雪がふればいいのに、と菊は小さな頭を傾げ空を仰いだ。
薄暗く渦を巻く分厚い雲が夜空をさえぎり、今夜は星も月も見えない。息を一つ、吸い込むたびに喉の奥まで裂けるような冷たい夜気は、いっそ心地が良かった。
菊の右手をしっかりと握り締めている姉やは、菊を振り返ろうとはしない。ただ前を向いて一心に夜道を急ぐ。姉やの腫れあがっているように真っ赤な耳たぶの辺りを白い吐息が流れては背後に消えていくのを、菊は見上げていた。
どこへいくの、と幾度聞いたのだったか。
一人布団に入り、与えられた短い蝋燭の炎が許す限り本を読もうと、菊が横たわってすぐ。姉やが無言で、菊の牢の鍵を開けた。夜が更けて、姉やが菊のもとを訪れることなどそう多くはない。どうしたの、と幼い声で問うた菊を、姉やは厳しい顔をして早く支度して頂戴とだけ告げた。支度?なんの?けれど、聞き返すよりも早く、姉やは菊の行李から適当に、多くはない着物を選び菊に投げつけた。仕方がなくそれを手にとり、着替えがおわると姉やは慌しく菊の手を引き、屋敷を出た。ダメだよ、姉や、叱られる、私も、姉やも叱られるからと低い声で必死に抵抗した菊に、姉やはいいからはやくするんだよ!と同じように低い声できつく菊の抵抗を抑えつけた。そして引きずるように、しんと静かな夜のなかへ、姉やは菊を連れ出した。
地下の階段を上がり、木戸を開く。吹き付ける冷たい風は、地下の比ではなかった。菊は息を飲み、呆然とした。突然開けた視界に圧倒され、空を仰ぐ。女はそんな菊の手を掴み、庭を横切り、裏口の扉をくぐって屋敷を出た。
雪が見たい。雪が空からはらはらとやわらかく降り注ぐところを見てみたい。
ぼんやりそんなことを考えながら、菊は必死に足を動かした。足がもつれて転びそうになっても、姉やはけしてそれを許さない。よろけた菊を掴んだ右手を強く掲げることで、菊の小さな体ごと持ち上げてまた地面に下ろす。菊の小さな体は簡単に女の思うままになった。
「ねえや、ねえや」
か細い声で呼べば、女は振り返らずになに、と鋭い声で答えた。
「どこへいくの」
「・・・・・」
「こんな夜に、お外にでたらダメなんだよ」
女は無言で夜道を歩いていく。どこへいくのか、何をするのか。今から何が起こるのだろうか。
「ねえや、かえろう?お屋敷にかえろうよ・・・」
菊は生まれてこの方、屋敷から一歩たりとて出たことがなかった。だから、本当は恐ろしくてしょうがない。体の震えが、恐怖のためかこの寒さゆえなのか、それを判別することすら恐ろしくて出来ない。
屋敷を抜け出たことが母に父にもしばれてしまったら。
菊だけではない。姉やも酷い折檻にあうだろう。彼らの言いつけは絶対だった。一度だけ、
「ねえや・・・」
「いいから、だまってついておいで」
「でも叱られるよ・・・帰ろうよ」
「かえるところなんかない」
え、と聞き返す菊の声が聞こえていないのだろうか。女はまた黙って夜道を急いだ。何者かに追われてでもいるかのような緊張が2人の間にある。けれど首をめぐらせ、何度振り返ろうとも誰の足音も聞こえてきはしなかった。
「屋敷からでたらだめなんだよ・・・」
それが菊が父母から教えられた唯一の言いつけだった。
絶対に屋敷から出ないこと。
菊に与えられた牢は屋敷の地下、古い酒樽や壊れた箪笥、鼠が巣を作っている黴だらけの布団が押し込まれた冷たい場所にあった。食事は一日に二回。菊の世話をしている姉やが運ぶ。用を足すための樽の始末も彼女がしてくれた。もし菊が父母の言いつけを破って、屋敷をでようとしても叶えようもない生活だった。その細い手足で鍵のついた牢を抜け出るなど、不可能に近い。けれど父母は一日に幾度となく菊の元を訪れて繰り返すのだ。屋敷から出てはいけない。外に出てはいけないよ。外は恐ろしいところだから。お前はここにいなさい。いいね。約束だよ。そう、呪いのように。
わかりましたと頷く以外に、何が出来ただろう。
「ねえや・・・」
「・・・・・・」
外は怖いところだと、彼らは言った。闇は深く、まるで女とたった2人きりにでもなってしまったような気がして、菊はもう一度大きく震えた。たった一つのよりどころである姉やの冷たい手をもう一度強く掴んだ。そして、ふと気がついた。女も震えている。
「ねえや、寒いの」
「・・・・」
「大丈夫?ねえ、やっぱり帰ろう、お外は怖いよ・・・」
