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 どれほど時間がたったのだろう。5分か、それとも1時間もこうしているのか。時間の感覚を失い、エレンはひたすら枝間のリヴァイの影を必死に追った。集中力が途切れるのも時間の問題だった。
「兵長・・・っ」
 リヴァイは振り返りもしない。まるで聞こえないみたいに。
 嫌な予感がしている。まるで追われているのは自分なのではないかと錯覚するような焦燥感に、鳩尾が重く痛んだ。
 このままリヴァイを見失えば、彼は永遠に戻っては来ないだろう。そんな気がした。そしてそれはおそらく間違っていない。彼は、調査兵団から逃げ出したのだ。
 リヴァイの手の内にあった首の虚ろな双眸を思い出す。彼は何歳くらいだろう。何年を生きて、そしてどうしてあの何もない中庭で静かに横たわっていたのか。あの女の兵士は「殺される」と言った。兵長に殺される、誰か助けてと張り裂けんばかりに叫んでいた。恐怖は本物だろう。少なくとも彼女はリヴァイがあの兵士を殺したと信じ、そして怯えていた。
(俺には理解できなかった)
 その逡巡が生んだのが、いまリヴァイとエレンの間にある距離なのだろう。すぐに否定していれば違ったのかもしれない。何を馬鹿な、そんなわけがないと冷静でいれば、リヴァイは兵団に背を向けなかったのではないか。今更遅い後悔にエレンは舌打ちをする。咄嗟に反応することが出来なかったのだ。彼女の言い分はあまりに唐突で、エレンの想像を超えていた。声をかけたとき、リヴァイは困惑しているように見えた。血まみれの首を抱えてエレンを振り返ったときですら、彼を恐ろしいとは思わなかった。死体に動じないのは彼が生き抜いてきた修羅場の数に比例しているのだろうと思ったし、神経質な彼が血で汚れることも厭わずに労りすら感じさせる手つきで首を抱いていたから。
 彼が殺したのかもしれないなんて、エレンはかけらほども想像しなかったのだ。
(班員だって誰もそんなこと、思うわけないのに)
 リヴァイはあの場に留まって、ただ一言こう言うだけでよかったのだ。馬鹿いえ、そんなわけねえだろうと。それだけで、あの女の兵士はともかくエレンも班員も、彼を簡単に信じることが出来た。弁解もせずにただその場から逃げ出すなど、最悪の選択だ。これでは本当にリヴァイが手を下したと思われてもしょうがない。むしろ、リヴァイがこれからいくら無実を主張したとしても状況証拠が彼を犯人に仕立て上げてしまうかもしれない。人類最強の兵士と謳われた男が、殺人罪で裁かれる?笑えない冗談だった。
 ぎり、と奥歯を噛む。跳躍し、アンカーを差し替えてガスを蒸かす。葉擦れの向こうでわずかにリヴァイが振り返ったような気がした。
 リヴァイの顰められた眉を思い出した。あの女に「人殺し」と呼ばれたリヴァイが見せた、微かなあの反応。めったに表情を変えない彼に、僅かな苦痛に似たものがよぎった。リヴァイがあのとき何を思ったのか知らない。苛立ちか、嫌悪か、それとも焦燥だったか。
「兵長!」
 避け損ねた枝に頬を打たれて、思わず目を閉じた。はじかれた頬が裂けて血に濡れる。右手でそれを乱暴に拭って払う。目を閉じたのは一瞬だったはずだ。一瞬。その一瞬でリヴァイが姿を消した。確かに前方にあったはずの影を見失ったエレンは狼狽して足を止める。自身の荒い呼吸に邪魔されて気配が察知出来ない。樹齢を重ねた大木の枝を掴み、素早くあたりを見回した。木漏れ日が瞳に散り、鬱陶しい。森は深く暗い。立体機動を使わずに森に逃げられてしまえば、一人で追うことは困難だった。どうしよう。どうしよう、どうしたら。早鐘のように心臓が喚いている。見失ったのだろうか。そんな。
「兵長!!」
「うるせえ」
 背後から抑揚のない、よく知る声がした。ほぼ同時に白刃の立てる神経質な金属音が、不吉なほど静かな森に響く。
「エレン、てめえがしつこいのが悪い」
(アンカーを)
 跳躍しようとするエレンの反応速度をはるかに上回り、リヴァイが背後から抜刀し、そのまま振りぬいた。陽光を刃が弾く。
(死っ、…!)
