神様神様







 熱。



**************




 重苦しい頭痛がこめかみを圧迫する。軋む体が無意識にびくりと揺れて、エドワードは目脂が張り付く瞼を気だるげに開いた。喉が渇いて、べとべととした唾液が口中で粘る。厚いカーテンの隙間から漏れる太陽の熱にうっすら汗をかいている。不快だけれど、それを拭うことすら面倒くさかった。
 朝はいつも、憂鬱だ。目覚めるたびに現実に叩きのめされる。
「・・・・・・クソオヤジ・・・・」
 横のベッドはもぬけの殻だ。いつあのろくでなしがベッドを抜け出たのか、エドワードの記憶にはない。また夢遊病のように夜中に飛び起きて、どこへ行くとも知れない夜行列車に乗って研究だ実験だと理性をなくして夢中になっているに違いない。これが、エドワードがこちらの世界に来てわずか一週間の間に三度起こったのだから驚くべくもなかった。典型的な学者バカ。エドワードにも覚えがあるその一途さは、けして不快なだけのそれではない。けれど、状況が違った。
「だっから、ほっとかれたらオレは死ぬんだぞって、何回あのスッカスカの頭にたたきこみゃいいんだ・・・・・!!」
 癇癪をおこして、手当たり次第にひっつかんだものを叩きつける。けれど、肩から先のない右腕は何の感覚ももたらさない。左足も、ない。置いて来たから。背をおこして、ベッドのスプリングに何度も体を叩きつける。黒く凝る、ただ凶暴な衝動をもてあまして、虫のようにのたうち回ることしかできない自分が何よりももどかしい。左手でたまらずに右腕のとうに乾いた傷口を掻いた。肉に思い切り爪をたてる。痛みすらこの怒りを惑わしはしなかった。
 どうしようもない。
 こんなにも片手片足のないことが、枷になったことなどかつてない。
『この世界』には機械鎧なんて技術はない。あるのは、飾りのような義肢だ。ものをつかめもしない。それですら、すぐには叶わない。
 口の中を噛むのはもう癖になってしまっていて、腫れあがったその部分をエドワードは再び噛んだ。口中に粘る唾液と血が混ざり不快感を増す。湿気を含んだ重いシーツに遠慮なくはき捨てて、ごろりとうつぶせた。
 指先で、錬成陣をシーツになぞる。こんなにも正確に書ける。目を閉じれば、体の芯に叩きこまれた複雑な構築式のいちいちが、計算式が気が狂いそうなほど正確に脳裏を巡る。あの世界は確かにあったのだと、確認する術は今ほかにない。この頭の中にしかない。ともすれば存在を疑ってしまいそうになる弱さはどうしたらいい。たとえば
  
 はじめからこの頭は狂っていて

 錬金術も弟も母親もあの血を吐くようなけれど生きてきた証が



 すべて 虚構だったら 狂気の産んだ





 妄想 だったら





「・・・・っ」
 抉るように口中の傷口を噛み締める。
 名を呼びそうになってしまう。あの名前を、呼んでしまいそうになる。
 弱く弱く、まるで神様に縋るようにあさましく、あの男の名を。
 助けてくれと口にしてしまいそうになる。かわりに、すげかえるように弟を思い浮かべるずるさくらいは許してくれないだろうか。本当に帰れるのかと、もうこんなに弱いオレをあの男は許すだろうか。
 忘れられては、いないだろうか。
「浮気とかありえるよな・・・・ははは」
 尊大で傲慢で強欲で嫉妬深くて愛を囁くその声音すら嘘っぱちなんじゃねえのかと疑うほど見栄っ張りでええかっこしいの30代にこんなにもハマってたなんて、いっそ笑える。会えば、なんてことないんだろう。別に再会の抱擁だとかそういうのも、別にないだろう。まるで昨日別れたように「よう」なんつって、アイツも「やあ鋼の、しばらく見ないうちにまた縮んだかね?」なんつって、悪態ついて、怒鳴って、でも笑って、・・・・・・わらって。あの男が笑って。オレに、笑って。顔がもう、あまり鮮明には思い出せない。あの声もどんなだったか今では曖昧になってしまった。こうして、あの男の輪郭がぼやけてしまって、手繰り寄せようにも術がない。あの男の生きている証を掴むことができない。頼りない、頭の中の幻のようなものを必死で繋ぎとめようと何度も反芻しては、どこから来るとも知れない苦痛が胃の腑を引き裂くほど強くがんじがらめに縛り付ける。呼吸ができないほどの痛みは体中を震わせる。
 手足のないこと。
 錬金術の使えないこと。
 ここに弟がいないこと。
 そして異世界にいるという実感。
 絶望的だと認めることがこわくて、もうずっと目をそらしてばかりいる。
 何度も何度も指先で錬成陣をなぞり、構築式が正しいことを確認して、けれどなにも起こらない恐怖は思ったよりもエドワードを痛めつけた。

