ふとスプーンを持つ手が陰った。エレンは目の前のスープから視線を挙げて、傍らに立った男を見上げる。それはよく知っている顔で、なおかつ会いたくもなかった顔だ。
「チッ」
「お前、普通久しぶりに会う同期に舌打ちするか…!」
めんどくせえやつが来たなと顔面にデカデカと書きなぐったエレンに掴み掛ろうとするジャンを、めんどくせえ以外の言葉で表現できずに、自身の語彙のなさを痛感する。こいつほんとめんどくせえな。
「なんだよ、オレは今飯食ってんだけど?」
「大体おせーよ。何いつまでも食ってんだよ」
かけてもいいかとも聞かずに、ジャンがどっかと真横の椅子を引いて腰を下ろした。これだけガラガラの食堂でわざわざ横に座るかと言おうとしてエレンはやめた。こいつに絡むと、会話もそのうち殴り合いになる。リヴァイ班も古城から合流して行われた駐屯兵団と調査兵団との合同訓練は、日が昇らないうちに始まり、日が沈んでからも続いた。それに加え、まだ巨人討伐数0を密かに気にしているエレンは、訓練終了の鐘が鳴ってなお一人で立体起動を酷使して、同じ班員であるところの見張り役、エルドに指導を乞い、彼を困らせた。正直に言えば、スプーンを口元へ運ぶことすら億劫なのだ。限界まで体力を使い果たした今、ジャンと喧嘩をして勝てるとも思えなかった。体調が万全な時にこいつをボコボコにするのがいいんじゃねえかと無言でスープを啜る。
「人の話を聞け!」
「大体お前なんで一人でくるんだ。アルミンやミカサは一緒じゃねえのか」
どうせなら幼馴染二人に会いたかったとエレンが思うのも無理はない。リヴァイ班という名の体のいい檻に閉じ込められてからというもの、あの二人とはまともに話せていない。後姿を見かけても、話しかけるのに兵長や班員の許可がいる生活は、仕方がないとはいえ窮屈なものだ。古城でのリヴァイ班との日常は、苦痛ではなかったが孤独を覚えない日はない。そういや俺はいつもあいつらと一緒にいたんだなと痛感することがよかったのか、悪かったのか。
「お前がここにいるって知ってたら残ってたんだろうけどな。俺もたまたまお前を見かけたから」
だからわざわざ話しかけてやってんだろうがと、心なしかジャンの声が上ずったような気がして、はじめてエレンはまともに傍らの馬面(エレンの主観)の目を見た。
「…へえ?」
「んだよ」
「ああ?なんだよ、きもちわりいなジャン?」
からかおうか、とふと思ったがやめておく。何せ今日は本当にくたくただ。やさしいんだなとかお前俺のこと好きなんじゃねえのとかそういうセリフがいくつか浮かんだが、それを口に出すのはためらわれた。孤独を覚える日々が多少なりとあったことは確かで、ジャンの行動を素直にうれしいと感じたのは事実だったから。
「リヴァイ班はどうだ?兵長直々に訓練とか見てもらってんのか」
勝手にエレンのグラスをつかんで水をあおりながら問うジャンの尊大さも相変わらずだ。こいつ全然成長してねえなと、一人成長したつもりのエレンはグラスを奪い返し、仕返しだといわんばかりに中の水を一気に飲み干す。
「水ぐらいいーだろーが!」
「きったねえ涎がつくだろ?!てめえはほんとにガサツだな!」
「お前に言われたくない!」
ぎゃんぎゃんとしばし言い合うのはもはや様式美だ。なんで普通に会話できねえんだとお互いが同じ感想を抱いているとも知らない二人は、ある意味似た者同士だろう。
「もーいーわお前どっかいけ。アルミンとミカサによろしくな」
ほぼ冷め切った豆のスープとパンのことを思い出して、スプーンを握りなおす。ほかの兵士の目があることもあり、この駐屯兵団の居住区や食堂では、比較的監視の目は緩められている。とはいえ、食事に充てられた時間は長くなく、今日中にはリヴァイ班の拠点である古城へ戻らなければならないのだ。この馬面をかまっていて、うっかり晩飯を食べ損なうようなことは遠慮したかった。空腹のまま眠るなど、育ち盛りの15歳には拷問に等しい。改めてパンにかじりついたエレンを見て、ジャンはわずかに沈黙した。