 視界の端に見えるものを、けれど避けようがなくエレンはそのまま腹で受け止めた。何の構えもしていなかった体に容赦なく叩きつけられた刃が一瞬燃えるような熱を錯覚させる。腹の中ほどまで裂け、二つに分かれる胴体を一瞬想像し、目が眩んだ。
「ってえ!」
「落ちろ駄犬」
 バチンと、正確には刃の側面で思いきりエレンを叩き落としたリヴァイが、更に留めだといわんばかりにバランスを崩したエレンを足蹴にする。頭を簡単に足蹴にする癖だけはどうにかしてほしいと思いながら、エレンは重力の法則に逆らえずに落下していく。じゃあなと囁きにも似たリヴァイの口の動きがやけに緩慢だ。
 考えるよりも先に咄嗟に体が動いたというほうが正しいだろう。木々に打ち込むべきアンカーを気が付けば、彼に向けていた。逃げるその背中に向けて放たれた、矢のような一閃がリヴァイの腰の立体機動装置に打ち込まれる。甲高い金属音に続いてガスが破裂音にも似た音を聞かせて、一気に噴出するのがワイヤーの先から伝わってきた。ぎりぎり届いた鋼鉄のワイヤーはそのままリヴァイを絡め取る。肩越しに彼がわずかに振り返った。それも一瞬のことだ。宙でバランスを崩した小柄な体が、エレンに繋がるワイヤーに引き摺られて茂る枝に突っ込む。エレンが覚えていたのはそこまでだ。舌打ちが聞こえたような気がする。縺れながら、二人は地上に向けて落下していく。地上が迫るのと、リヴァイを掴むのとどちらが早かったのか。半身を打ち付ける衝撃と同時に暗転した視界のなか、エレンは深い泥に沈むように、そのまま意識を手放した。




***********





「どういうことだ、これは」
 急を知らせる早馬がエルヴィンのもとに到着したのは、朝食を終えたまさにそのタイミングだった。混乱したままリヴァイの班員であるぺトラが状況を知らせるが、事態を飲み込むことが出来なかった。とにかく急いできてください大変なことになっているんですと青い顔をするぺトラに引き摺られるように数人の部下だけを連れて旧調査兵団本部へ足を向けたけれど、やはりエルヴィンには事態がどうなっているのかを理解することは困難だった。
 中庭に首の落ちた死体が一つ。兵士長たるリヴァイが逃亡し、エレンがそのあとを追っている?
