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「起きろ糞ガキ」
ガツンと顔面を殴られて急速に意識が浮上する。
目を開けたエレンが最初に認識したのは尖った緑葉の先端だ。それから体の上で馬乗りになっているリヴァイの握りしめられた拳。もつれ合って、リヴァイを抱え込みながら地上に落ちたらしい。酷い鈍痛が体の半身にじわりと沁みる。状況を咄嗟には判断できず、とりあえず体を起こそうと右手を地面に着いた。途端に痺れるような激痛が走り、声もなくエレンはもう一度呻いて寝転がった。
「目ぇ覚めたか」
至極冷静な声が聞こえる。酷い目醒めだ。体中が軋むように痛むのに、どこが痛いのかも分からない。誰かが頭を掴んで振り回しているようで、目を開けてはいられなかった。腹の上のリヴァイの表情を確かめるのが恐ろしかったせいでもある。どこかで鳥が鳴いている。どのくらい時間がたったのだろう。深い森の、妙な静けさと湿気。
荒い吐息を整えて、ようやくエレンは目をまともに開けた。見下ろすリヴァイは驚くほど真顔だ。
「顔が、怖いです兵長」
「そりゃそうだろう、15年か、短い人生だったな」
すでに過去形で語るリヴァイは真顔だ。あれっこれ殺されるのかもしかしてと血の気が引く。
「兵長、そこどいてもらえますか」
「あ?」
「・・・・・いや、なんでもないです。ところであの、」
「なんだ」
「・・・右腕が曲がらないんですけど」
だからどうしたという顔でリヴァイは真顔を崩さない。少しは驚くべきだとエレンは思う。身を起こすことを諦めて、腹の上にリヴァイを載せたまま体の力を抜いた。
もう一度右腕を動かそうと試みるけれど、途端に走る激痛に息が詰まる。
「…っ、…」
恐る恐る左手でそっと右ひじに触れると、そこはあからさまに熱を持ち腫れ上がっていた。折れてはいないはずだが、関節が外れたか、骨が欠けたか。少なくともこの右腕は役に立ちそうもない。
「あの」
「なんだ、言ってみろ。俺はやさしいからな。で?お前の墓になんて刻めばいいんだ」
真顔で言うリヴァイの冗談は笑えず、というかそもそも冗談ではない可能性のほうが大きい。
「いやそうじゃなくてですね、・・・兵長は大丈夫ですか」
「俺か?そうだな、右足を捻挫したがそれを大丈夫と呼ぶならそうなんだろう。立って歩けもしねえが、それをお前が大丈夫だと思うんだったらそうなんじゃねえか?あ?」
「ははは・・・」
「しかも俺の立体機動装置はてめえがアンカーでぶち壊しやがったからな。後数センチずれてたら胴体に穴が開いてるとこだが、残念だったなあ、外れて」
「ちがいますって・・・ガス狙ったんですよ、咄嗟でしたけど・・・というかまあ、正直当たるとは思いませんでしたが」
「てめえはそんな適当な目算で人めがけてアンカー打ち込んでんのか?俺が大木か石の壁にみえるのか」
「・・・」
大木なんて図々しいなんて思っていても言わないほうが賢明なのだろう。はは、とあからさまな愛想笑いを浮かべて、エレンはただ自分の腹にまたがるリヴァイを見上げるばかりだ。
「っていうか」
15歳なりの言葉遣いを変なところで使用してしまうエレンは口と脳が直結しているタイプだ。ほかに言いようもあるだろうと、アルミンあたりがいれば止めたのだろうが生憎ここは森の深部でお互い以外は昆虫や鳥しかいない。
「兵長が逃げるから悪いんじゃないですか」
「・・・馬鹿か。俺は逃げてない」
あまりにも当たり前の批判に、リヴァイもさすがに珍しく間のある言い方をした。
「逃げたじゃないですか。なんで逃げるんですか」
「逃げてねえって言ってるだろ。俺はただ手を洗いに」
「・・・それどのくらいの説得力があると自分で思ってるんですか、めちゃくちゃ逃げたじゃないですか」
「血まみれで気持ち悪いから手を洗いに来ただけだろうが。それをお前が必死の形相で追っかけてきやがるからびっくりして本気で逃げちまったじゃねえか」
ほれみろととっくに乾いてこびり付いた両手の血の跡を、開いて見せつける仕草が妙に幼く感じられて一瞬えっそうだったっけと信じそうになる。
「・・そんなわけないじゃないですか」
「なんで半信半疑なんだ。馬鹿かお前」
「いやいやいや、そんなわけないでしょ?!いや、全然冗談じゃ済まされないですって、これ」