何かをいいあぐね、それから、周囲を慎重に見回すジャンに不信を覚える。
「おまえ、」
もしかしてなんか用があるのかと言おうとしたエレンを遮り、ジャンが椅子を引いて身をわずかに寄せた。息のかかる距離で、声をひそめて囁く。
「あのな」
ジャンは軍服のジャケットを探り、何かをつかみだした。エレンの指からパンを奪い、その手をテーブルの下へと引く。手の内に小さなものを握らされて、エレンが視線を合わせると、ジャンがし、と声にならない囁きを漏らす。
「なんだこれ」
つられて囁きで返したエレンの手を離し、ジャンが束の間の沈黙を破って立ち上がる。
「金はいらねえ。…使ってみろよ」
「ああ?」
「お前疲れてるみたいだし。兵長に四六時中見張られてたら息も詰まるだろ?だから同情してやってんだ、これでも」
立ち上がったジャンの表情は逆光で見えない。輪郭で、笑っているのだとだけわかる。
「まあお試しってことで」
「おい…」
「流行ってんだぜ、憲兵の間で。すげえいいって。お前にも分けてやるから。誰にも見せるなよ。…夜、一人で使え。よかったらまた言え。伝手がある」
じゃあまたなとジャンは、背を向けた。振り返りもせずに食堂を出ていく背中を視線で追うエレンは困惑を隠せずに、テーブルの下の手の平の内にある、小さな包みを見下ろす。
「…薬?」
白い五角形の小さな包みはきれいに折りたたまれていて、カサカサと小さな音がした。昔父が自分の患者に処方していた風邪薬によく似ているなと小さな痛みとともに思い出す。遠い昔だ。
「なんだ、あいつ」
へんなやつ、ととりあえずそれをポケットにしまい、気が付いた。
「…パン」
盗られた。
あの野郎ぶっ殺してやると真顔でエレンは思った。
「おい、エレン何やってんだ、もう帰るぞ」
食堂に顔を出したグンタが声を張り、エレンを手招いた。豆のスープは皿を抱えて一気飲みせざるを得ない。やはりジャンにかかわるとろくなことにならない。嫌いだというわけではないが、相性の悪い人間というのはどこにでもいる。
満たされない腹に水をもう一杯注いでエレンは立ち上がり、それで包みのことは忘れた。
******************
兵団の馬の足とはいえ、古城についたのは深夜だった。夜露が唇を湿らせて、手綱を持つ手がわずかに凍えた。厩舎に馬をつなぎ、それぞれの自室へ向かう頃には疲労がひびのように全身に絡みついて、歩くのも億劫だ。ベッドに頭から突っ込むことしか考えられないが、せめて水を浴びて体を拭かなければシーツに飛び込めない。神経質なわが班の兵長がそれを許さないからだ。
リヴァイ以下班員が浴室を使うのを待ってから、冷えた体に冷水を浴びる。少しはしゃんと目が冴えた。震えながら、ぺトラが用意してくれた洗いたての布で体を拭き、服を着る。汚れた兵服は明日にでも洗えばいいかと考えながら、ひどいにおいのするそれを抱えて浴室を出る。水を浴びた素足に履くブーツの感触はとても気持ちいいとは言い難いが、埃の上がる石畳の上を素足で歩くよりはましだ。蝋燭の明かりにぼんやりと照らされた足元を見ながら、エレンは疲れ切った欠伸をした。
「あれ…」
廊下の先に、ろうそくが仄暗く照らす人影を見つけ、エレンは思わず立ち止まる。
「兵長?」
女性であるぺトラと見紛うような小柄なシルエットが、壁に背を預けて腕を組んでいる。考えたくはないが、ほかに理由も考えられず、もしかして俺を待っていたのかとエレンは驚いた。
「あの」
