お前んちが一番近いだろと、肩を抱くのも嫌々という風情のアーサーに泥酔した男を押し付けられた。
・・・・・酔っ払いは嫌いだ。
酒臭い息を漂わせながら、男はヒゲ面をアーサーの顎にごりごりと押し付けてご機嫌だった。母国語の鼻歌は、この酔っ払いから発せられているとは思えないほど美しい旋律と言葉で、それが一層腹立たしい。掴まれた尻を引き剥がし、アーサーはじゃ、あとは菊頼んだからな!といいおいて逃げるように雑踏に消えた。覚えてろ、と表情に出さず、菊は寄りかかってきた大柄な男を背に負う。こう見えても日本男児として、それなりには鍛えてある。
「・・・・・・・・・・・・・なんちゃって」
ひとりごちてすぐにタクシーに手を上げるのは年のせいというより、日ごろの運動不足が祟ったからだ。もはや私の体力も過去のものなのかと、ひそかにショックを受ける。タクシーの中でもフランシスはご満悦だ。菊をどこぞのバカ女と勘違いして、ひたすら着物の裾をめくろうとするのも始末に終えない。ああどうして、私はいつもこう厄介ごとを押し付けられるのでしょうとわが身を振り返るけれども、この酔っ払いのフランス人は消えてなくなりはしない。
「フランシスさん、わかりますか?今から私の家に行きますからね。いいですか?」
「・・・・・・・・うーん、おっぱいが六つもあるなんて君はなんてニャンコなんだジュテーム」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
意思の疎通に意味などないと早々に悟った菊は、口をつぐんだ。そもそも口下手な菊には黙っているほうがよほど気がらくだ。フランシスとは会えば話す仲だが、それ以上でもそれ以下でもなかった。女好きで華やかなフランシスと寡黙で人見知りをする菊の気が、合おうはずがない。お客さん困りますよ、吐かないでくださいねという運転手のもっともな小言を聞きながら、菊は窓の外の流れる光に怠惰な視線をやった。夜の街の喧騒が遠ざかっていく。飲み会になど、出るものではなかった。そもそも、こういう騒ぎはあまり得意ではない。アルフレッドが、どうしても君もくるんだぞと言い張って聞かなかったのだ。あのワガママで尊大なアルフレッドは、菊の意思など知ったことではない。仲間同士結束を深めよう!という名目のバカ騒ぎは菊にはつまらないことこの上ない。静かな自宅で、月でも眺めながら日本酒を煽るほうがよほどいい。ああ、早く帰りたい。いや。
「・・・・・・・・・・・・・・はぁ」
現実逃避仕掛けた菊は隣の酔っ払いを思い出して、思わずため息をついた。
「・・・・・・帰ったところで、今日はゆっくり出来ませんね」
「うーん、ノドゥボトゥケ・・・」
「はいはい、喉仏喉仏」
喉仏すらオシャレに言うとは恐るべしフランス人、と菊はくだらないことを考えながら、止まったタクシーのメーターを見て、支払いを済ませ、フランシスの手を引いてタクシーを降りた。あとでフランシスにも請求するべく、領収書をもらうことも勿論忘れない。せこいようだが、こういうことをなあなあに済ませるのはどうも気持ちが悪かった。苛々も手伝ってか、一円たりとてまかりませんからねと妙な決意を燃やし、かって知ったる我が家の玄関をくぐった。
叩きにへたりこんだフランシスは、いまだ正気に戻らず、陽気だ。近所迷惑極まりない。
「おにーさんはぁーシャワー浴びたいぞぉーくっさいぞぉー」
ケタケタ笑うフランシスの息といい汗のにおいといい確かにひどい。
「ええ・・・・・?ああ、でも確かにちょっと・・・」
面倒な、と思いながらもその匂いに閉口する。
「・・・・・・・・・どうしましょうか・・・」
「フロ!シャワー!着替え!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあいいか」
アルコールが回って死んだら死んだでそのときですよねと、ドライに考え菊はフランシスの腕を掴んで引きずり起こす。帰宅時間にあわせてセットしておいた風呂にはすでに、湯気がもうもうと立ち上がっている。アルフレッドなどは情緒がないだのなんだの、人事と思って薪で沸かせとうるさいが、一度全自動に慣れてしまえば戻る気にはなれない。檜の浴槽と湯沸かし器のミスマッチは、思うところがないわけではないが、トイレと風呂の快適さを追求し続けてやまない菊は、いまさら風呂を焚こうとは思わなかった。ようよう引きずり、脱衣所で子供の始末をするが如く、男の仕立てのいいシャツやズボンを脱がせて裸にする。股間のアレが立ち上がっているのは見なかったことにしておこう。エッチだなんだというフランシスを湯船に放りこむ。
「あち!アチチチチチチ!!」
「ですか?じゃあ少し水を足しましょうか」
さすがに熱い風呂に入れては死ぬかもしれないと、湯煙のむこうで暴れるフランシスを見下ろして菊は水を注ぐ。
「じゃ、私はこれで。着替えは棚です。あがったら適当に寝てくださいね」
「あれーちょっと菊ちゃん。付き合いなよ。おにーさん寂しいんですけど?」
逃げようとした菊の手をフランシスがとる。汚いものでも見るような眼をして、菊はその手をはたくけれどよっぱらいはなかなかにしつこい。いや、それはもうしつこかった。意思の固い菊をさらに凌ぐしつこさとずうずうしさで、フランシスは「せめて頭を洗え」という。
「・・・・・・・・・・・・・・!いい加減に」
「頭だけ。頭だけでいいからさ。お願い。な!おーねーがーい!頭を人に洗われるのはさーすっげーすっげー気持ちいいんだよ!お願いお願いお願い!!!
