とてつもなくいい夢をみた気がして、エレンはベッドの中で目を開けた。地下とはいえ、明り取りの小窓が付いたこの部屋には朝日がささやかに差し込み心地がいい。固いベッドだが、広さは十分にあり、なによりないよりはましだろう。訓練兵だった時代には狭い段ベッドが連なる一部屋に十何人もが詰め込まれていたのだ。今の待遇は、入団したばかりの15歳にとっては破格といっていい。彼らがこの地下一室をエレンに与えた理由が監視するためとはいえ、環境としてはさして申し分がなかった。ベッドサイドにおいておいた水差しから水を一杯飲み、ようやくエレンは背伸びをしてベッドを下りて立ち上がった。はだしの素足にぺたりとした石畳が心地いい。見かけによらず神経質な我が団の兵長は、埃の上がりやすい石畳の水拭きを最低でも一日一回は、班員に申し付けている。せめて自室くらい裸足で歩けるくらいきれいにしとけ(できねえなら死ね)との言いつけを、エレンもほかの班員も健気に守っていた。
 早起きは苦ではない。夜が明けたばかりの古城は静まりかえっており、小鳥の囀りが聞こえて心地よかった。耳を澄ましても生活音が一つもしないので、ほかの班員たちを出し抜いたことを知る。来年には105期の新兵が兵団に入団して、エレンにも後輩ができるのだろうが、少なくとも現時点で、エレンたち104期よりのちに入団した兵士はどこを探してもいない。先輩方に起こされることほど寝覚めが悪いことはなかった。畳んでしまっておいた兵服を取り出して着替えると、気持ちが切り替わる。昨日身に着けていた、血と泥と汗にまみれた服は洗濯をして窓際に干して置いたから、今日の夜には乾いているだろう。洗剤のきれいな匂いを吸い込みながら背筋をぴんと伸ばした。簡単にストレッチをしてから、立体機動装置を身にまとうためのバンドを丁寧に足から背中へと巻いていく。初めは手順が分からずに、このバンドをまくだけでずいぶん時間がかかったものだ。覚えるのにかかった時間は確かに短くはなかったが、今ではその時間を取り戻すように素早く支度ができるようになった。兵士としての身支度ができることが、誇らしい。ずっと憧れていた調査兵団に入団したのだと、毎朝エレンに思い知らせてくれるからだ。
 今日は朝から訓練だと兵長が言っていたっけとブーツを履きながら思い返す。朝食が喉を通らないほどしごかれるのにもそろそろ慣れてきた。けれど幼いころから憧れていた人類最強の兵士に直接教えを乞うことができるのだ、どんな厳しい訓練だろうと苦痛だと思ったことはない。それは誰にとっても同じなのだろう。リヴァイ班の班員だけではなく、エルヴィン団長直々に若い兵を鍛えてやってほしいという依頼があり、調査兵団からリヴァイの指導を希望する10人近くが前日からこの古城に泊まり込んでいた。今日の早朝からの訓練にはその10名も参加するという。リヴァイ直々に対人格闘術や立体起動について教わる機会などそうあるものではない。リヴァイにとっても、ボコボコに出来る兵は多ければ多いほどいいのだから、これはお互いにとって有意義な訓練だといえた。
 刃とガスが十分に足りていることを確認してから、立体起動装置を身に着けてエレンは部屋を出た。
 巨人化する、自分の価値を知らないわけではないが、それでも、ただの兵士としてリヴァイに認めてもらいたいという欲がある。立体機動を彼のように駆使し、巨人の首筋を鮮烈な太刀筋で削ぎ落とすことができれば、どんなに、と想像するだけで高揚するのだ。
 立体機動は脆弱だと思っていた。高所にアンカーを打ち込み、身を空に躍らせた無防備な体は、巨人にとってはおもちゃに等しいと。装置自体が弱点にもなりうる。鋼鉄のワイヤーはけして切れないが、だからこそ一度掴まれれば逃げようがない。ワイヤーをつかまれて、地面に叩きつけられた体はまるで水風船のように弾けて真っ赤な汚泥になる。巨人が地面に舌を這わせてグズグズになった兵士を啜っているのを見たことがあった。けれど、ほかに有効な手段はないのだからしょうがないと思っていた。立体起動での戦闘など巨人にとっては餌のついた糸だとしても、ほかに方法がないのだからと。
 リヴァイが戦うところを見るまでは。
 あの華奢ともいえる体躯が空に踊り、白刃を正確に巨人の首筋に叩き落とすところを見た。その時の興奮を、エレンは忘れられずにいる。何度脳裏で再生しただろう。彼は自由に体を操って見せた。自由の翼の意匠を背に、本当に飛んでいるかのようだった。真っ直ぐ獲物を捕らえて、確実にしとめる鷹。幼いころ馬上の彼を見たときは、人類最強の兵士だと嬌声を挙げながらも不信を覚えていた。本当に強いのかな。だってほかの兵士に比べて、一回りも彼は小さかったから。屈強な兵士たちに囲まれて壁外調査から帰還するリヴァイを、口には出さなかったが半信半疑で見上げていたような気がする。けれど、あの身のこなしと、力強くたたきつけられた刃が切り落とした肉を見たあの日からすべてが変わった。
 立体機動は脆弱などではなかった。そう思っていた自分を恥じた。
 巨人に対して唯一無二の有効な殲滅の手段なのだと、今では間違いなく確信している。
 リヴァイのようになりたいと思った。
 彼のような兵士になりたい。
 人格に少々難ありだとしても、エレンにとってリヴァイは憧れの対象だった。埃と汚れの大嫌いな神経質なところも、粗野で口汚いところも、小柄な体躯も、彼の欠点にはなりえなかったのだ。むしろ人間らしいとすら思う。
 人の身のまま巨人にとって脅威でありつづける、その稀有が、エレンにとっては何よりも重要なことだった。