ほかの班員はもう眠ってしまったのだろうか。廊下に反響する自分の声はずいぶん頼りなかった。二人きりで会話するには緊張する。リヴァイ兵士長といえば、エレンにとっては畏怖と憧憬が入り混じった複雑な相手だ。リヴァイは黙したまま、いつもの、道端に落ちている小石すら眼光で弾き飛ばすような視線でエレンを見つめている。幼いころ、この人に憧れていたっけ。
「あの、心配していただかなくてもちゃんと地下室で寝ます。逃げたりなんか」
地下室でオレがちゃんと眠るまでは心配なのだろうか。揺れる声音に、自分でも戸惑っているのがわかる。
「いいから黙れ、この屑」
しんと冷えた声で、静かに一喝されて背筋が震えた。リヴァイの背から立ち上るような静かな怒気を無視していたかったが、そうもいかないらしい。俺何かしたっけと反芻するが、今日は訓練以外特に何もしていない。掃除の手抜きか?いやでも兵長から見れば掃除がなってないだけで俺は一生懸命やったしと数少ない心当たりに言い訳をしながら、リヴァイの後を大人しくついていく他なかった。
地下への階段を下りていく背中は小さい。エレンの自室としてあてがわれた部屋の扉をほぼ蹴破るようにあけて、リヴァイが促すのに従う。唯一おかれた寝具に当たり前のように腰を掛けたリヴァイの前に立つ。これほどまでに彼を怒らせたその心当たりもなく、口を開こうとしたエレンを制して、リヴァイが言った。
「出せ」
「…ええと」
「いいから出せ」
だせ?出せ。ダセ?
「だせ?何を、…っ」
立ち上がったリヴァイの爪先が一閃して、エレンの鳩尾にきれいに叩き込まれる。声も出ずに膝をついて、逆流してくるスープの塩気を無理やり飲み下す。嘔吐の波を、震える指で必死に腹を押さえて耐えた。出せっていうのはゲロのことか。
「っ、は…っ」
リヴァイは何事もなかったかのように、埃を払いベッドに腰掛け、鷹揚に足を組んだ。
「てめえとぼけるとはいい度胸じゃねえか。意外と根性あるな、エレン。だが、俺の経験上10分以上持った奴はいねえぞ?」
逆に10分持った奴がいることにびっくりするわとは言えず、出ない声を必死に絞り出す。
「…へ、ちょ…っ、」
「てめえのきたねえ兵服のポケットに入ってんだろが。おら、出せ早く」
兵服、兵服?ポケット?混乱して、必死に思い返すが心当たりといえば、ジャンが渡してきた風邪薬くらいしか思い当たらないが、まさかそんなものをよこせとリヴァイは言うまい。なんだ、ほかに何か持っていたかと必死に考えながら、汗と血の染みついた軍服に手を伸ばす。膝で石畳の上を擦り、手繰り寄せた兵服のポケットを探る。選択を間違えばおそらくもう一度蹴飛ばされるという未来を予知していたが、本当にポケットの中にはほかに何も入っていない。仕方がなく、風邪薬であろうその包みを握り、床に置いた。
「こっちにもってこい」
「は、い…っ」
「食堂にいる間は誰も監視していないとでも思ったか?言っとくがなエレン、調査兵団に入団した時から、お前に自由なんてねえんだよ。どっから手に入れたのか知らねえが…」
ぞっとするような目をして、リヴァイがエレンを見下ろしている。薬の包みを差し出したエレンから指の先で摘まんで受け取り、ふらふらと目の前で泳がせ、舌なめずりをするように彼は少し笑ったようだった。
「ただで済むと思うなよ?」
それがなんなのかはわからないが、これだけは言える。ジャン、あいつはぶっ殺す。
ただの風邪薬ではないのだろう。風邪薬欲しさに部下を全力で蹴飛ばすような人では、ないと思いたい。
「今頃てめえのお友達からもハンジが話を聞いてる。…もう会えねえかもな。こんなしょうもねえクスリに頼るような弱い奴は兵団にはいらねえ。それがたとえお前でもだ。だから、てめえがこいつを味見する前に忠告に来てやったんだ」
俺はやさしいからなと嘯く小柄な男が、味方とはいえ今ばかりは恐ろしい。忠告ではなくすでに足が出てるんですけどと思いながら、エレンはようよう立ち上がった。倒れこんでるとちょうど蹴りやすいと思われてぼこぼこにされることは既に学習済みだ。
