ゴポゴポゴポとドス紫色(そんな言葉があるのならば)の禍々しい色の水が排水溝を流れていくのを、日本は憂鬱な気持ちでしゃがみこんで見つめている。正直ものすごい汚臭だ。檜のいい香りを台無しにする攻撃的な香水にも似た入浴剤と汚物の匂いが混ざり合い、浴槽の中身は工場排水に近い。日本自慢の檜造りの浴槽は、いまや公害を発するドブ川だ。はあ、とため息をついてせめて換気をしようと立ち上がり、裏庭に面した小窓に手をのばした。鍵をはずし、自身も少し新鮮な空気を吸うべく、顔を出す。
「あ」
見なかった振りをしたかったのだが、こうもばっちり目が合ってしまえば、無視するわけにも行かない。隣に住む韓国が、落ちた柿を拾おうとしたその姿勢のまま日本を見上げていた。
人の家の裏庭で何をしているんですかとは問うまい。隣家に植わった柿の木が枝を伸ばし、日本の庭にまで果実を落とすのは毎年のことだし、それを韓国が断りもせずに進入して柿を拾うのもいつものことだ。
「おはようございます」
「おまえ臭いんだぜ!!」
開口一番に指摘されては笑うしかない。
はは、と乾いた笑い声で、否定はせずに日本は遠くを見た。朝焼けが目に痛い。今日は晴れそうだなあと思いながら何度も瞬く。
「すみません。昨日入浴剤を使ったんですけど匂いが思いのほか酷くて。ですけど、体に害はないので」
「当たり前なんだぜ、お前もしこのにおいでオレが体壊したら謝罪と」
ピシャンと少々ヒステリックに窓を閉めて、鍵をかけた。向こうから聞こえてくる罵声の相手はせず、日本はため息をもう一度ついた。今は韓国と会話をする気分には到底なれない。お決まりの啖呵を最後まで聞いてやることはできなかった。何よりこれから風呂掃除が待っている。正直この疲れきった体には荷が重い。
「はあああああああああああ・・・・・・・・・」
ああそうか、とりあえず換気扇を回そうか。韓国がまたあとで臭いだのなんだの怒鳴り込んでくるに違いないが、鍵をかけて篭ってしまえばいい。そんなことにも気づかないほど疲れているのかといまさらながら思い知らされる。体の節々が痛むのを耐えてゆっくり立ち上がる。汚水が流れてしまえば、少しは浴室にいつもの檜の香りが強くなったような気がする。いや、それももはや狂った嗅覚の勘違いなのかもしれなかった。
「どうしましょう、これ」
浴槽の中身を見るたびに頭痛がする。どうやって片付けようか。これを。
「・・・・・・・はああああ」
そもそも、あの時。
「・・・・・・・・・玄関を開けなかったらよかったんですよねえ・・・・」
昨夜、日本が夕飯を済ませ風呂の支度をしている最中に玄関の呼び鈴が鳴った。どうしよう、知らぬ振りをしてしまおうかと一瞬思った。夜の来客には、あまりいい印象がない。戸惑ううちに、ガンガンと玄関を打つ音がして、「おい、日本、いるんだろ!」とどこか腹立ち紛れに似た声音が聞こえてきた。ああイギリスさんですかと思うと同時に体が動いていた。知らぬ振りをしたいのは山々だけれど、こうも煌々と室内の明かりがついていてはその言い訳も苦しい。人がいいというより押しに弱い日本は、渋々立ち上がって玄関へ向かった。
「はい?」
「お、おおおおおおお」
「お?」
「おお!ぐ、偶然だな!!」
白い頬を染めてそっぽを向くイギリスの肩には真っ赤なバラの花束が担がれていた。偶然って・・とうんざりした気持ちになりながらもそれを表情に出さずに、日本は愛想笑いを浮かべた。
「・・・・・・・・・・・・・そうですか?」