 ここは、ちがう。
 アメストリスじゃないんだ。

「・・・・腹減った」
 名は呼ばない。何かが壊れてしまいそうになるから。代わりに、感じもしない空腹を口に出して確認する。パンすら傷に染みて飲み込めないだろうに、あえて確認するのはせめて死なないためだ。残念ながら世の中には人の親になってはいけない人間というのが存在するらしい。実の父親がたまたまそういう人間だったのはエドワードの不幸だが、今はありがたかった。食えもしない食事をいちいち用意させるのは心が痛む。そういう衣食住に頓着しない父親の生活感のなさというか、体の不自由な息子を置いて平気で長旅に出られる無神経さには(あくまで精神的には)結構助けられている気がする。自分でもわかっている、くだらないプライドはせめて傷つかずにすむ。あの男に労わられるなんてぞっとしない。
 せめて食おうと体を起こして、ベッドから転がり落ちる。バランスの取れない寝起きの体ではたとうとしてもどうせ転がるのだから一緒だった。這いずるように寝室を出て、泥と埃のあがる床の上を壁を頼りに進み、キッチンへ長い時間をかけてたどり着く。けれどそこには案の定としか言いようのない惨状だった。
 そういえばアイツが最後に作ったのはパンをミルクで煮た、よく言えば離乳食悪く言えば吐瀉物のような謎の料理だったっけと鍋の極彩色のカビを見て、げんなりとエドワードはため息をつく。当然のように出しっぱなしにされたミルクは瓶の中で固形化し、パンは干からびてはじめからそういう種類なのかと思いこんでしまいそうな有様だ。ネズミの糞にまみれて変形しているのはおそらくチーズだろう。腐臭を通りおこした匂いに辟易しながらエドワードは、床に転がった林檎から染み出た茶色い汁に触れないように慎重にキッチンを出て行く。ぴょんぴょんとはねる滑稽は、たまらないほど惨めだ。
「アイツ本当にオレを殺すつもりなんじゃねーだろうな・・・・」
 何かないかと首を回したエドワードは食卓に置かれたメモと、アイツ本当にバカなんだなと再認識させられるような札束に心の底から脱力する。「これで何か食べてください」とだけ走り書きされたメモは引き裂いて火をつけてやりたい。それすら面倒くさいのでやらないけれど、あのヒゲ面、一発なぐらねえときがすまねえなという気にはさせられて、札束を無造作に掴んでポケットにしまう。
 母さん。本当にあの男のどこが良くて結婚したのか、せめてきいておけばよかった。
 少なくとも人格的な部分じゃねーことだけは確かだな。再認識して、エドワードは玄関へと足を向けた。着替えようとは思わなかった。そもそも衣服に頓着する性格ではなかったし、この有様では着替えは苦労でしかないからだ。表へ出るのは、いつ以来なのか数えてもいない。
 傘を杖の代わりにして、なまった片足で飛び跳ねながら、外の日差しに目を細める。父親のかりているこの古いアパートの表は、喧騒にみちていて、東部の市場を思い出させた。多分林檎売りなんだろう。甲高い老婆の叫びは、流石にまだ聞き取りにくかった。こちらの世界の言葉には大分慣れたつもりだが、それでも喋るとなるとまだ難しい。聞き取ることが精一杯で、スラングともなるとまるでわからなかった。
 なんでもいいだろ、と商売っ気のなさそうなくたびれたおっさんが、ぼんやりと煙草をふかしているパン屋に近づく。男はエドワードに気がついているだろうに目もあげずに、煙草をくわえるばかりだ。
「パン一つ。そこの端っこの」
 男はちらりとエドワードをみて、それから再び視線をどこかへ向ける。
「おい。きいてんのかよ」
「・・・・・・おめえ、この国の人間じゃねえだろ。発音がまるでちがわあ」
 男は、たるんだ頬を歪めて冷笑してみせる。チリ、と胸の奥で障る棘に知らぬふりをしようと、エドワードはもう一度繰り返した。
「パン一つ」
「よそもんが大金もって、パン一つかよ。いい身分だな。その手足どーした坊主。事故かなんかか?」
「・・・・・パン一つっつってんだろ」
 おっさんの視線がいやらしく、ポケットに突っ込まれた札をじろじろ見回す。男の事情など知りたくもなかった。よそ者への嫌悪感を露に、嬲るためだけに口を開く醜悪に、どんな理由があろうが知ったことではない。口の中でクソッたれと呟いて、男に背中を向ける。そのとき、足元の石に気がつかなかったのだ。とびはねようとした足元がもつれて、受身も取れずに往来に転がる。したたかに顎を打ちつけ、舌をかんだらしい。口の中になれた血の味が広がり、傘が手元から転がっていった。忙しなく行きかう人々は、足元に転がってきた傘を迷惑そうに避け、エドワードに目を向けては同情の視線と好奇のそれとでかわるがわる嬲っていく。背後で男は爆笑していた。
「・・・・・・っ、・・・・」
 何かを大声で怒鳴ろうとして、言葉もないことに、エドワードは気がつく。
「・・・・っっくしょ・・・・・・」


