「手洗いてえな」
 沈黙の隙間にぽつりと落ちた言葉を無視できずに、エレンはため息をついた。この人ほんとに手洗いたくてこんなとこまで逃げてきたんじゃないだろうかと真剣に疑わずにはいられない。
「こんな時によくそんなに神経質でいられますね」
「お前あれだろう、食べ物が床に落ちても平気で食うだろ」
「・・・人を犬かなんかみたいに。そりゃあ食うでしょう、この食糧難の時代にもったいない」
「そういう話じゃねえ、落ちた食い物を口に入れる前に逡巡するかどうか、心構えの話をしてんだ。食べ物と間違えて落ちてるゴミ食いそうだしなお前」
「確かに食ったことありますけど、兵長だってあるでしょう、そのくらい」
「ねえよ」
 即答されれば、そういうものかとも思うが、いややはりこの人が神経質すぎるのだとエレンは思う。カサカサに乾いたどす黒い血の跡は見ていて気持ちのいいものでもないが、今は素直に同意する気になれなかった。誰のせいでこんなことになってるんだと、口には出さないが恨みがましい気持ちが確かにある。
 今朝目覚めたときは確かに最高の気分だったはずなのに、あまりにも目まぐるしいひと時はいろんな気力を奪うのに十分すぎるほどだ。現状の悲惨さに呆然と、という表現が正しいほど無駄な小一時間を過ごした二人の間に落ちる沈黙はどこまでも果てしなく重い。薄暗い森がさらに雰囲気を盛り上げてしまい、無駄口をきく気にもなれなければ、聞く元気もなくなる。そもそも饒舌な性分ではないというのに、その上を行くリヴァイと二人きりで会話が弾むわけがなかった。
 沈黙を理由に、巨木の幹に背を預けたリヴァイを改めて見つめる。こんなことでもなければこの人と二人きりになんてなる機会はそうそうないなとぼんやりと思う。そうそうあっては困るが、幼いころ憧れていた相手とこんな時間を過ごすなんて想像もしなかった。眩しいばかりだった馬上の彼の背中は遠かったのに。そのリヴァイにこびり付く血の跡と、黒く乾いた上着の染みが鳩尾に重く伸し掛かる。リヴァイとはおそらく違う理由でエレンとて、それを洗い流してしまいたい。その血の染みが彼の両手から消えてしまえば、少なくともあの首の虚ろな目玉を思い出さずに済むような気がした。人の血は、彼には似合わない。
「おいエレン。水場を探してこい。そうすりゃ少なくとも餓死なんてみっともねえ死に方はしないで済むだろう」
 沈黙に耐えかねるような繊細な神経があるようには見えないリヴァイが口をきいたことに、覚えた安堵を隠して、溜息とともに返事を押し出す。
「ああ・・・・そうですね。・・・・こうやってぼーっとしてても仕方がないし」
「川があるはずだ。旧本部の横にもあっただろう、この森に血管みてえに流れてる」
「・・・わかりました。じゃあ」
 大人しく待っててくださいねとどこか自分が主導権を握っているようなものの言い方を仕掛けて、ふと気が付く。今のはわざと渡された主導権なのではなかったか。
「・・・・・とかなんとかオレを丸めこんどいてまさかまだ往生際悪く逃げようとしてませんか」
 あれだけ全力で逃げられれば疑い深くなるのも仕方がない。リヴァイはそのじとりとした疑いの眼差しに舌打ちで答えた。
「・・・馬鹿か。どこに逃げるんだ。そもそも俺はてめえのせいでこの足だ」
 逃げようがねえだろうというリヴァイの言葉に素直には頷けない。
「いやでもなんか兵長なら」
 不可能がなさそうな万能感をリヴァイから感じるのは決して気のせいではないような気がする。
「両手だけでザカザカ、オレの全速力より早く移動できそうで」
「・・・なんっつう愉快な想像してくれてんだてめえ」
「なんかオレほんとにそんな気がしてきました、オレを置いてけぼりにしようとしてますよね?」
「・・・めんどくせえこの駄犬」
「気になってたんですけど駄犬ってなんですか」
 そういえば樹上から叩き落とされる際にも同じ呼ばれ方をしたなと胡乱な視線で上官を睨む。
「てめえが駄犬でなくてなんだ。忠犬でも名犬でもねえ、人をキャンキャンキャンキャン追い回しやがって。てめえの追い回し方には敬意ってもんが感じられねえんだ。転がる鞠に興奮する野良犬みてえだから駄犬だっつってんだろ」
「・・・・・転がる、鞠」
 悪気はないが、どこか長閑なその光景を想像してしまい思わず毒気を抜かれる。駄々をこねる子供を相手にするような溜息をつき、痛む腕を押さえながら気だるく立ち上がる。
「・・・わかりました探してきます。見つかれば迎えに来ますから」
「当たり前だ。この上迷子の迷子じゃシャレにならねえだろ」
「絶対に、動かないで下さいよ」