「お、おおおお、まあなっ、偶々こっちを通りかかったら、お前が家にいるみたいだから!だから偶然だよな?!」
「・・・・・・・・・・・・・」
そんなに必死に偶然を強調しなくてもいいのにとは突っ込まない。彼が自分に惚れていることはもはや公然の秘密といおうか、ばれていることに気がついていないのはイギリス一人と言おうか。面倒くさいことこの上ないけれど、瑣末に扱うわけにも行かない。これもご近所付き合いの一環だと日本は微妙な笑みを浮かべ続けた。ご近所というにはあさっての方向に自宅を構えているイギリスが、偶然こんなところを通りがかるわけがないことがわかっていてもだ。アメリカなどは面白がって、「君のどこがそんなに好きなのか聞いたんだけどね、飯は旨いし大人しいしちまっとしてかわいいし、彼の好みど真ん中ストライクみたいだよ!」と聞いてもいないことを逐一報告してくる。そういえば、そろそろイギリスが日本に告白する決意を固めたらしいと先日の会議の際にアメリカから、ノートの切れ端が回覧されてきたっけ。イギリスを飛ばしたほとんどの国々がニヤニヤとこちらを眺めていたあの好奇に満ちた視線が忘れられない。
「・・・・・・・・・・・・・・あのー私今からお風呂に入ろうと思ってるんですけど」
遠まわしに今日はあきらめて帰れと伝えたつもりだったのだが、空気の読めないイギリスには伝わらなかった。
「は、え、あっ、なっおまっ、はしっはしたねーだろ!!一緒に入ってくれって、そんなのっ」
「いえ誘ってませんけど・・・・・」
「な、なんだよ、オレに入れって?!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そんなわけあるかというような斜め上の解釈にげんなりしてしまう。正直、日本はイギリスが苦手だ。ツンデレが許されるのは二次元の女子だけだ。純粋な好意は素直にうれしいけれど、募りすぎた恋心でチクチクいじめられてはたまったものじゃなかった。会議の席が偶々隣になれば、わざとらしいほどそっぽを向くし、回ってきた書類を渡すことすら恥かしいのか、日本をとばして中国にまわす。鉛筆を落とせば、投げつけて返される。アメリカなどと話し込んでしまえば、親の敵かと思うほどにらみつけられるし、彼手作りのマフィンは日本だけほかのものよりも一回りも大きい。げんなりするほどの秋波を顔を合わせるたびに浴びせたおされて、日本はほとほとつかれきっていた。そしてここへきて、日本の唯一の安住の地、自宅にまで押しかけてこられては溜まったものではない。
告白さえ、一度告白さえしてくれたらはっきり断ることが出来るというのにと常々考えていた。今日はいい機会なのではないだろうか。うんざりしながらも、前向きに日本は考える。たずねてきた時間帯といい肩に担いだバラの花束の本数といい、彼の常よりも浮ついた所作と奇怪な言動といい、彼もそのつもりのはずだ。勝負をかけに来たに違いない。
「・・・・・・・・・・・ちょうどいいのかもしれませんね」
「えっ!なにかっいったかっ!!」
「あの、ご近所迷惑なのでもう少し小さい声でお願いします」
「おおおおおっ、そ、そっか?!そうだな!よし、お前、これやる!」