 頭がおかしくなるそれとももうとっくにおかしいのかオレは狂ったのか狂いそうだ狂う狂う狂う、



「・・・・どうした」
 目の前に磨かれた靴先があった。男が立ち止まり、跪く。問う低い男の声音は、喧騒のなかで妙に通った。
 どうした、だと。
 答えようもないその問いに、エドワードは視線を上げられずに口中の唾を吐いた。
「こんな体で。一人なのか。親は?」
 体を起こそうとするエドワードのわき腹を抱いて、男は問いを繰り返した。関係ねえ、と告げようと頭の中で単語を探し、エドワードは顔を上げた。

 そして息が止まった。



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いさ」
「何?」
「たいさ?」
「なんだと?」
 
 何故だろう。一番初めに確認したのは彼の髪の色だった。漆黒の、男のそれにしては少し柔らかい髪、怖い、その黒。双眸も同じ。心臓が痛い。先ほどまでの痛みとは真逆の高揚で、眩暈すら覚える。足元がゆれておぼつかなかった。世界が反転してしまったような。
「大丈夫か。私の肩につかまるといい」
 ロイ・マスタングの顔をした男は、肩を気安く貸した。全く同じ顔で、あの男とは似ても似つかないような柔らかい笑みで、エドワードを覗き込んだ。手でエドワードの膝を払い、頬を拭った。
「顔色が悪いな・・・・何か持病があるのか。ああ、言葉がわからないか?」
「・・・・・・てめえ」
 低いエドワードの怒声に目を見張り、男は立ち止まる。
「君は」
「君はじゃねえだろが・・・・!なんで・・・、なんでそんなしらねえ顔して、かわいそうなもん見るような目で、同情なんかして、アンタが!!」
 すぐにわかった。これは違う。
 同じ顔をしていても、同じ声をしてても、これはまるで違う。
 こんな柔和な、誰にでもわかる優しさや同情を晒す、そんな男じゃあない。
 男の白いシャツを、指先の色がなくなるほど握り締める。ドン、と殴るように拳をぶつけて、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「なんで・・・っ」
「・・・・かわいそうに」
 男は眉をひそめる。気の触れたかわいそうな片手片足のない子供を、ただ労わるためだけに頬をなでて、あたりを見回す。親を探して、エドワードを庇護されるだけの無力な子供と決め付けて、エドワードを見ずにあたりを見回す。
 ロイ・マスタングと同じ顔をして。
 神様。
 どうしてこんな
 残酷な真似を。
「なんで・・・・・こんな。ひでえだろ」
「家はどこだい?おうちは?」
 幼子をあやすような、そんな声音をそれ以上聞いていられずに、エドワードは男から離れようと思い切り腕を伸ばした。バランスを崩し、男が慌ててエドワードを抱き寄せようとするのをすら拒んで、そのまま地面に這い蹲る。
 男がまるであの男と同じだったら、気丈なままでいることができただろう。いや出会いすらしなかったのかも知れない。こんなみっともない自分にただ無償で同情するような、そんな愚かな男ではないから。ロイ・マスタングなら、この無様な自分を襟首を引きずりみっともないと笑うだろう。殴りつけるかもしれない。優しさを間違わない男だった。かわいそうにかわいそうにお前はただ守られていればいいなんて、絶対に言いはしない。ロイ・マスタングなら。
 オレは甘えているだろうか。やはり、どこにいても、なにをしていても、あの男に甘えているんだろうか。
 まるで違う、こんなばかばかしい優しさに飢えていると感じるほど。
「血が・・・・」
「オレに触るな。頼むから、本当に。大丈夫。頼むよ」
 泥を噛んで、額を擦り付けて、エドワードはみっともなく哀願した。みっともなくてもいい。