あまりにも動じないリヴァイに流されそうになっているエレンは危うく現状を把握し損ねるところだ。こびり付いた両手の血が、寝ぼけた頭に先ほど見た悪夢のような光景を思い出させた。
「あれじゃあ完全に兵長がやったみたいじゃないですか?!」
「まあ首もって突っ立てたんじゃあしょうがねえんじゃねえのか」
ほんの少しの動揺も見せないいつものリヴァイだ。そしてそれが腹立たしい。なんで。
なんでこの人は平然としてるんだ。
「しょうがないじゃないですよ・・・どうするんですか。っていうか」
「あ?」
「とりあえず降りてもらえませんか、兵長」
腹の上に跨ったままのリヴァイと、とてもまともに話し合える気がしない。青ざめたエレンを見下ろしながら、どういう間なのかわからないが逡巡したのちに本当に痛めているらしい右足をかばうようにリヴァイが腹の横に腰を下ろした。ズシリとした重みが急に消え、思わず咳き込む。そのたびに右腕が疼いた。よろよろと左ひじで体を起こし、胡坐を掻く。左手で痛む腕を支えながらようやく一息ついた。傍らで足を投げ出すリヴァイを自分でもきつい視線で見ていることを自覚していたが、誤魔化しようもない。
「兵長、どうするつもりだったんですか」
「どうもこうも。てめえの使ってる地下牢に繋がれて、それから審議所送りの予定。俺の功績差し引いてもこの巨人どもに一致団結して立ち向かおうって時に貴重な兵士の首叩き落とした罪で禁錮20か30年ってとこだろうな」
顔色も変えずにリヴァイが予想した未来は、エレンの問いに対する答ではなかった。そしてそれを、承知の上でリヴァイも口にしたのだろう。どうするもこうするも、逃げるほかに選択肢はないと信じている声音で、リヴァイが淡々と片膝を引き寄せながら冷静にそんなことを言った。
「ど、どうするんですか?」
「・・・あのな糞ガキ、どうするじゃねえんだよ。どうしようもねえことだ、これは」
「だって、殺してないのに」
「どうしてそう思う?」
エレンのその言葉を少しもリヴァイは信じていないのだろう。間を開けずにすぐに問うその言葉に、なぜか怒りがこみ上げた。この人何言ってるんだろう。
「そんなわけ、ないじゃないですか。兵長が部下を殺すなんて、誰が信じると思うんですか。審議所送りになんかなるわけない」
「でもあの女兵士は」
「そんなの知りません!」
押さえていた声を思わず張ってしまい、怯えた鳥が頭上で羽音で答えた。しんとした森に妙に響く。
「絶対に、逃げるべきじゃなかった。誰も疑ったりしない。審議所送りになんか、ならない。そんなわけがない。どうしてかなんか知らないけど、でも絶対に違う。そうでしょう?兵長が殺したんじゃないんでしょう?」
絞り出すように、あの時に言えなかった言葉をようやく言えた気がする。喉の奥が妙に熱い。怒りに似た視線でにらみつけてしまったように思う。けれどリヴァイは暫く黙して、まあ、そうだなと呟いた。
「俺ならもうちょっときれいに跳ね飛ばしてる」
そこかよとさすがに腹が立ちながらも怒りを奥歯でかみ殺す。互いに負傷しているとはいえ相手が悪い。喧嘩をしても分がないことはわかりきっていた。
「逃げて、どうするつもりだったんですか」
「・・・・2.30年無駄に飼われるくれえなら、ぼんやり森で妖精みてえに暮らすのもいいだろ」
「どうですかね、オレだったら2.30年無駄に飼われるくれえならそのまま森突っ切ってどこかで馬盗んで、壁外出た後、力尽きるまで巨人どもぶっ殺しますけど」
木漏れ日を見上げていたリヴァイが、言いようを真似たエレンの剣呑な言葉に視線を合わせた。リヴァイは笑いこそしなかったものの、どうするつもりだったのかというエレンの先ほどの問いに対する正しい解がエレンの口から出たことが、少なからず彼の険を和らげたようだった。エレンにとっては本心から出た言葉だったが、リヴァイが兵団から逃げてぼんやり過ごす気などさらさらなかったことを教えられたようで、張っていた気がわずかに緩む。
「・・・戻りましょう、兵長。今ならまだ間に合うはずです。ちゃんと話せばわかってもらえます。逃げたのも手を洗いたかったからって何回も言えば分ってもらえますって。オレも証言しますから」
「・・・・・どうやって?」
「・・・・・・・・・・・・・・・えっ」
「どうやってもどるんだ」
「どうやってって」
立体機動装置で。
