ああ、またあの夢だ。
 すぐに気が付いた。見慣れた悪夢はいつも同じ場面から始まる。
 引き千切られた腕が顔の横を、血を飛び散らせながら回転して後方へ飛んでいく。すぐにアンカーを上方へ打ち込み跳躍する。巨人の体液に濡れて刃こぼれした刃を空中で捨て、すぐに新しい刃を両手に掴んだ。じゅるじゅると手足をもぎとった兵士の臓物を啜っていたけだものの額に打ち込んだアンカーを強く引き、駆けあがる。巨人の頭上はるか上空をめがけ体を躍らせて、そのまま回転しながら首筋を削ぎ落す。手ごたえは確実で、すぐに吹き上がる巨人の死の証である蒸気を浴びて、飢えを少しだけ満たす。
 地獄だというなら、あの日はまさに地獄だっただろう。
 血。血。血。悲鳴。絶叫。恐怖。血。それからまた血。
 辺りには散乱する肉片が散らばって、森を彩っていた。狂った新兵が立てるヒステリックなぞっとするほどけたたましい笑い声。ある女の兵士は下肢を小便で濡らしながら子供のようにお母さんと泣きわめいた。その声がじきに啜り泣きへ変わり、そのうち止んだ。あの狂乱の戦場で、なぜか妙にそれが耳にへばりついた。
 ぶつりと歯を立てられ腹を食まれた兵士の口や目から零れたドロドロした血と足の間から漏れた汚物を、嬉しそうに両手ですくう8メートル級の巨人の口元にあやかろうと3、2メートル級が何匹も群がっていた。10メートル級は自らよりも小さな同族を蛇行しながら踏み潰し、我先にと逃げ惑う餌に飛びついた。10数体の巨人は餓えた豚のように兵団の馬群に集り食い散らかそうとはしゃいでいる。壁外調査で、これだけの数の巨人の群れに行き会うことなどまずない。ないはずだった。陣形さえ保つことが出来ていれば、たとえ行き会ったとしても多くの犠牲を払うことなく帰還できたはずだった。
 貴族の息子が、次の調査に同行すると初めて聞いた時は悪い冗談だと思った。けれどもっとも安全な行路をエルヴィンが計画し、巨大な荷物を積んだ馬車と肥えた腹を揺らしながら白いレースの袖から突き出た太い指がリヴァイの肩を掴んで、よろしくと厭らしい笑みをその息子が浮かべるにいたり、ようやくこれは悪夢ではないのだと調査兵団の兵士たちは悟った。
 巨人を見たいのだという。恐ろしい巨人を安全なところから眺めたいのだと。面白おかしいキツネ狩りの延長のようにでも考えているのだろう。遠目にでもいいから巨人を見せてほしいと懇願され、その男の父親の持つ権力が兵団へ多大な影響力を持つがゆえに、その死の往路を可能にした。いかに巨人と接触せずに進行するかを追及した陣形だ、望むような刺激が得られるとは思えないとエルヴィンは幾度かバカ息子の父親へ直接進言したが、聞き入れられはしなかった。父親ですら手におえない息子が、万が一その物見遊山の旅で命を落とせば僥倖とでも思っているかのように、愛想笑いと面倒くさいとでも言いたげな口調に追い返されたのだと、エルヴィンが言った。命を賭した壁外調査も貴族にとってはただの娯楽かと珍しく自嘲したエルヴィンに掛ける言葉はなかった。
 安全な行路、かつてないほど短い期間の調査になるはずだった。一人もかけることなく、無事に戻るはずで、バカな貴族に壁外でちょっとしたスリルを味あわせて喜ばせるだけの、簡単な一日になるはずだった。
 けれど平和という言葉の本当の意味を考えたことさえないバカは、確かに想像を超えたバカだったのだ。
 巨人を見たいのだと、ニタニタと笑い脂ぎった顔でそのバカは口から泡を飛ばして言った。間近で、巨人を見たい。一体では物足りない。たくさんたくさんの巨人を見たい。そして立体機動でうなじを削ぐところを見たい。恐怖におびえた表情を見たい。血を見たい。殺される兵士の悲鳴を最高のシチュエーションで見てみたい。みたい。みたい。みたい。涎が出るほど。これ以上すばらしいショーがあるだろうか。





「だから餌をまいたんだ、兵士長どの」


 そういって鼻の下の汗をぬぐい、男は数人の召使にかしずかれながら腹を揺らして笑った。巨大な馬車の荷台に積まれていた荷物をなんだと思う?と男はエルヴィンの顔を覗き込み、まるでお前がほしがっていたプレゼントを僕は持っているんだよとでも言いたげだった。