「ジャンが無理やり渡してきたもので、俺は知りません…」
「ああ?にしちゃあ後生大事にちゃんともってかえってんじゃねえか?言っとくがなエレン。俺は言い訳が嫌いだ」
「それは…」
(父親を思い出して、少し懐かしかったから)
理由を告げることは躊躇われた。幼稚だとリヴァイに思われたくなかったし、弱い自分を曝け出すようで気が引けた。だから、口ごもり、エレンは俯いた。最悪の選択をしたとも知らずに。即座に足を払われもう一度石畳に腰を打つ。いてえと思う間もなく襟元をつかまれ仰向けに突き飛ばされる。伸し掛かったリヴァイが馬乗りになった。もちろんまるで馬の背に飛び乗るような乱暴さで、だ。下腹のあたりに思いきり体重をかけられて、エレンは呻いた。
「そもそも、こいつはあほの憲兵どもの間で流行った。まああいつら金と暇を持て余してるからな。売るやつがいれば、買うやつがいる。駐屯兵団と調査兵団の若い奴らがハマるまでそんなに時間はかからなかっただろう。特にうちはな。初めて壁外に出る、その恐怖に耐えきれねえんだ。壁外遠征から生き残ればなおさらだ」
腕で体を起こしたエレンの目の前で、リヴァイは白い小さな包みをひらひらさせる。紙の向こうにわずかな粉が透けて見えて、ふと嫌な予感が脳裏をよぎった。ジャンがよこした、この小さな包み紙の正体。
「…」
「俺はよく知らないが、こいつを使えばその恐怖を都合よく忘れちまえるらしい」
「忘れるっていうのは…」
「文字通りお花畑だ。まだ17だったか、101期の若い奴が笑いながら巨人の口めがけて突っ込んでいくのを見たことがある。ぼりぼりむさぼり食われながら、そいつは最後まで笑ってたな。そんな奴が使いもんになるわけねえ。いいか。言っとくぞ。恐怖を忘れてえならいつでも言え。俺がその貧相な脳みそかき回して、巨人と戦ってたほうがよほどましだって目に合わせてやる。遠慮するな」
「これは、そういうものですか?もしかして麻薬?」
医療行為に使われる薬物だが、使い方を間違えばリヴァイが言うところの「脳がお花畑」になれることも知っていた。だが、それを自分が持っていたなど露ほども思わなかった。ものすごい誤解を受けていることにようやく気が付いたエレンは、改めて現状を理解して、十分引いていた血の気をさらにドン引きさせることに成功する。
これ、本当にシャレになってねえ。
「だから」
とぼけんじゃねえっつってんだろがと襟元を締め上げられては息もできない。弁明するどころか、すでに呼吸をする権利すら奪われようとしている。呼吸ができようができまいが、そんなことは知ったことではないのだろう。どす黒く変容する部下の顔を見下ろしながら顔色一つも変えず、リヴァイは平然としている。
「俺は嘘も嫌いだ」
「しら、ない…っ」
「タメ口聞くんじゃねえ馬鹿が」
「ジャンにもらっただけで、俺は、っ、く、…げほ、っ…」
「しつけえな、お前も。あのな、言っておくがお前ほど嬲りやすい奴もいねえんだぞ?指を一寸刻みにしてやったっていい。どうせ生えてくんだ、しばらく不便だろうがそれは我慢しろ。はらわた引きずり出してちょうちょ結びにしてやろうか。そいつの端をベッドに繋いどけば、ペットみてえでかわいいかもな」
ぞ、と鳥肌が立つのは、これが冗談ではないことを身を以て知っているからだ。リヴァイとは短い付き合いだが、冗談が下手なことだけは知っている。本当にやりかねない凶暴さも実力も兼ね備えていることが今だけは恨めしかった。
「ま、へ、ちょ…っ、話を…っ」
エレンの口をリヴァイは手のひらで塞いだ。空いたほうの手で、まだ鈍痛の激しい鳩尾をもう一度殴られる。今度こそ戻しそうになるが、それを許してくれるような生易しい相手ではなかった。押し付けられた手は一層強く、エレンの口を塞ぐ。行き場のない嘔吐を飲み下すと、生理的な苦痛に自然と目が潤んだ。