(俺のようにあいつらと同じけだものに身を落とさなくても、兵長は戦うことができる)

 リヴァイのようになりたい。それが今のエレンの密かな目標の一つだ。たとえ理由が監視のためだとしても、彼の傍で彼の技術を学べることは、至上の喜びだった。高揚が足音にすり替わりそうになるのを耐えて、エレンは足早に城外を目指した。中庭での訓練が始まる前に肩慣らしをしておきたい。中庭への扉を押しあけると、頭上に空が広がった。朝日はまぶしいほどで、青々と生い茂る足元の雑草をめまいがするほど鮮やかな緑に染めている。一瞬くらんだ目を細めたエレンは、よく見知った背中を中庭の中央に見つけた。ほとんど条件反射で駆け寄る。
 兵長、と声をかけようとして、けれど、それを飲み込んだ。
 その小柄な背中、その足元に誰かが横たわっているのを見たからだ。
 エレンやリヴァイと同じ兵服を身にまとった誰か。
「兵長?」
 意識して大きく呼びかけた声にこたえるように、木上の鳥が羽ばたいた。肩越しにリヴァイが振り返ると、彼の腰につけられたガスと刃がかちゃりと音を立てた。いつもの彼だった。端正な顔には常のごとく表情はなく、無垢にも似た茫洋とした双眸でエレンを見返す。駆け寄ろうとして、そこではじめてエレンはリヴァイの両手に掲げられている塊に気が付いた。