「壁の中には、必要のない子供がたくさんいるね?親を亡くした子供、貧しい家の子供、酒瓶一本程度の金額と引き換えに、スラムに行けば、それこそ山ほど」

 巨人と相対してさえ覚えたことのない恐怖が、刃に似て背中を滑った。

「森の中に、一個ずつ、そういう童話があったね。ああ、あれはパンくずだったか。馬鹿な子供が帰り道を忘れないようにとパンくずを一つ一つ森へ向かいながら、落としていく。でも残念だよねえ。パンくずは小鳥がつついて食べてしまうんだ。うふふ。ぼくはねえ、エルヴィン団長」

 うふふ、と薄暗がりの馬車の中で馬鹿が笑った。その意味を知っているのか、知らずにか、召使どもも媚びて合わせた小さな笑い声を立てた。



「ことりを集めているんだ」

 エルヴィンは立ち上がり、止めようと立ちふさがる召使どもを彼らしくもなく荒い手つきで無言のまま押しのけて、男の後ろに山と積まれていた荷の一つを紐解いた。は、は、と浅く呼吸をする恐怖におびえきった長い睫毛の青い双眸と目があったのだとエルヴィンはのちに教えた。
「一個ずつ、一個ずつ、落としてきたよ」と男は笑った。「一個」ずつ袋詰めにしたまま薬をもって大人しくさせていたから、落としたときに死んだのもいたかもしれないねと、グラスを割った子供のような可愛らしい反省を聞かせた。中央後方のもっとも安全な位置に馬車を置いたのが、失敗だったのだ。一抱えほどもある荷物が馬車から転がり落ちていることに気が付いた兵士はほとんどいなかったし、いたとしても誰が想像できただろう。中身は子供で、巨人をおびき寄せるための餌だなどと、正気の沙汰ではなかった。
 真後ろにいた兵士が殺気に満ちて刃を抜く音が聞こえた。それをエルヴィンが手で制した。「貴族の息子だからとそんな親切は不要だ、巨人がどういうものか知りたいとおっしゃっているんだぞ?」。あの豚の最後を見届けることが出来なかったことだけが心残りだ。さすがに馬鹿もエルヴィンの言葉の意味を理解して、青ざめ、なんだかんだと糞のような言葉を喚いていたがそのすがりついてくる肥えた体を突き飛ばし、残った子供たちを抱えてエルヴィンが退却を命じた。あの男があの後どうなったのかは知らないが、楽な死に方をしなかったことだけは確かだ。
 遠くで子供の泣き声が聞こえた。絶叫だったか?どちらかはわからない。安全だったはずの壁外調査はすぐに地獄へ変わった。あの男は本当に想像を超えた馬鹿だった。なぜ自分だけが安全圏だと信じることが出来たのだろう。壁の外では貴族だろうが兵士だろうが、・・・・・子供だろうが。等しく平等だというのに。あの男は、兵士どもは命を賭して自分を守ると信じて疑っていなかった。
 薬から目覚め、袋から這い出た子供たちは悲鳴を上げて森中を駆け回ったのだ。甲高い子供の悲鳴は、あの巨人どもには蜜のように甘く香ったのだろう。柔らかく小さく、抵抗もできない子供は奴らにとってはまるでデザートだ。立体機動を生かせるからと最短距離である森を抜けることを選んだのはエルヴィンで、それは正しい判断だったが多数の巨人に囲まれればこれ以上逃げ場のない見通しの悪い場所もなかった。
 お前は退路を切り開けとエルヴィンが命じ、分かったと答えた。彼の命令はまさに、命令通り『切り開け』だ。1匹。2匹。3、4、数えていたはずの数をそのうち忘れた。恐ろしいほど感覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。
 高揚していた。
 巨人どもは愚かだ。俺にとってはお前たちこそ餌だというのに。
 無防備にむさぼり食う首筋は、まるでさあ削ぎ落してくださいと言わんばかりに晒されたデカい的だ。削ぐ。削ぐ。削ぐ。殺す。殺す。殺す。殺す。殺意だけが膨らんで、そのうち制御できなくなった。目を閉じていても戦える。背後に一匹。右手から5メートル級、しゃがみ込んでいる3メートル級。うなじと言わず、3メートル級の首ごと叩き落として、落ちる首を蹴ってアンカーを放つ。木に打ち込んだアンカーのその反動を利用して、5メートル級の背に飛び乗り、すぐに刃を突き立てる。巨人の体液にまみれながら、その時は悦びが腹の中で疼いてやまなかった。
 背後にもう一匹。手に取るようにわかった。今背中に指を伸ばしてきている。頭の中ではすでにその巨人は死んでいた。振り返りざまに指先を跳ね飛ばして、アンカーを打つ。立体機動で巨人の頭に移動してからバターを切るようにうなじを削ぐ。その光景を疑いもしなかったし、おそらくそうなるはずだった。計算外だったのは勇敢な兵士が、背後に迫る巨人から兵士長を守らなければと身を挺して飛び込んできたことだ。
「リヴァイ兵長・・・っ」
 もうやめてくれ。続きは知っている。
 よく、知っている。
 悪夢は色あせることなく、何度も何度も夜ごと目を瞑るたびに繰り返される。
 もういい。目を覚ましてしまいたいのに、時間は止まらず、兵士は何度でも巨人の手のひらの中で握り潰される。
 いつの間にか他人の視点でそれを見ていた。血に濡れて昂り、振り向こうとする自分の背後から伸びる巨大な手、その間に割って入る兵士。兵士はリヴァイ兵長と叫び、振り返った俺はその兵士と目が合う。
 絶命する僅か数瞬。
 その兵士の瞳に浮かんだのは恍惚と後悔と、苦痛と、それから。

