならなかった。けれど、ある時ふと気がついたのだ。奇妙な出来事の連続は、あの男が越して来てからではないのかと。
 雫の滴る頭を、日本はふるふると振った。そんなはずがない。理由がない。確かに無愛想で、少し変わっているけれど彼に特別憎まれるようなことをした覚えがない。確かに一度だけ、言い合いになったことがある。いや、言い合いと言うほどのことですらない。彼のはいているサンダルが、裏の戸口に置いておいたそれとまったく同じそれだったから、話のきっかけにと「私も同じサンダルを持っていたんですよ、もうなくしてしまったんですけど」と話しかけたことがある。その際に韓国はその白い顔を怒気に赤黒く染めて、「お前はオレを泥棒扱いするのか」と怒鳴りつけられた。そんなつもりではなかったけれど、ごめんなさいと頭を下げた。「これはオレのサンダルなんだぜ、お前が、真似したんだろうお前が、おまえが」と酷く詰られた。あんな履き古したサンダルを、彼が盗んだなどと思うはずがない。ただ同じだといいたかっただけだ。もしかして、あのときの言い合いを恨んで?いや、まさか。そんなことで、夜毎人の家の玄関の前に何時間も立ったりするだろうか。郵便物を漁り、鍵の開いた窓を探して、中に進入するだろうか。
「・・・そんなことで人を疑ってはいけませんよね」
 日本はもう一度湯で顔を洗い立ち上がった。浴室を出てタオルで体を拭う。拭いながら、洗面台で自分の貧相な体を眺める。白い肌に華奢な手足だ。もう少し鍛えたほうがいいかもしれませんとため息をつく。だから、友人にも心配させてしまうのだろう。奇妙な出来事の連続を、今日の昼、遠方に住む友人アメリカに躊躇いながらも電話で話した。陽気な友人は威勢良く笑い、君は臆病だなあけれどもし君を不眠症にしている原因が、気のせいでなくあるのなら僕は容赦しないよ?と頼もしい言葉をくれた。明日にはこの家に着いて、セキュリティの強化とジョークで、君をゆっくり眠らせてあげることを約束しようとも。ふふと、格好付けのアメリカの顔を思い出して、日本は笑った。今日はもう早く寝てしまおう。風呂に入る前に、戸締りの確認はすでにした。体が火照っているうちに床に入って、寝てしまえばいい。アメリカを迎えに駅まで行くのもいい。彼は日本食を、初めは味気ないとつまらなさそうに食べていたけれど近頃は刺身も食べられるようになった。新鮮な魚と野菜の煮物の昼食を振舞って、ゆっくり話しができればいい。浴衣の帯を結び、日本は自室へ向かった。浴室を出て、廊下を真っ直ぐいった、突き当りの小さな和室が日本の私室だった。灯りを消して、すぐに布団へもぐりこむ。連日の寝不足のせいだろう。まどろみはすぐに訪れる。唐突に意識が闇に途切れて、日本は眠りについた。夢も見ない深い眠りだった。チ、チ、チ、と目覚まし時計の秒針が振れる音と日本の寝息だけが静かに部屋を満たしている。
(・・・・)
(・・・・・・?)
 その眠りが急速に、水底から浮かび上がるように覚醒へと引きずり上げられた。眠気の残る重い頭で、日本は瞼を閉じたまま違和感を覚えた。なんだろう。なにか。夜明けにはまだ早いはずだ。なんだろう。なにか、が。
(におい)
 においだ。
 におい。
 香はきらいだった。あまりきつい匂いは好きではない。香水も。日本は香りを発するようなものは何も私室には置いてはいない。覚えのない匂いが、けれど鼻をつく。その匂いが、日本を覚醒へと引きずりあげる。浮上する意識が、警鐘を鳴らすようにその匂いを認識した。何か、匂う。きつい。なにかの。そう、・・・・・煙草の。(紫煙、の)
 それを悟った瞬間、ぞくりと背筋を虫が這うような悪寒を覚え、同時に日本は瞼を開いた。急きたてられる焦燥のままに。暗闇の中、男が自分を見下ろしていた。日本は指先一つも動かすことが出来ない。悲鳴すら喉の奥で凍っていた。指先までがずきんずきんと鼓動を激しく打っている。恐怖が全身を支配した。喘ぐように開いた唇から、かすかな呻き声がこぼれる。冷たい汗が額に滲む。日本が目を開けたことに気がついているのだろうに、男は立ち、日本を見下ろしたまま身動き一つしない。闇に慣れた目が男の輪郭を教えた。韓国さん。無表情に、男は日本を見下ろしている。
「淫乱」
 ふとした呟きの意味はわからなかった。なにが、どうして、と日本は混乱したままだ。
「お前、淫乱だぜ」
「お前はオレのものなのに」
「お前オレの真似ばっかりしやがって」
「お前オレをみているだろう」
「毎日毎日オレを見て、オレに手紙を書いて、オレに料理を作って、お前はオレを好きなのに」
「お前はオレのものなのに」
「馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがってお前はオレのものなのに」
「お前明日アメリカに会うだろう」
「淫乱」
「お前はオレのものなんだぜ」
「淫乱が」
 悲鳴を上げようと。けれど男が覆いかぶさるほうが早かった。その無骨な大きな掌で日本の口を簡単に塞ぐ。
「黙れ。お前はただオレに謝るべきだ。許しを乞うて頭をたれろ。謝罪と」