バシンとぶつけられたバラの花束の棘はご丁寧にもすべて取り払われていた。イギリスの両の手袋の下の指先に小さな絆創膏が張られているのが見えるようだった。この人のこういうところは可愛いと日本も思う。日本に渡す前におそらく彼が一本一本棘を抜いたのだ。受け取った花束は派手で華やかで、日本には似合わなかったし、香りもきつ過ぎた。けれど、愛の告白にふさわしい花はバラだとかたくなに信じている彼が幼くもおかしくもある。・・・友人になれれば何より良かったのだが、そうもいくまい。どうぞ、とスリッパを出して日本はイギリスを部屋へ招いた。
「お茶でもいかがですか?」
「ど、どうせ日本茶だろ、だっせえな、お前もたまには紅茶とか飲んでみろって」
「・・・・・・・・・・・・」
「折角バラ持ってきてやったんだ、どっかに飾れよ、早くしねえと枯れるだろが」
「・・・・・そうですね、ではそうします」
「先に茶だろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか?」
「そりゃそうだろ、お前気がきかねえな」
必死に天井見ながら頬を赤らめ悪態をつくこの男が14,5歳の少女だったならばこうも腹は立つまい。平常心平常心と言い聞かせながら、バラの花束を台所のバケツに無造作に突っ込む。仕返しのつもりでどくだみ茶を用意した日本を、誰が攻められるだろう。
「おい、お前ちょっと早くこっち来い、は、はははははははは、はな、話があるからなっ!!」
「・・・・・・・・・・・・・はいはい」
どくだみ茶の湯飲みと、自分用に玉露を注いだ湯飲みとを盆に載せて我が家の如く居間でふんぞり返っているイギリスの前に運ぶ。
「はあ?お前紅茶って言っただろ?なんで緑茶なんだよ気がきかねえよな、日本は、ほんっとしょうがねえな、しょ、しょうがねえからな、お前、しょうがねえ奴だから」
「・・・・・・・・・・」
「お、オレが、オレが・・・・・・っ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあお茶でもいかがですか?」
「・・・お、おう。・・・・・・・・・・・っつ、しかも苦いな、まずい」
自分用にと用意した玉露を無造作に飲まれて、そんな悪態をつかれた日には。頭に来た日本が、どくだみ茶を掴んでわざとらしくイギリスに頭からぶっ掛けたとしても許して欲しい。
「あぢ、アッヂ!!!!!てめっ・・・っ!!!!!」
「ああああっ、すみません、つい手が滑ってしまいました、ああ、つるっと、つい」
60度前後とはいえ、体感温度は飛び上がるには十分だっただろう。それに加えて独特の臭気だ。
「ちょっと、おまえ風呂貸せ、くせえだろ、こんなんで告は、」
「え?」
「こ、こ・・・っこんなんで帰れるか!!」
うっかりこれ以上はないであろうみっともない告白をすんでのところで飲み込んだイギリスは、慌てて立ち上がった。顔を真っ赤にして、差し出した台拭きを掴んだまま踵を返した。ささやかな報復のつもりが事態をより面倒くさくしてしまったと日本が気づいたときには遅かった。勝手知ったる他人の家で、イギリスは乱暴な足音で廊下を鳴らして、止める間もなく歩いていく。あああああ沸かしたての一番風呂が、という悲鳴を飲み込んだ日本は大人だった。はああと深いため息をついて、もう一度腰を下ろす。ちゃぶ台には入れたての玉露がまだ湯気を立ち上らせておかれたままだ。あたりに飛び散ったどくだみ茶を拭かなければならなかったが、せめてお茶の一口くらい飲んでも許されるだろう。イギリスが一口、口を付けたけれどこのまま捨てるには勿体無いと思う日本は貧乏性なのかもしれなかった。
さて。
「・・・・・・なんていって断りましょうか」
あなたはあくまでも友人です?