 絶望。

 あれ、こんなはずじゃあなかったとでもいうように、そのまだ若い兵士は酷く驚いているように見えた。こんなに酷い目に合うのなら、こんなに死ぬのが痛いものならあなたを庇ったりするんじゃなかったと嫌悪すら浮かべて、それからすぐに悟ったのだろう。俺は死ぬ。妻のもとには帰れず、この暗い森で握り潰されて死ぬ。そしてすぐに瞳は光を失い死んでいく。

 命が消えていくのを見た。その死の瞬間に、後悔するのを見た。深い絶望を見た。
(思い知らされた気がした)
 死にたくないとどれだけの強さでその兵士が願ったのか、頬を張られたように。
 今まで目をそむけて気づかないふりをしてきたものに、無理やり顎を掴まれて押し付けられた。多くの、多くの兵士が死んだ。そのすべての兵士は誰かを愛し、愛されていた。死を悟ったとき、彼らは絶望しただろう。
(愛するものをおいて、愛するものにおいていかれて)
 その絶望の深さにぞっとした。
 兵士の顔は、いつしか他の人間にすり替わる。それはエルヴィンや、ハンジや、オルオ、ペトラやグンタ、エルド達班員であったり、見覚えのある名前も知らない兵士たちのそれだった。
「死にたくなかった」
「生きて、帰りたかった」
「妻が」
「父が」
「母が」
「夫が」
「子供が」
「友人が」
「私の帰りを待っているのに」
 悪夢に反響する死人の声が耳の奥で唸り声をあげる。ごぼごぼと血を吐きながら、怨嗟に満ちて絶叫する。
「どうして夫を助けてくれなかったんですか」
 女は幼子を抱いて、雨に濡れながら叫んだ。どうして言えただろう。お前の夫は、庇う必要さえなかった俺を庇って死んだのだ、ただ無駄死にをさせたと。そしてそのことを後悔しながら死んだのだと、あまりにむごい事実を教えてやることもできずに女の腕の中で怯えて震える赤子を、その空を掻く小さな手のひらを呆然と見つめた。
「どうしてあの人が死ななくちゃならなかったの」
 どうして?
 俺のために。

(俺のために、あの日あの兵士は死んだ)

 この、何にもない俺のために。
 ただ巨人を殺す、その才が秀でているというだけの俺のために?
 人類の自由を取り戻すためでも、兵士としての誇りのためでも、逃げ惑う子供たちのためでもなく、俺のためにあの兵士が死んだ。そのことを絶対に忘れないし、忘れられはしない。

 いつの間にか手の内に今朝死んだ兵士の首をだいていた。その首はいつかの貴族の息子のそれに代わる。ブヨブヨとした肉の塊。
「おまえがしねばよかったのに」
 そう言ってけたたましく笑う首を見下ろす。
 わかってる。そんなことはよくわかっている。俺は戦うだけの道具でいい。だからずっと遠ざけてきた。俺は一緒に笑いあったりしない。誰かを愛したりしない。だからどうか誰も俺を大事にしたりしませんように。誰も俺を庇ったり、助けようと手を差し伸べたり、そんな風にやさしく触れませんように。壊れたらすぐ捨てられるように、どうか誰も俺をあいしたり、しませんように。俺のせいで、誰かが、泣いたりしませんように。
 だってあんな深い絶望に俺はとても耐えられない。蹲って立ち上がれなくなる。俺には戦うことしかできないのに。
 


「俺に触るな」
 やさしい腕が包もうとして背中に回されている。縋りそうになるのを、耐えて抵抗するけれど、その腕はそれを許さなかった。
「大丈夫」
「・・・いやだ」
「大丈夫ですから」
「・・・・・・いやだ」
 何も怖くなどなかった。戦うことも、巨人も、夜の暗闇も、たった一人で立ち続けることも何も。なのに、いつからか何かが決定的に変わってしまった。いつから?
「兵長、大丈夫ですから」
 大丈夫だとただ背中をさする手の温かさがこわい。




 あたたかいもの、ひかり、わらいごえ、やさしいもの、やわらかいもの、愛情と、ひとがよぶもの。


 愛することも愛されることも、俺にとってはまるで巨大な森だ。
 暗く深く、引きずり込まれればもうもとには戻れない。
 







 続