 ぽたり。

 滴ったどす黒い赤が、塊を支えているリヴァイの両手を染めていた。真っ直ぐ落ちる雫は彼の下肢をも染め上げて、足元の鮮やかな緑とコントラストを描いている。リヴァイの手の内にある、誰かの(おそらく足元で横たわる体の)頭部は、虚ろな目をしてどこか遠くをみている。この世ならざるどこかを。
「・・・・ええと、どうしたんですか、その人」
 どうしたもこうしたもないが、ほかに言葉が出てこなかった。間抜けな問いをしている自覚はあったが、完全に思考が停止している。あまりに静かだった。死は沢山見た。先に食われた誰かの髪が挟まったままの黄ばんだ臼歯にすり潰される腸だとか、轟音と共に巨大な手のひらに弾き飛ばされる上半身だとか、飴のように舌の上で転がされる子供だとか、そのどれもが悲鳴と怒りと巨人どもの狂騒の中で行われる殺戮だった。こんな静かな死を知らない。小鳥が鳴きわめき、朝露に濡れた草と朝の清廉な空気の中で、ころりと頭が転がっている。たった15の少年が咄嗟に状況を判断できなかったとして、誰が責められるだろう。
 リヴァイはまるで、朝食のメニューを聞かれたような顔で、さあ、とだけ答えた。
「どうしたんだろうな?俺に言えるのは、もうくっつかねえだろうなってことだけだ」
 手中にある頭部の濁った視線を自らへ向けて、リヴァイは何事かを試案している。
「おい、こいつの名前知ってるか」
 くるりと回して、頭部の視線をエレンに向ける。エレンに問うたのか、それとも頭部に問うたのか判じ遅れて、エレンは思わず口ごもった。いや、そんなわけない兵長は俺に聞いてるんだと当たり前のことに気が付いて、知りませんとだけ慌てて返す。
「合同訓練を予定していた10名のうちのどなたかではないかとは思いますが」
「んなこたあわかってる。いくら俺でも自分の班員の顔の区別ぐらいつくぞ」
 それ意外と怪しいんじゃないですかとは口に出さず歩み寄ろうとしたエレンの背後で、悲鳴が上がった。驚いて振り向くのと、人殺し、という金切り声が上がったのはほとんど同時だった。見覚えのない女兵士が真っ青な顔をして目を見開いていた。人殺し、と重ねて悲鳴のように叫ぶ。え、人殺し?
「だれかきて!」
 リヴァイ兵長が、助けて、誰か、と女は喚いていた。指をさして、誰か来て、助けて、と。
「え、ちょっと、まって、」
 女が何を言っているのかわからなかった。人殺し?誰が?どこに?
 だってここには、俺と兵長しかいない。
 訳が分からずに解を求めてリヴァイを見ると、きれいな形の眉を、少しだけ顰めてわからないほど小さなため息を彼はついた。酷い悪寒を感じて、エレンは言葉に詰まった。遠くから女の声を聴きつけたのだろう、足音と声が複数聞こえてくる。悲鳴は長く大きく続いている。助けて早く誰か来て、兵長に殺されると女は喚き続けている。そんな馬鹿な。彼を誰だと思っている。さあ否定してやればいい。いつものように悪態を交えて、目と耳かっぽじって繋げとけ紐を通してぶら下げといてやる、とかなんとか。
「兵長、」
「ちっ。…しょうがねえな。おい、エレン」
「は、わ、…っ」
 ぽんと放られた頭は弧を描いて、血液を飛び散らせながらエレンの手元へとすっぽり収まるはずだった。けれど慌てたエレンが思わず頭を取り落して、転がしてしまう。それをお互い視線で追い、一瞬リヴァイと視線が合う。言おうとした言葉が喉で詰まるが、それを最早リヴァイは待とうとはしなかった。くるりと背を向けて、中庭から古城の背後に広がる森へ向けてアンカーを放つ。ガスの噴き出すよく知った音が悲鳴に重なる。え、嘘だろ。なんで、と混乱しながらその背中を視線で追う。限界まで伸びきったゴムを放つのによく似て、リヴァイが一瞬で遠ざかった。
「兵長っ」
 声は聞こえたはずだ。けれど彼は振り返りもしない。森へ消えた彼を追うべく、混乱しながらエレンもアンカーを放つ。背後で、うわ、どうしたんだこれとよく知った声がした。エルドやほかの班員が来たのだと思ったが振り返ることはできなかった。今振り返って、言い訳をする余裕はない。そんなことをしていたら、彼を見失うことは確実だった。
「すいません、追います!」
 腹に力を込めてそれだけを怒鳴り、エレンも続いて森へ飛び込んだ。こんなに全力で駆けたことなどない。揺れる枝や舞い落ちる木の葉だけを頼りに、生い茂る木々の隙間の残像を必死に追いかける。
「待ってください、兵長!」
 森は深く、広い。兵団の馬ですら森の最深部まで駆けたことがなかった。彼を見失えば、追うことはかなわないだろう。
「兵長!」
 怒鳴るエレンの声に応えはなかった。
 畜生。
 何が、どうなっている。
 どうして。
 リヴァイ兵長、とエレンは叫び、走った。とても追いつくとは思えなかったが、ほかにどうすることもできずに。









続く