「だから、言ってるだろう、お前にもう帰るところなんかないんだよ」
かえるところがない?女はただそう繰り返す。菊にはわからなかった。どうして?屋敷にかえればいいだけなのに、どうしてねえやはそんなことを言うんだろう。寒いな。腹の底まで冷え切って、ひび割れるようだ。
「どこへ、」
「もういいからお黙り!」
どうしてどこへと繰り返し問う菊を打つような厳しい声で姉やが声を震わせていた。寒いのだろうか。かわいそうだと握り締めていた姉やの手に、もう一つの手を重ねようとした。その手を、姉やが払い落とした。
「やめて頂戴」
「・・・だって」
「・・・・・気持ち悪い」
「・・・ねえや」
「本当に、気持ち悪い子だよ、お前は」
夜目にも、彼女の顔に嫌悪と恐怖が満ちて歪んでいるのが見て取れた。それは今まで菊が、肌に感じながらも目をそらし続けていた彼女の仮面の下の顔だ。本性をむき出しにして、女は菊を嫌悪した。
「教えてあげようか、今からどこへ行くのか、お前がどうなるのか」
「・・・・姉や、」
「お前はねえ売られたんだよ」
女は笑ってさえいた。
ざまあみろと、震えながら女は唸った。薄暗い目をして、なぜか怒りを孕んで。
「売り飛ばされたんだよ、だんな様も奥方もアンタみたいな気味の悪い子はいらないってさ」
「うる・・・」
「わかんないかねえ!捨てられたんだよ!いい加減だまって頂戴、この化け物!」
売る?
売るという言葉の意味が、菊にわからないわけではない。けれど理解が出来ない。売る。お金にこの身を換えた?父と母が?
「ああせいせいするよ、これでやっとあたしは里に帰れる、あんたみたいなッ・・・アンタみたいな、ば、化け物のっ、世話から、開放されてっ」
「お金に?・・・・お金が、ないの?・・・・だから、・・・」
「金に換わっただけありがたいと思えっ」
大きく震える腕を女は振りかぶり、菊の頬へそれを振り下ろした。
痛みよりも衝撃が先に来た。菊の小さな体は地面に叩きつけられ、転がる。ヒステリックに何かを、言葉には聞こえない何事かを叫びながら女が菊の体を引きずりおこし、無理やり手を握り、再び夜道を先ほどよりも足早に歩み始めた。
菊は呆然として、鼻の奥から伝う血の温かい感触を味わう。視点がうまく定まらなかった。
「もうつくよ、しゃんとしな」
どこへ着くというのだろう。菊はその言葉に緩慢に首をめぐらせて、闇に目を凝らした。これは山へ分け入る細道だ。屋敷の裏に聳える山は菊の父母が所有しているもので、誰の手も入っていない。彼女が目的としている場所が菊にはわからず、重ねて問おうと口を開いた。けれど唐突に立ち止まった女の足にまともに顔をぶつけて、問いではなく妙な悲鳴が漏れてしまった。
「なに、」
「いるんでしょ?」
女は闇に向けて声をあげた。木々がさらに深い影を落とす鬱蒼とした茂みに向かって、彼女は叫んでいた。
「つれて来ましたよ」
ふと影が揺らいだ。巨木の陰に重なるように立っていた、それは男の影なのだと菊は気がついた。男が2人、木端を踏みしめながらゆっくりと近づいてくるのがわかる。上げそうになった悲鳴を飲み込み、菊は女の手にしがみつき隠れるように女の後ろに回った。その体を女が無理やり前に押し出して、突き飛ばす。地面に倒れこんだ菊の目の前に、綺麗な靴先があった。緩慢に首をもたげ、菊は靴の先を辿った。着物とは違う男の衣服を見て一目で異国の人間だとわかった。
「あいや、大事な商品に傷つけたらだめある」
にこにこと男は笑いながら菊と視線をあわせる高さにしゃがみこんだ。不思議な発音で、けれど流暢に言葉を操り、後ろで一つにくくった長い髪を揺らしながら男は優しい笑みを浮かべていた。男は袖口で菊の鼻の下に垂れた血を嫌悪の気配もなく拭う。端正な顔立ちを人懐こい笑みに歪ませながらも、男はまるで獣のようにどこか殺気立っている。恐ろしいと菊は思った。この人は、恐ろしい人だ。
「さっさと連れて行ってよ」
女の言葉に、男が背後に立つ大柄なもう一人の男に顎をしゃくってみせた。のそりと筋肉質な体をやはり緩慢に動かし、男は懐からおそらく金の入った巾着を取り出し、地面に放った。女はその巾着に飛びつくように手を出して、掴む。
「さあ行くある。長旅になるあるよ」
長髪の男は愛想の良い顔のまま菊の冷えた手を取った。暖かいその手に右手を取られて、菊はぼんやりと男と視線を合わせた。ねえやの冷たい手とは違うと頭のどこかで考えながら。