「…そんなにやりたきゃあ使い方を教えてやるよ。風邪薬みてえに水で飲み下すんじゃねえぞ。粘膜から摂取するのが一番いいらしい。鼻から吸うやつもいるが、俺のおすすめはケツだ。ここに塗りこんでセックスすると、それこそお花畑なんだってよ」
ぐ、とリヴァイがエレンの股間に体重をかける。そのまま押しつぶされそうで、エレンはおびえて首を振った。
「いやいやじゃねえ。ガキを躾ける俺の身にもなれよ、なあ?エレン」
セックスという言葉の響きが怖かった。それは暴力とは違う恐怖だ。生々しい響きは興奮と嫌悪をもたらす。
「しりてえか」
卑猥なしぐさで腰を揺すられて、我知らずに下肢が重苦しい疼きを覚え始める。怖いはずなのに。どうして。
「こいつを使うと、どうなるのか」
口で言ってわからねえガキは一度味わうのもいいかもしれねえなとかがみこんだリヴァイが、わざとエレンの耳朶に囁く。
「お前が今からどうなるのかわかるか?」
ぼろりとこぼれた涙で視界がゆがんだ。苦痛と恐怖が綯い交ぜになって、ただ幼子のようにゆるく首を振ることしかできない。そもそも体力はすでに限界まで使い果たしていた。本当なら今頃ベッドで泥のように眠っていたはずだ。それが。どうして。
「このちいせえ頭ん中をお花畑にしてやるよ。それがどんだけ恐ろしいのか、てめえで味わえ。正気じゃねえってことがどういうことか」
俺がたっぷりと教えてやる、と吐息だけでリヴァイが囁いた。エレンの口をふさいでいた手をそっと外し、ついた涎を当たり前のようにエレンのシャツで拭う。
「兵長、ちが、違うんです、だから、…っ、ジャンが…っ」
嗚咽が混じるエレンの訴えに、いつもの無表情のまま、し、とリヴァイが唇に手を当てて見せた。なぜだろう。その顔は笑ってなどいないのに、、巨人を目の前にしたハンジの笑顔が重なった。
「今から一言でも喋れば殺す。いや、調査兵団から外れてもらうといったほうがお前には堪えるのか?」
腰を下方へをずらし、リヴァイがエレンの開いた足の間に移動した。上体を起こしたエレンの目の前で、上官かつ憧れの対象だった男が自分のズボンのベルトを外しにかかっている光景は、衝撃的としか言わざるをえない。一瞬で上せてしまうのも無理はなかった。今から何が起こるのかについて幼い知識を総動員しただけで膨らみ始めたエレンの股間に、気が付いていないわけはないだろうにリヴァイは動じもせずにチャックを下ろしていく。
「腰上げろ」
無情な声に、首を振ったところで聞き入れられるわけはない。それでも抵抗せずにはいられず、エレンはいやです、と震える声で伝えた。
「二度は言わねえ」
「いやです、兵長…っこんなの、」
ただの暴力だったら違ったのかもしれない。たとえ相手がリヴァイとは言え、自分に何の咎もないのに罰を好んで受けるような素直な性格ではないことを、エレンは自覚していた。たとえボコボコにされて、半死半生の目にあったとしても、誤解ですと言い続けることができただろう。けれどチャックを下ろされてみっともなく下腹部を膨らませた15歳が、言える言葉などそう多くなかった。
「嫌だ…っ」
「俺は黙れといわなかったか」
「…ぁっ」
下着ごとズボンを引き抜かれ、夜気に晒された下肢は心もとない。けれど全身に鳥肌が立っているというのに足の間が熱い。視界に、自身のそれが先を濡らしているのが見て取れて、思わず息をのんだ。
「期待してんじゃねえかガキ。やったことねえのか?」
嘲る声に、何を聞かれているのかも最早エレンにはわからなかった。疼いていた下肢の鈍痛は、今や痛いほどで、エレンにできることといえばいやだ、お願いです、と壊れた機械のように繰り返すことだけだ。エレンの目の前で膝立ちをして、リヴァイが自身のベルトに手をかけた。乱暴に引き抜いた後、チャックを寛げる。リヴァイが自らズボンと下着に手をかけて下ろすと、自分と同じ性器がゆるく立ち上がっているのが見える。嫌悪の対象でこそあれ、同性のそれに興奮するような趣味はなかった。なかったはずだ。けれどその血管の這う肉塊を見た途端、無意識のうちにエレンは喉を鳴らしていた。