 返事をする気はないのか、そのエレンの言葉を聞きもせずリヴァイがふいと視線を逸らした。この人本当に大人なのかと疑いたくなるのも無理はない。一回り以上年上の男を捕まえてひどい言い草だが、幼さに似たものを感じる瞬間はこれまでにもあった。大人げない言い回しや、粗暴な口調もそうだ。そのせいだろうか、今両足を投げ出し、こちらを見ずにいるリヴァイを見下ろしていると、幼子を見失い迷子にしてしまったのに似た、足元から這い上がる怯えのような感覚に胸が騒いだ。
 ふらりとその背中を翻して、今にもどこかへ行ってしまいそうな不安。
 幼いころよく迷子になったっけとふと思い出がよぎる。後ろを追う母のことなど、かけらほども気に掛けず足の向くままに、先を行った。母のその心中を思い出して胸が痛む。母もこんな気持ちだったのだろうか。どこへ行くのかと必死にその姿を目で追って、傍らにいながらも今にも見失いそうだと不安だっただろうか。
 茫洋と大樹を見上げるリヴァイのその視線は、ここにいるのに何かほかのものを見ていた。それは確信に近い。
 立ち上がったもののそのまま、リヴァイ一人を置いて水を探しに行く気にはどうしてもなれなかった。爪先が迷い、湿った腐葉土を踏み、それがそのまま沈黙にとってかわった。気が付いたリヴァイが、緩慢に首を回しエレンを見返した。
「・・・・・何を見てる」
 問われても答えようがない。干からびた喉に粘つく唾液が不快だった。誤魔化すように咳払いをしたけれど、平素のようには行かず、かすれた声が喉から押し出された。
「・・・一緒に行きましょう」
「あ?」
「水場、あっても汲むものもないし、うろうろしたところでここへ戻ってこれるともわからないですし」
 言いながら整理できない頭でたどたどしい言い訳を伝える。
「てめえ俺にこの足で歩き回れっつうのか」
「・・・・肩かしますから。ほんと、ここで二人離れ離れになってもメリットがない」
 乞うような声音になっていることを知っていた。お願いですからと言外に伝えてしまったことをリヴァイの表情から悟る。
「・・・なにを湿気た顔してんだ、てめえは」
「・・・・・なんか、また置いてかれそうだなって思って」
 声を荒げないリヴァイに、思わず素直に伝えてしまう。言い訳をすることはたやすかったが、それを信じてもらうことは難しいと思った。何より思ったことが顔にすぐ出る自身を、エレンだとて知らないわけではない。
「一緒に行ってくれませんか。オレたちは共倒れなんでしょう?」
 そう先刻表現したリヴァイの言葉を真似る言い方の狡さに気が付いていた。笑ってそう言えればよかったのにと思う声は、自分でも引くほど真摯だ。縋るようなその言い方を、リヴァイがどう思うのかそんなことを考える余裕もない。ガキがうるせえ早く行けとはねつけられれば、羞恥に押されて従っただろう。けれど意外にもリヴァイから想像したような悪態はかえらなかった。そうかと何を考えているのかわからない顔をして、しばらくして差し出されたリヴァイの掌の意味が分からず、へ、と思わず間抜けな反応をエレンはした。
「肩かすんだろうが」
「あ、えっと、はい。そうです」
「なら早くしろ」
「・・・ですね」
 めんどくせえなクソと悪態をつくリヴァイの右腕を引く。
「背負ったり、」
 しましょうかと最後まで言わせてはもらえない。殺すぞと即座に傍らから警告なのか脅しなのかわからない言い草で拒まれ、それ以上の提案はやめた。小柄な体を左腕で支えて引き起こすと、そんなことをすればひどい目にあわされるのは目に見えているので間違っても反応はできないが、抱き寄せた体の細さに危うく声をあげそうになる。
「・・・・なんか」
「ああ?」
「なんでもないです」
「なんだそりゃ」
 小柄なことは知っていた。女のような身長と肢体は、だからこそ立体機動装置を操るのに適していたのだろうし、だからと言って鍛えられ綺麗に筋肉のついた細身の体を小さいとか弱いだとか、そんな風に感じたことは一度たりとてない。けれど実際にその背中を支えて気が付いた。
 人類最強の兵士だ希望だと称えられてきたこの人は、それでもやはりただの一人の男なのだと、抱き寄せて初めてエレンは思い知った。
(この体に人類の未来とか希望とかそういうものが伸し掛かってる、のは)

 それは重くはないだろうか。

 ある日投げ出したくなりは、しないだろうか。
 リヴァイが逃げ出した理由の一端にふと思い当たり、眩暈がした。否定するほどエレンはリヴァイを知らない。
 この人が逃げ出したのは重荷だったからなのか?