「あの・・・」
「ん?」
菊のか細い問いに、男は小首を傾げて返事をくれた。背後からは女が足早に遠ざかっていく音が聞こえてくる。
「私はどこへいくのでしょうか」
「とおいところある」
遠い?それはどのくらい遠いのだろうか。また父や母と会えるくらいの距離だろうか。そう思った菊の心を読んだように、男は、海を隔てたずっと遠くあると言葉を重ねた。
「そうですか」
「おそろしいあるか?」
恐ろしい?彼が?今この暗闇が?菊にとって恐ろしいものはもう一つも残っていなかった。父も母も姉やでさえ菊を必要としていなかった愛してなどいなかったと知った今、何を恐れることがあるのだろう。いいえと首を振り、菊は男の目を見返して言った。
「・・・・私はいらない子供だったようです。あなたはどうしてお金と私を交換したのですか?」
実の父母ですら気持ち悪いと手放した自分を、どうしてこの男は金銭と交換したのだろう。あの巾着一つ分以上の価値が、この自分のどこにあるというのだろう。つまらないものを交換し合って、何の意味があるというのだろう?不思議に思い菊は問う。けれど男から帰った答えは意外なものだった。
「あいやー、お前はわかってないあるね。我にとって金はこの命より大事なものある」
「・・・・命より?」
「そうある」
「・・・・・ではあなたは、その命よりも大事なものを私と交換したのですか?」
冗談をいっているのかと菊は男の顔のどこかに隠れているであろう嘘を探した。けれどそんなものは見つからず、笑っていない瞳の奥は薄暗いほど男の言葉が真実であることを告げていた。
「では、・・・・私はあなたにとって大事なものですか?」
「そうじゃなかったらこんなド田舎までくるわけないある」
「・・・・私が必要?」
「当然」
「・・・・そうですか」
冷たく凍えた指先に力をこめ、菊は男の暖かい手を握り締めた。確かに握り返される温かい感触に目の奥から温かいものが滲みた。彼の「必要」という言葉がどういう意味であってもいい。必要とされているのならば彼と共に行こう。
「あれ、泣いてるあるか?」
からかうような男の声に、頭を振る。
「いいえ」
(大きな屋敷。父と母の綺麗な着物。屋敷の使用人の数は、数えられないほどたくさん)
彼らにとって金銭はさほど重要ではなかった。
どれほどの価値が自分にあったのか、菊は思い知らされた。
菊は、ようやく思い知った。
(私は、『いらないもの』)
(・・・・わたしはいらないんだ)
物心ついたときには牢の中だった。檻の向こうで引きつった笑顔で笑う父と母。いつか彼らのこわばった手のひらが解けて抱いて、愛していると告げてくれると信じていた。けれどそんな日は来なかったのだ。どれだけ待っても、結局。もう、こない。
私は彼らにとって「いらないもの」だった。
「・・・あなたが私を必要だというなら、私はあなたのために死んでもかまわない」
冗談だとでも思うのか可可と笑い、男は菊の手を引きそのまま抱き上げた。菊はこれまでだれかに抱き上げられた経験がなかった。男の腕のなかで戸惑っていると男が笑いながら、菊の背中を優しくなでた。いい子とでも言うように。
「・・・・・・・・ふ・・・」
泣くまいと唇をかみ締める。けれど零れる涙が菊の着物の襟を濡らした。男は菊の嗚咽など聞こえないかのように菊を両腕に抱いて歩きはじめた。父を愛していた。母を愛していた。けれど彼らは結局、最後まで菊を愛してはくれなかった。
一度でよかったのだ。
父が母が一度だけでも頭を撫でて微笑んでくれさえしたら菊は、今頃泣き叫び喚き小さな体の全てであの冷たく暗い牢へと駆け戻っていただろう。
もう戻れない。私に戻る場所などどこにもない。
今日初めて会ったこの男はこんな私を必要だと笑い、抱き上げてくれる。ならば私は彼のために生き、死のう。
他に私が存在する理由は、最早一つたりとてないのだ。
菊は凍える夜気を深く吸い込んだ。ガラスでも飲み込んだように痛む胸を少しなりと惑わせてくれるから。
男に抱かれながら、男の首筋に顔を埋めた。あふれ出した涙を止める術を菊は知らなかった。熱い嗚咽を押し付ければ、男は何度も繰り返し菊の背を撫でた。
さようなら。
菊は胸の内で呟き、それから考えることをやめた。そして凍えた指で名前も知らぬ男の首に腕を回した。