エレンの目の前で、リヴァイは忌まわしい粉の包みを開き、舌を突き出した。さらさらとそれを舌の上で受け止めて、自身の指先で見せつけるように唾液に絡める。舌先で粘つく白い糸が引く様はたとえようもなく卑猥だ。ねちゃりと音をさせ、リヴァイが吐息を漏らす。いやです、と繰り返すエレンの声はいつの間にか途絶えていた。代わりに、薄暗い地下室に荒い吐息だけが満ちる。
「…っ、…は、っ、はっ…」
呼吸を逃がそうとするがうまくいかない。腰を揺らして、押し付けてしまいそうになるのを耐えるだけで精いっぱいだ。膝立ちするリヴァイの足の間、その窪みにあてがいたくてしょうがない。セックスなんて知らない。知識もない。あのデカい化け物を殺す以外のことに興味がなかった。それでも本能で、このどうしようもない衝動をどう吐き出せばいいのかだけはわかる。嫌だ、ではなくいつの間にか「早く」と喉の奥で繰り返していた。早く。早くしてほしい。どうしたらいい。
白いものを指先に絡め、リヴァイが見下ろす。はあ、と艶に満ちた吐息をつき、リヴァイがその指先を自らの下肢に伸ばす。今や完全に腹についているペニスの、その奥に。エレンが欲しているその場所に。
「…頭からくっちまおうかって顔してんぞ、てめえ」
ぞろりと舌先で唇を湿し、おそらく指がそこに触れたのだろう。リヴァイがわずかにそのきれいな眉を顰めた。はっ、はっと浅く呼吸を繰り返す自分は、おそらくひどい顔をしているに違いない。餓えた犬のような顔。涎を垂らして、射精を耐えるあさましい姿。ぐちゅぐちゅと秘所を弄る水音が淫らでたまらない。
「兵長…っ」
「チンポからだらだら涎垂らして、しばらく見てろ。お花畑がみてえだろ?」
残酷な顔で、リヴァイがかすかに笑った。あの、幼いころ憧れていた人類最強の兵士とも思えない厭らしい顔だ。
「つっこまれるより、もっとひでえことがあるんだってことを教えてやる」
だからしばらくそこで見ていろと、リヴァイが小鳥がついばむのに似た口づけをしながら囁く。
これは罰なのだから。
「もう二度とこんなもの、ほしがらねえようにな」
************
「こむ…っ、こむっ、こむっ」
うなだれるジャンのつむじを見ながら、ハンジは小麦粉、という簡単な単語をうまく口から出せずにいる。腰が抜けそうになりながら立ちすくむハンジの目の前で正座して両手を膝の上に載せているジャンの顔に色はない。紙のようなというが、まるで今のジャンは透明なセロファンだ。正座するジャンを取り囲む兵士たちも似たり寄ったりの顔色をしている。
「こむぎこ・・・?!!!!!!!」
「すいまっせん…!!!!!!」
「こむぎこって、こむぎこ???!こむぎこってパン作るあれ??!白くてサラサラで、鼻から吸うとバフン!てなる、あの小麦粉???!!!」
鼻から吸ったことあんのかよとその場にいた全員が思ったが、今そんなどうでもいいことを突っ込める勇気のある兵は、たとえ調査兵団といえどもいなかった。重苦しい空気がその場を包み、息苦しい。標高3000メートルってこんな感じかもなと諸悪の根源であることを自覚しているジャンは絶望とともに考えていた。
「ど、どどどどどどーすんの、どーすんの…!!あれは実は小麦粉でしたぁなんて今更いえると思う??!いっそ本当にドラッグだったほうがよっぽどましだよ…!!」
壁外調査前日だとて、ここまで悲痛な空気にはなるまい。比較するなら、巨人の口の中で、かみ砕かれる一秒前というところか。いや、巨人ならばまだマシなほうだろう。巨人は人類最強の兵士と名高いあの男ほどの嗜虐心を持ち合わせてはないだろうから。