 怖い。
 怖いんだ。
 だからどうかどこかへいってしまってくれ。
 オレの手の届かないところへ。
 もう二度と出会うことがないように。
 ロイ・マスタングの顔をして、オレに優しくしないでくれ。
 あの世界へ帰ろうとする意思をゆらがさないでくれ。
 オレの孤独に、どうか気安く触れないでくれ。
 優しいだけの、なんの苦痛も苦難もなく、幸せに暮らせるようなそんな、夢みたいなものをオレに見せないでくれ。
「・・・・・本当に大丈夫なのか?」
「親が、父親がいるから。迎えに、くるから。ごめん。どっかいってくんねえ?」
 耳鳴りがするほど瞳を閉じて歯を食いしばって、ただ待った。男が立ち去るのを。男の幾ばくかの逡巡はまるで永遠のようだった。ただ地面に伏してエドワードは待った。靴音が遠ざかるのに、追いすがろうとする指先を地面に立てた。爪が剥げた激痛に集中して、ただ待った。もう会うこともないだろう。
「・・・・・・・・・・・・エドワード?」
 迷いのある、茫洋とした父親の声が頭上に降ってきても、エドワードは顔を上げる気がしなかった。どれほどの時間そうしていたのかもわからない。
「・・・・・・・なんだよ」
「ああ、びっくりした。寝てるのかと、」
「んなわけねーだろが・・・!」
 的外れな父親の返答にまともに憤り、エドワードは体を仰向ける。
「すごいな、酷い顔だ」
「腹が減って、買い物の途中だ。邪魔すんじゃねーや」
「まあとりあえず立たないか。どうも話にくい」
 なにを思うのか、全く理解できない無表情のまま父親がエドワードの腕に手をかける。引き起こされて、不本意にも縋りつくように父の袖を掴んでエドワードは立ち上がる。
「もしかして泣いていたのか」
「・・・てんめえ、オレが本当に泣いてたらどーしてくれんだこの無神経・・・・・!」
「そうか。や、実は、」
「だいたいてめえはどこをふらふらふらふらしてやがったんだ!おかげでヒデー目にあっただろうが、頭か?頭が機械鎧かなんかでできてんのか?!神経接続してんのかコノヤロー!!」
「お前の義手と義足を、ああ、このあたりでつけれるようなおもちゃみたいなものじゃなくて、といってもそんなに大差はないんだが。機械鎧に慣れているお前には、不自由を感じられるだろうが我慢してくれ。いいものをと思って、探しに行っていた。明日にでもつけてもらいにいこうな」
 やはり無表情のまま、ホーエンハイムは訥々とそんなことを言った。
「・・・・・・・・義手?」
「ああ。ないと不便だろう?」
「・・・・・・つーか、そういうことよりもっと根本的に」
「・・・・・・・・・正直、私は自分でも父親失格なんだと思っているよ。お前の父親なんだとは、自分でも言いづらい。どうしたらいいのか、わからなくて」
「・・・・それで放置かよ」
「お前が触られることを嫌がっているようだったから。プライドが傷つくかと。・・・・・優しくしたいとは思うが、方法が残念ながらわからない。せめてお前の望むようにと」
「・・・・だから、それで放置か」
 言ってもいいのかどうかを、珍しく伺う視線でエドワードを眺め、父親は素直に頷く。
「まあな」
「時と場合によるだろが・・・・!てめえに今放置されたらオレは死ぬんだっつうの!クソったれ・・っ」
「・・・・・・・何かあったのか?」
「・・・・・・・おい」
「なんだ?」
「オレはぜってー帰ってやるからな、もといたとこ。今日決めた。ぜってえ決めた。なにがなんでも決めた。ぜってー帰る・・・・!」
 きょとんとして、それからホーエンハイムが笑った。
「らしくなったじゃないか?」






 神様。
 よくわかった。
 これ以上、底はないってことが。