 その証をオレに差し出せと。男は日本の睫が触れるほどの間近で繰り返す。日本に首を振る以外になにが出来ただろう。じわりと熱いものが目に染みる。男の言葉はまるで意味を成さない羅列だった。デタラメで呪文のようですらある。それが怖い。なにをどういえばいいのか。誤解が、何らかの誤解があるというのならば言葉で伝えることも出来るだろう。けれど韓国の怒りの意味が、日本には少しもわからなかった。淫乱?真似?なにを謝れというのだろう。韓国は怯えて震える日本から手を外して、用意してきたタオルで猿轡を噛ませる。そしてロープで日本の腕を後ろ手に縛った。まるで物でも扱うように軽々と日本を抱え、灯りを一つとてつけずに韓国は部屋を出て行く。そして、迷うことなく歩いた。日本はようやく今起こっていることの一端を悟る。
(この人)
(この人、まるで)
(自分の家のように)
 まるで映像でも見ているように脳裏に思い浮かぶ。玄関の扉に耳をつけて、日本が寝入るまで煙草を吸い立ち尽くす姿が。寝入った日本の家の周りをぐるぐると回り、鍵の開いた窓から足音を忍ばせて侵入する様が。ああ、サンダルは、初めから何の誤解でも間違いでもなく、彼が盗ったのだと今ならわかる。けれど遅すぎたのだろう。今となっては。日本はもっと彼を警戒するべきだった。早くアメリカに、相談していれば、こんなことにはならなかった。韓国は日本を抱えたままで玄関を出て行く。やはり玄関の前に煙草の吸殻が落ちているのを、日本は絶望的な気持ちで眺めた。韓国は扉を閉め、鍵を取り出す。まさかという思いで日本は、その鍵がかちゃりと確かに回るのを見た。鍵。鍵を持っている。彼が。そんな。
 そんな。
 どさりと、突然放り投げられて日本は我に変える。ここは韓国の家だと気がついてぞっとした。私室でかいだ紫煙の香りと何かが腐るような異臭がきつく立ち込める部屋は、闇になれた目でも雑然としているということ意外は何もわからない。韓国が突然明かりをつけた。目がくらみ、日本は身を竦める。
「お前はオレのものなのに」
 韓国は繰り返した。
「アメリカに色目をつかって」
 盗聴されていたのだと、疑いもなく日本は思った。アメリカが来るということは他の誰にも言いはしなかったし、何より電話で今日話して決めたことだった。韓国が知る術はそれより他にはない。日本は部屋の有様を見て、今度こそ猿轡の奥で悲鳴を上げた。くぐもった響きに男は表情ひとつ変えない。怯えてのたうつ日本を、無情に見下ろしている。男の足元に落ちているマグカップには見覚えがあった。いつの間にか見当たらなくなっていた、日本のお気に入りのそれ。取り入れる時にはなくなっていた洗濯物。部屋の隅には腐った柿が枝ごと異臭を放っている。日本が先週出したゴミが、袋ごとある。無造作に壁に貼られた写真に誰が写っているのか、見なくてもわかった。視線の合わない日本が無数に写されている。いつかのあのサンダルもだ。ここは彼の趣味のためにある部屋なのだろう。収集し、それを楽しむための空間だ。丸められた白いティッシュはゴミ箱からあふれていた。
 ひ、ひ、と喉の奥から我知らず声がこぼれた。ひ、ひ、と。体はずっと震えている。怖くてたまらない。いや、大丈夫だ。アメリカが。明日にはアメリカが来てくれる。必ず。必ず彼はここにいることを突き止めて助けてくれる。必ず。アメリカなら、大丈夫。絶対に助けに来てくれる。それまでただ耐えればいい。今から起こることは、日本には想像もつかないけれど、それでも耐えなければと思う。そうすれば、必ず。
 韓国は、無言でゴミや衣類を押しのけて、押入れを開く。そして、何かを取り出している。重い金属音だ。日本は視線をそらすことも出来ずに、韓国が取り出しているそれらを見てしまう。大きな鍋。包丁。鋸。手袋。鉈。鍋がもうひとつ。青い大きなビニールシート。ピクニックにでも、でかけるような大きな。
「お前は、元はオレなんだぜ」
「オレとお前は昔一つだったんだ」
「一つにもどらなければいけない」
「二つにわかれているから」
「だから過ちを犯す」
「お前とオレは、元は一つの生き物だったんだから」
「一つに、もどらなくては」
 アメリカは、必ず日本の居場所をつきとめるだろう。絶対に助けに来てくれる。ここにいると、彼なら必ず。
 それまでただ耐えればいい。生きてさえ、いれば。
 けれどその唯一の希望すら絶たれたのだ、絶たれるのだと、日本は思い知った。
 アメリカは見つけるだろう。
 運がよければ、キムチと出汁とに煮込まれた日本の煮崩れた肉と骨を。歯にその黒髪を絡ませて笑う韓国を。
 もっとはやくこうしていればよかったんだと、やはり男の言葉は日本には理解できないままだ。涙が滂沱と日本の頬を濡らした。
 どうか死が少しでも惨いものではありませんようにと、日本にはただ祈ることしか出来なかった。












今、久しぶりに読み返したらこれギャグじゃないですかwwwwwwwwこれはひどいwwwwwwwwwwwなんだこれ、ひどすぎてわろた・・・・キムチと出汁でにほんたんをにこむとかひどいwwwwwwww