「・・・兵長は」
お怒りでしたか、とジャンが最後までいうのを待たずにハンジが絶叫で返す。
「ブチギレだったよ…!どーすんのあのオチビちゃんはさあ、育ちが悪い癖に変な倫理観もっててドラッグとかシンナーとかガスパン遊びとかそーいうの大っ嫌いで」
だから、ジャンが白い包みをエレンに渡していたと監視役の兵士から聞いた時も、ほぼ表情も声音も変えなかったが、その監視役の兵士が失禁し表にいた小鳥がいっぺんに飛び立つ有様だったという。
「なまじっか、エレンに期待してただけにねー。あれでも期待してるんだよ?死んだ魚みたいな目してるけど、結構自分と同じレベルで戦えるようになるんじゃないのかなーとか…言わないよ?あのオチビちゃんは言わないけど、そーいう顔してるから。私にはわかる!巨人化しなくても、エレンならいい兵士になると私も思ってたし。それが同期に麻薬渡されて、ポケットに隠したっていうから、正直失望もしたけど、やっぱりリヴァイからすれば怒りが勝ったみたい。『お前裁縫は得意か』とか聞いてきたから、どっかもがれてるかもね」
「もが・・・」
「それをいまさら小麦粉でしたぁ??言っとくけど私無理だからね。そういうキャラだけど、そういうキャラだというだけでまだ死にたくない。処女だし」
とんでもない告白をさりげなくして、ハンジが断言する。それはジャンにとっては死刑の宣告に等しい。
「あの、じゃあ、でも、それお、オレが、兵長に、い、い、いうんでしょうか・・・」
「ていうか」
ハンジは遠くを見た。
「…いまごろエレンは」
「ひっ」
冗談だったのだ。日頃生意気な同期の背中を食堂で見つけて、からかってやるつもりだった。人類の希望だかなんだか知らないが、かわいい幼馴染がいるわ、かわいい幼馴染がいるわ、うらやましくなんかない。いま憲兵の間で流行っているという薬物の噂は知っていた。確かに頭がお花畑になれるらしいが、ジャン自身はそんなものをほしいと思ったことなどない。恐怖を知らなければ、巨人と戦うことなどできまい。笑いながら食われた101期の少年兵の話は有名で、間違ってもそんなもの味わいたいとも思わなかった。だから、どちらでもよかった。エレンがビビッてクスリの袋を隠して右往左往するのか、恐る恐る夜の地下室で鼻から小麦粉を吸うのか。そんなエレンのしょうもない姿を考えただけで可笑しかったし、ネタばらしもちゃんとするつもりでいた。
…こんな大事になるなんて想像もしなかったのだ。
「あの、エレンは・・・」
今頃どんな目にあわされているのだろう。聞きたくはないが、聞いておかねばなるまい。
「アナルでグルテンかもね」
完全に冗談で言った内容が当たらずとも遠からずであることも知らないハンジの言葉に、真剣にジャンが絶望する。実際には意外としっかりとしたオリジナルの倫理観を持ち合わせているリヴァイのアナルでグルテンなのだが、そんなことが予知できる頭のおかしい人間はこの場にいなかった。15歳を犯すことは罪でも15歳に犯されることは法に触れないと思っているリヴァイの思考回路を理解することは難しい。
「ぐ、ぐるてん…!」
「イースト菌も一緒にこねればパン生地ができるね!」
「そんな…」
「いや、ほんとにドラッグだったほうがまだましだったよ。兵団を追放されるだけで済んだだろうに…こうなったらもう、きみにできるのは遺書を書くことだけだよ。エレン?…エレンのことはあきらめよう。ここからリヴァイ班のいる古城までどれくらいかかると思う?今更冗談でしたなんて言いに行ったところでもう間に合わないし」
せいぜいこれからエレンのために何ができるのか考えることだね、とぽんと肩をたたかれるジャンは今にも崩れそうな砂の城だ。
「残された命の限りね」
続いた