なっ!今回だけだから!お願い!と大の男に頭をこうまで下げられて、断るに断れない自分の性が憎い。歯噛みしたい気持ちを堪え、今回だけですよと頷いてしまう自分の性はもっと憎い。
「やった」
にこにこと笑うフランシスは無邪気だ。子供のような男だ。たすきをかける菊を、湯船の中から見上げている。憎みきれないのは彼の人柄ゆえだろう。ああいやだ。仲良くなってしまいそうです、と眉を険しくして、菊は出来るだけ無愛想にフランシスを浴槽から出ろと促す。友人は少ないほうがいい。アルフレッド一人でさえ十分に菊の静かな生活を乱されているというのに、これにフランシスまで加わっては、穏やかな生活はあきらめたほうがいいだろう。同じ檜造りの椅子に座らせた男の肩は広い。
「仰のいてくださいますか?」
「んー」
陽気なフランス人が目を閉じて首の力を抜いた。濡れた金髪から雫が滴る。シャンプーを手にとって、手のひらで少し泡立てる。こういうことに慣れていない菊の所作にも不満はないようだった。見よう見まねで、フランシスの頭皮に指を触れた。濡れて少し重い色をしている金の髪は緩やかなウェーブを描いている。腹立たしい心境のままにこの綺麗なものを触ることがためらわれて、菊は慎重すぎるほどゆっくりと泡で触れた。反響するフランシスの鼻歌が心地いいのも悔しい。
「・・・・痛くないですか?」
「んー、全然。気持ちいい」
「・・・・・・・・・・」
「きくちゃーん、ありがとなー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
[だいすきだよぉー・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・んんん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・んー・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・え、・・・・・・・・・・・・あれ、あの、ちょっと・・・・?」
傾いだ体がゆっくりと壁に倒れこんだ。泡だらけの頭が、ゴツとにぶい音をさせたけれどフランシスは目を閉じたまま心地よさげな寝息を立てている。すうすうと静かな寝息が浴室に響く。
「ちょっと・・・・・嘘でしょう?起きてくださいってば。私だってもうクタクタで・・・・」
これからこの大柄な男を洗い流して拭いてやり、それから着せてやらねばならないのだろうか。正直泣きたい。菊だって、湯船に浸かり、汗を流して軽く一杯飲んでからゆっくり眠りたいのに。けれどフランシスは呼べど叫べど揺すれども目を覚ますつもりはさらさらないのか、どこまでも穏やかに寝息を立てるばかりだ。
「・・・・・・・・・・・・・このまま表に捨ててしまおうか」
その案には至極心を惹かれるが、玄関で全裸の外国人が凍死なんて、ご近所迷惑極まりないだろう。すでに、アルフレッドやアーサーのせいでご近所には目を付けられているというのに。
だがしかし。
「一矢報いねば、とてもではないですが眠れそうにありません」
何かないだろうかと浴室に視線を走らせた菊の目に留まったのは、先日アーサーが置いていった髭剃りだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・ヒゲ」
回りこんで、正面からフランシスの顔をまじまじと見下ろす。
端正な容貌に蓄えられた髭はフランシスのアイデンティティと言っても過言ではない。そういえば先日
アーサーに「てめえのそのエロ髭がムカつくんだよ、大体クソ童顔の癖にかっこつけてんじゃねえぞ」とかなんとか詰られていたような。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
我知らず頬が緩んだ。
「いいことを思いついてしまいました」
少々の好奇心もあった。髭をそったフランシスというのは、想像できるようで出来ない。そうと決まれば早速泡を手に取る菊の顔はかつてないほど悪どかったに違いない。鼻歌が出そうなのを耐えて、泡を手に取る。今までは起こそうと散々大声を出したり揺すったりしていたにも関わらず、今度は起こすまいと慎重に事を進める。こうなると、物音一つすら彼の目を覚ましてしまうような気がするから不思議だ。ゆっくりと剃刀をフランシスの顎に当てる。
ジョリ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・っ」
えもいわれぬ快感に思わず身震いしてしまう。あああああこれは癖になってしまうかもしれません、と嬌声を喉元に押し込んで、震える指で刃を走らせる。ジョリ。ジョリジョリジョリジョリジョリ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふう」
刃の抵抗が無くなってきて、仕事を終えたことを知る。額をぬぐい、ゆっくりとぬるま湯で顎の泡と毛を流していく。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これは・・・・・・・・・・・」
目を見張った。
さっきまでは、確かに酒臭い酔っ払いのおしゃれなエロ男だった。確かにその緩やかなウェーブを描く金髪も白い肌も端正な風貌も何一つ同じはずなのに、確実に別人が目の前で彫刻のごとき美しい裸体を無防備に晒して、まるで天使のごとき有様だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カ、カメラ・・・・・!!」
白い湯煙が幻想的ですらある。酒の匂いすら芳しい。緩やかなウェーブが頬に張り付いていて、触れるどころか見ることすらためらわれる。神々しいとはこういうことを言うのだろうと菊は言葉を失った。慌ててデジカメを取りに走るあたり、菊も由緒正しい日本人だった。この美しさを収められるカメラが存在するとは思えないが、それでもとらないよりはマシだろう。明日、もしアルフレッドとアーサーが恒例のごとく押しかけて来たら、この写真を見せてやろう。純粋に、美しいものを共有したいという菊の親切心だった。だがその菊の親切心がまさか自分の天使のごとき容貌にコンプレックスを持っているフランシスにとっては、大きなお世話なのだとは菊にはわからなかった。さながら寝起きのスッピンを見られたニューハーフの如く赤面するフランシスを明日の朝見ることが出来るなどと、菊は想像も出来ずにシャッターを押し続けた。
オチなんかないよ!!