「俺のはてめえがぶっ壊しただろ」
「あ」
「多分てめえのもぶっ壊れてる」
指摘され初めて背中にあるはずの装置が外れていることに気が付く。慌てて視線を彷徨わせて、立体機動装置だったはずのへしゃげたガス樽が1メートル先に転がっているのを発見する。左の指先で操作しても、うなだれた様に地面を這うアンカーはぴくりともしない。
「うそだろ・・・っ」
「つかだいたい、その腕で立体機動装置操れるのか。お前は。俺は無理だ。この足でぴょんぴょん飛べるわけがねえ」
「何威張ってんですかちょっと・・・!!っそだろ、ぜんっぜん動かねえっ・・・」
今日いったい何度血の気が引いたんだろうと数えることもバカバカしい。ガチガチとヒステリックに引き金を引いても、何の音も立てない立体機動装置は、おそらく落下するときにその衝撃をまともに吸収したらしい。だからこそあの高さから落ちて、この程度の負傷で済んだともいえる。
「・・・・ここ、旧調査兵団本部からどんだけ離れてます?」
「あんだけ必死に食いつかれながら、そんなこと計算できると思うか」
「だから、何威張ってんですか・・・?!これ、これってもしかして・・・っ」
「迷子だな」
どこまでも顔色を変えずに、身もふたもないことをリヴァイが言った。
「迷子ですよね?!」
「そうだ。迷子だ。今はな」
「今はっていうと、そのうちどうなるんですか??!」
「そのうち憲兵団から派兵された精鋭がこの森を捜索し始めると、脱走兵になるな」
「だ、だ脱走兵・・・?!だれが?!」
「俺と」
「と?!」
「お前」
うそだろ。
「ちょ・・・冗談でしょ、オレが調査兵団はいるのにどんだけ苦労したと・・・っ奥歯、奥歯まで兵長に蹴飛ばされてボコボコにされてようやく入ったんですよ?!訓練兵期間どんだけ大変だったと・・・っ」
「奥歯は生えてきただろうが。差し引きゼロだ、知るか。そりゃそうだろ。二人で森に逃げて帰ってこねえんだ。共犯だと思われても仕方ねえ。いや、お前のほうが分が悪いか。巨人だろお前。野良巨人だ。脱走兵じゃなくて脱走巨人だから見つかったら即処刑だな」
「い、いやですよ・・・兵長一人で審議所行ってくださいよ」
「お前さっき俺を信じてるとか何とか言ってただろうが、共倒れだ、こうなったら」
ほかに選択肢はないのだと諦めきっているリヴァイの口調は平然としている。予想外の展開に最早二の句も告げない。脱走兵?誰が?脱走?人がどれだけ調査兵団に憧れていたと思う。脱走?冗談じゃない。
「うそだろ・・・っ」
「お互いこんな体じゃ逃げようもねえ。どん詰まりだろ。どう考えても」
「そうだ、歩きましょう。一生懸命歩けば、旧兵団本部につくかも」
「つくわけねえだろ。方向も見当がつかねえのに。立体機動が使えればまだ何とかなったかもしれねえが、こんだけ森の奥深く入っちまえば、樹上にでも上がらねえ限り方向もわかんねえ。・・・多分俺たちが森を出るより憲兵どもが立体機動で捜索して俺たちを見つけるほうが早い。それまで生きてればな?」
「生きてればって」
「地べた這いずる人間二人、精鋭ったってこのデカい森の中見つけるのに何日かかることか。死体でも見つかればいいほうかもな」
ガアガアと不吉なほど低い声で鳴く鳥の声がふと耳に届く。屍を啄む鳥の群れをなんとなく想像してしまい、エレンはぞっとした。その屍の顔は自分のそれで想像してしまったから余計だ。
「オレ・・・巨人をぶっ殺そうと思って・・・・」
調査兵団に入ったのにという言葉の続きを聞きたくもないのか、リヴァイが留めをさした。
「餓死とか、そういうしょうもねえ死因かもしれねえな」
「うそでしょ・・・・」
「俺はな。だが安心しろエレン、てめえの墓にはこう書いといてやる」
「・・・・・なんでオレが先に死ぬ前提なんですか」
「自業自得」
「なんでですか?!」
「誰が俺の立体機動装置アンカーでぶち抜いたか言ってみろ」
「・・・・せめて名前も彫ってもらえますか」
もう審議所送りになったほうがましのような気がして、エレンはがくりと項垂れた。事態はこれ以上悪くなりようがないと思っていたがどうやら下には下があったらしい。
「糞バカ、略して糞でいいか」
「それでいいです・・」
それでもエレン・イェーガーの墓だとわかってもらえそうな気がするのが嫌だ。深々とついた溜息に呼応するように、鳥の声は不吉に響き渡った。
続く