「・・・・・いや、すまない、理解できない。どうして彼は死んだ?なぜリヴァイが逃げる?エレンだけが後を追ったのか?どうして?」
 足元で転がる首を見下ろして、エルヴィンは自身に問うかのように呟いた。首を囲むようにエルヴィンの背後ではリヴァイ班とエルヴィン直轄の部下が沈黙を守っている。解を求めて振り返れば当惑しながらも、リヴァイ班の中では年長であるエルド・ジンがエルヴィンに歩み寄った。
「彼は誰だ?」
「98期の兵士で、今日の朝からわが班との合同演習に参加する予定だった10数名の内の一人です。おそらく、彼は自死を遂げたのだと思われます」
「自殺だと?」
「…おそらく。首の切り口を見ていただけますか」
 エルドに促され、エルヴィンが膝をつく。切断面を覗き込むと、赤黒くぐちゃぐちゃに引き裂かれた肉が見えた。巨人の手で四肢を引き千切られると、これとよく似た傷がつく。それを思い出しながら、エルヴィンは素直な感想を漏らした。
「・・・切り口が汚い」
「刃で落としたわけではないと思います。・・・兵長ならもっときれいに切り落とす」
「もう一度首を載せればくっつくほどにな。だから、どうしてそこでリヴァイが出てくるのかが分からない」
「俺たちにもわかりません。とにかく、わかっているのは、この兵士は夜が明ける前に一人で古城の最上階へいき、首に左右のワイヤーを巻きつけてから思いきりガスを蒸かしたんだろうってことだけです。射出されたアンカーが首を引き、そのまま捩じりつぶしたんでしょう。それができるかどうかはやってみないとわかりませんが、彼の腰から伸びたワイヤーの一部に肉片がこびり付いていたから多分間違いない」
 エルドが指差した先には、確かに血と肉の絡みついたワイヤーが蛇のように叢に横たわっている。
「いま城中で待機させている彼の同期の兵士にも事情を聞いたんですが、ここ2・3日確かに様子がおかしかったと。今回合同演習を予定していた兵士は皆2度の壁外遠征を経験していますね?」
「ああそうだ。・・・彼らが怯えていると報告があり、私が合同演習を命じた」
 2度生き残る、その意味を兵士なら皆知っている。2度生き残るということは、2度の地獄を味わったということだ。生きながらにしてむさぼり食われる恐怖を間近に味わい、血と臓物と汚物の匂いを嗅いで、それでもまだなお兵士を続けることの困難はエルヴィンとて承知している。だからこそ精鋭をそろえたリヴァイ班との演習が、必要だと思った。何度も死地を潜り抜けて生き残った彼らから学ぶことは多いだろう。恐怖や怯懦に足がすくんで、皿に乗ったディナーのように抵抗もできずに巨人の舌の上に乗る兵士は多い。そうならないためにもこの演習は有意義なはずだった。
「…ぺトラが歌を聴いたそうです。夜明け前、誰かが歌いながら歩いているのを聞いた」
 確認するようにエルドの背後で不安げにするぺトラを見る。小さくうなずくぺトラが嘘をつく理由はない。
「ひどい声でした。子供みたいに音程が外れてて、でもすごく楽しそうだった。私寝ぼけているんだと思いました。だからそれを確かめようとは思いませんでした。そのまま眠ってしまったから」
「・・・私にも覚えがあるよ。同期に大人しい、頭のいい男がいた。彼は巨人を見てみたいといっていたっけ。実際に接触しなければ得られない知識があるとね。巨人を殲滅するため、少しでも人類の繁栄の役に立てるのならばと私とともに調査兵団に入団した。若かったな。けれどはじめての壁外遠征で、彼は両腕を無くした。3メートル級が2体それぞれの腕に齧りついて離れなかったんだ。私が救い出したときには、虫の息で、命は取り留めたけれどそんな体で兵士を続けられるわけもない。心を病んで、その年の冬に結局頭を暖炉につっこんだんだ。ずっと耳元でくちゃくちゃと腕の肉を租借する音が聞こえるんだと言っていた。その音が何をしていても耳から離れないとも。耳をふさぎたくとも彼には腕がなかったからな。そういうことだろう?」
 彼は歌いながら屋上へ行き、そして飛び降りた。首にワイヤーを巻き付けて、空でも飛ぶみたいに。