 ああそういうことかと腑に落ちた自分がいる一方で、胃の腑がずしりと失望に締め付けられている。重荷をただ、投げ出そうとしただけなのか。人殺しと疑われてまで、人類の希望を続ける筋合いはないと見限ったから彼は逃げ出したのか。
 あの気高い翼を背負った背中は幼いころ尊く、目が眩むほど遠かった。
 それが今腕の中でやけに小さく感じられる。指先が妙に冷えていた。ともすれば力が抜けそうになるのを耐えて、エレンはリヴァイを支える腕に力を込めた。
 責める理由はない。背負った願いのその重さは、余人には計り知れないだろう。投げ出したくなったとして、仕方がないのかもしれない。それでも焦がれ続けた英雄が背中を向けることを、かなしく思うことを許してほしい。その選択を理解できることと納得できることは別の話だ。
 もしそうだとするなら、追うべきではなかったのだ。闇雲に理由を求めて、リヴァイを追い詰めて怪我までさせて、地上に引きずり落としたりなどせず、彼が行くというのならその背を見送ればよかった。重荷から解放されて、壁外でその命が尽きるまでリヴァイが巨人を駆逐する姿を想像するのはたやすかった。彼はおそらく壁外で途方もない数の巨人を屠った後、食われながらも戦い、刃を手放しはしないまま死ぬだろう。それを人が幸福と呼ぶものと同じものなのかどうかまではわからない。それでもそれが望みだというなら、それは誰にも理解される必要などない、彼の幸福だ。
 それに比べて現状は、おそらくリヴァイの望みとは程遠い。立体機動装置も壊れ、二人とも負傷しており、兵団から派兵された憲兵が発見してくれるまで手立てがない。発見されれば、確かに共々審議所送りになることは明白だった。その結果がどう転がるのか見当はつかないが、リヴァイの言うとおり有罪で2.30年を牢で過ごすのかもしれない。。それは希望的観測で、さらに最悪を想像するなら、森から出られず誰にも見つけてもらえずに二人で衰弱してやがて死を迎えないとも限らない。
(最後にと兵長が望んだ自由を、オレが台無しにした・・・・?)
 これでは駄犬と呼ばれてもしょうがない。転がる鞠を追うのに似て、無邪気に一途に、何も考えずに追いかけて噛みついた。
 リヴァイを信じればよかったのか?彼の行動には必ず理由が伴うはずだと忠犬のごとくその背をおとなしく見送っていればよかったのだろうか。そうすればリヴァイは自由で、森を抜けて壁外へ行き、すべてのしがらみから解放されて、思うまま巨人どもの首を落として、短い生を生きたのだろうか。
(・・・それでも)
 それでも、とエレンは思う。
 それでもなんどでも兵長を追うだろう。何度でも追いかけて理由を聞くのかもしれない。その口から直接理由を聞くまでは、転がる鞠を追うのに似てリヴァイを追いかける。そんな風に愚かで一途であることしか、多分自分には出来ない。
 かなしいけれど、同時にそれが自分だとあきらめにも似た気持ちが、染みのように鳩尾に重く落ちた。
「なんか、今オレ泣きたいかもしれないです」
 はは、と苦く笑ったエレンに、ただ、きもちわりいと腕の中でリヴァイが呟いた。
 











続く