「・・・・・・・じゃあ恋人になれるまで頑張るぜ!とか言い出しそうですよね。イギリスさんって結構、一途みたいですし。・・・迷惑なことに」
ほかに好きな人がいるとか。
「・・・・・・・そいつは誰だ名前を言え、言うまでオレは帰らない、とかね・・・・」
二次元しか眼中にない、はダメだ、三次元のよさを教えてやるなどとむしろむきになりそうだ。
「・・・・・・・ああああああもう、ほんとに厄介な人に・・・・・っ」
頭を抱えた日本を遠く呼ぶ声がしたのはそのときだった。
「ああ・・・・・呼ばれてますね」
行きたくないが行かないわけにも行かず、下ろしたばかりの腰を日本はあげた。はいはいはいはい、とウンザリしながら風呂へと向かう。着替えを用意しろとか、どうせそんな用事だろう。脱衣所の籠の中には確かに、来客用の浴衣が用意してある。先に聞いてから風呂に行けばいいのにと心の中で愚痴りながら、日本は脱衣所の戸を開けた。開けて、はじめに思ったことは『臭い』だ。思った、というよりも体感したというほうが正しい。頭で思うよりも先に、その臭気に眉を寄せ、それから改めて『臭い』と思った。
「ん、な、な・・・・っ、な・・・っ」
臭い?いや、臭いわけがない。風呂は、日本自慢の総檜づくりで、湯を注ぐだけで檜の全身の力が抜けるような良い香りがする。その浴室から、こんな醜悪な終末的な破壊的な甘ったるい垢のような、そんな匂いがしていいはずがなかった。脱衣所の入り口で固まった日本をどう解釈したのか、イギリスがさりげなく下半身を隠しながら何事かを赤面しながら言っている。けれど一つも耳に入らなかった。臭い。
「・・・・・・・・・・・・・まあ見蕩れる気持ちもわからなくわねえけど、だから、要するに、お前がそんなにオレのことが気になるって言うなら、オレはお前と付き合ってやっても、」
「・・・どいてください」
顔面を蒼白にした日本のか細い声が聞こえなかったのか理解できなかったのか、イギリスは愛の告白を止めようとはしない。
「お前みたいな東洋の小猿が、オレと付き合えるなんて、すぐには信じられねえかもしれないけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「お、オレは、結構本気で、おま、お前のことを、す、すす、す、す」
参ったな、ちょっと照れるなこういうの、だから、わかるだろう、言わなくてもお前わかるだろう、察しが悪いな、はっきりいわせんじゃねーよ、だからその、ええとな、だからようするに、と繰り返すイギリスなどそもそも眼中になかった。日本が見ていたのはイギリスの全裸ではなく背後。湯船の中、その湯の色だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青」
「は?あ、ああ、綺麗だろ、お前入浴剤の一つももってねえみたいだから買ってきてやったんだ、まあ、礼とかはいいけどよ、その、まあなんだ、い、一緒に入るって言うんなら」
入ってやってもいいぜと会心の笑みを見せたイギリスの立てた親指ごと彼の拳を握り、ひねり上げる。そしてほとんど同時によじれたイギリスの体の中心、腹の辺りを蹴り上げ、適当に手に触れた物を掴み、日本はイギリスの頭部目掛けて「それ」を真横に振りぬいた。鈍い音を立ててイギリスが仰け反って血しぶきを上げた。倒れこむことを許さずに、さらに「それ」をイギリスに振りかぶった。
手抜きはなしで。
「はああああああああああああああ」
以前薪で焚いていた名残であるところの、鉄製の火かき棒は日本の手に良くなじむ。乾いた血のにじむそれを手の内でもてあそびながら、日本は浴槽の中身をもう一度見下ろしてため息をついた。死体の処理なんて、どうすればいいのだろう。つい不精で出しっぱなしにしていた火かき棒が良くなかったのだろうか。いや、あの時は完全に血が上っていて、火かき棒がなければ違うもので結局彼を殺していたに違いない。血と青が混じった醜悪な紫は、排水溝を流れきったけれどいまだ脳裏にこびりつくように匂う。後悔はあまりない。思い出せばいまだに腹が立ってしょうがなかった。強いて後悔するとすれば、簡単に殺しすぎたということだろうか。
「ああもう・・・こんなところにまで脳漿が・・・・黴が生えるじゃないですかー・・・」
日本は無表情のまま、ピンクの肉片を棒でつつく。
「なんでこんなことになっちゃったんでしょうねー・・・」
とりあえず先に「死体 処理 完璧 」でネット検索でもしましょうかと日本は棒を転がした。
便利な時代になったものだ。いいのか悪いのかはわからないけれど。