「おそらくは。巨人の恐怖に耐えかねたんでしょう。この演習を終えれば、やがて待つのは壁外遠征ですから」
 珍しいことではない。少なくとも自分で死ねば、生きながら臓物をゼリーのように吸われたり、上半身を噛みつぶされたりする心配はせずに済む。もう一度立ち向かう勇気を持てない兵士を、けれどエルヴィンは弱いとは思わなかった。わからなくもない。そう思う。
「それで、それがどうしてリヴァイが逃げ出す?自殺なのだろう?彼が癇癪でも起こしてこの若い兵士の首をもぎ取ったとでもいうのなら話は別だが、お前の話を聞く限り、疑う余地はないだろう」
 我知らず、攻める口調になっていたのかそんなつもりはないのに、エルドは虫でも飲み込んだかのような顔をしてエルヴィンから視線を逸らした。そして若い女兵士が兵長が殺したとわめきたてたのだと、声をひそめてエルヴィンに教える。
「・・・ああ」
 覚えたのは頭痛だったか、めまいだったか。
「我々が中庭に駆け付けた時にはすでにリヴァイ兵長は立体機動で森へ向い、装備を付けていたエレンだけがそのあとを追いました。死体は転がってるわ泣きわめく女がいるわで、我々も事態の把握が遅れてしまった」
「まあ・・・リヴァイについてそう考えている人間は少なからずいる。彼は桁外れだろう?」
 人間離れした才能だと、リヴァイは畏怖を持って語られることも多い男だ。一個師団に値するリヴァイの戦闘能力は時代が平和であれば、ただ恐怖の対象だったかもしれない。
「人の身で、巨人と対等に戦えるわけがないと鬼か悪魔のように恐れるものもいる。共に戦えばこれほど心強い男もいないのだがな。…君たちのように崇拝するものがいれば、その一方で口さがないものは化け物ともリヴァイを呼ぶ」
「化け物ですか」
「わからんでもないがね。彼の才能は想像を超えているから」
「・・・俺は兵長をそんな風に思ったことはないです」
「問題はな、エルド。リヴァイ自身がそう思っていることだ」
「・・・そんな」
 絶句したエルドを一瞥し、エルヴィンは眼前に広がる深い森を見渡した。立体機動でこの森に逃げ込んだのならば今から捜索したとして、全力で逃げるリヴァイを確保するなど不可能に近い。首根っこを押さえつけることもできないのでは、手の打ちようがなかった。
「エレンに期待するしかないだろう」
「15歳の新兵に兵長を捕まえて引き摺って帰れと?」
「・・・うーん」
 そうはっきりと言葉にすると冗談にしか聞こえず苦笑するしかない。言いながらエルヴィンにもそんなことが可能だとは到底思えなかった。
「けれど期待するしかない。調査兵団を動かして森を捜索するか?そうなってしまえば事態は王都に報告するしかなくなるぞ。私的な兵団の流用が発覚すれば、私も刑罰を覚悟しなければならないし、リヴァイもただでは済むまい。捕らえたと同時に脱走兵として審議所の裁きを受けることになる」
「脱走兵って・・・あの人がどれだけ人類のために戦ってきたか・・・っ」
「明日の朝まで待とう。明日の朝まで待って、リヴァイが帰らなければ正式に脱走兵として王都に報告し、捕らえた後、審議所で裁きを受けることになる。それまでは私は何も知らなかったことにしておこう。でなければ面倒なことになるからな」
「猶予の根拠は?」
 どこまでもリヴァイを崇拝しているエルドが、タイムリミットの理由を問う。表情から笑みを消して、エルヴィンが真っ直ぐエルドを見返した。
「あの死体が腐るまでだ。一日程度なら死亡日時をごまかせるだろう。城内にいる十数名に関しては箝口令を敷く。いいか、明日の朝までだ。それまで私は何も聞かなかったことにする。いいな?」
「・・・遺体を運びます」
「冷やしておけ。明日の朝、いかにも死にたてですと威張れるように」
 馬鹿者。こんないい部下がいて、なぜ逃げた。
 遺体を抱えるリヴァイの班員の背中を見ながら、エルヴィンはため息を押し殺した。
 戻ればただでは済まさんからなと額に青筋を立て、空を仰ぐ。いい一日になりそうだ。
 少なくとも明日よりは。






続く