クッキー、チョコレート、鳥の羽みたいな綿菓子、ガラスみたいなキャンディは七色、ムースに、涙みたいなシロップ、悪い夢に似てるココア、甘い、匂い。
(チョコレートあげる)
小さいかじかんだ手のひらにチョコレート。甘い匂い。いい匂い。血の透ける白い指先が震えながら差し出すチョコレート。いい匂いでしょうと子供が傷だらけの顔で笑う。けれどリヴァイがその時考えていたのはその腐ったような菓子の匂いではなくその細い首筋に這う動脈のことだ。甘い匂い。いい匂い。かじりついて啜りたいとそればかりを考えて、子供の笑顔を見上げていた。
(お腹が空いているみたいだから、あげる。・・・僕はいいんだ)
蕩ける様ないい匂いをさせて、いつかの幼いエルヴィンはそうやって笑って手のひらを差し出した。幼子が渡そうとするチョコレートを受け取ることもできず、その首筋の下に這う血管のことばかり考えている自分は、なぜ生きているんだろうとそればかりを思った。
(おかあさんは僕をぶつんだ)
タバコの押し付けられた腕を恥ずかしそうに抱き寄せて、ちいさいエルヴィンは悲しそうにそんなことを言った。
じゃあ一緒にいくか?俺はお前をぶったりしないが、幸せにはできない。それでも?と気まぐれに問うと笑って、笑って、笑って。笑って、笑って、笑って、チョコレートの匂い、どぶみたいな、甘い匂い、滴るミルクがくるくるとコーヒーカップの中で回る。鼻先に滴るような甘い匂い。菓子を食べたかった。本当はお前が差し出した菓子をとって食べて、おいしいと言ってやりたかった。ずっと。菓子を食べたかったんだ。甘い匂い。(・・・・気が狂うほど甘い)。バスタブの中で身じろぎをして、沈み込んだ意識が急に引きずられるように浮上した。夢の続きだろうかと思ったけれど、頭の芯が痺れるほどいい匂いがして、ああ現実だと酩酊した頭で認識する。ぐうぐうと腹がけたたましい声で鳴いている。固まった手足で包まっていた毛布を押し上げ、バスタブの上に幾重にも重ねられた日除けのための板や布を避けた。浴室の窓はしっかり板をはり目張りをしてあるとはいえ僅かだろうと差し込む陽光は命取りになる。朝日にこの爪先の一端だろうと触れれば、簡単に紙のように燃えてなくなるからだ。甘い匂い。これは血の匂いだ。ああそういえば、エルヴィンが『狩り』に行くと言っていたっけと茫洋としながら思い出していた。いい匂い。腹が空いた。この町で最後の狩りをするのだと。ではエルヴィンは戻ったのか。いつの間に?声を、掛けてくれたらよかったのに。血の匂いに導かれるように鼻を蠢かせて、ふらふらとした足取りで浴室を這い出て廊下を辿る。いい匂い。いい匂いだ。何日ぶりの食事だろう。餓えて餓えて、しょうがない。は、は、と浅い呼吸をして、だらりと舌が垂れた。視界が血の色に染まりはじめて、灯り一つない真っ暗な廊下だというのにまるで煌々とネオンライトに照らされているのに似て埃さえ目に鮮やかだった。鏡を見なくとも虹彩が細く尖り始めているのが分かった。山羊の目。ガチガチと歯が鳴るのは、犬歯が伸びて互いにぶつかるからだ。血の流れない動脈が、興奮して顔面にすら根を張りいつもそれをおぞましいと思う。生きるためではなく命を啜るためだけに血管が蠢いて、まるでそれは死骸にたかる虫だ。意思に反して、ぐるぐると喉が鳴った。ブクブクと涎が泡になって零れて顎を伝う。エルヴィン、と名を呼んだつもりだったのに獣の形になったおとがいからはおグうぇ、え、ととても言葉にはならない唸り声だけがこぼれた。急いて手が震える。血の匂いはどんどんきつくなる。いい匂いだ。エルヴィン。
寝室の前で足が止まる。ここからいいにおいがする。あまくておいしいシロップ。どろどろと赤いウサギの目みたいに赤い。いいにおい。
ぎ、と古い扉を押して開ける。は、は、と浅く呼吸をしながらいつの間にか四肢をついていた。本当の獣のように音もなく、ベッドの上に横たわる男の全裸死体に近寄る。猫が獲物を狙う仕草で、飛びかからんばかりに背中を丸めて、そのいい匂いのするそれへとゆっくりと距離を詰めた。ベッドの上には冗談のように鮮やかな青いブルーシートが敷かれており、流れる血を一滴も零さずに死体の重みでくぼんだ中央へ集めていた。
じゅるりと舌なめずりをして、歩み寄る。こぼさないようにそっとブルーシートを踏んでベッドへ上がる。空腹のあまり正気ではなかった。死体の顔を確かめもせずにただ無我夢中で血を啜った。血の溜まるシートに直接舌をびちゃびちゃと這わせて、胸元が汚れようとかまわない。この飢餓が満たされるなら、なんだって。
どれくらいそうしていただろう。シートの上の血をきれいに舐めとり、死体の傷口に直接口を付けて、それでも足らず齧ってしまおうとその男の手首を手に取った。真っ直ぐ縦にぱっくりと口を開く大きな赤い傷からはまだ細く血が垂れていて美味しそうだ。その傷を横切る細い傷が何本も何本もあることにふと気が付いた。躊躇うようにそれは、小さく、細く頼りない。真横に切ったそれは新しいものも古いものもあった。どれも、致命傷というには浅い。縦に動脈を裂いた傷が多分、この男の最後の傷だ。傍らにはナイフ。
この老いて痩せた男。
彼はおそらく、何度も躊躇って躊躇って、横に幾度も切った後にナイフを動脈に添って突き立てた。
この傷は、自ら。
拷問でもしない限り、誰がこんな傷をつけることが出来るだろう。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぁ」
干からびた声が喉から搾りだされた。
男は死んでいた。冗談のように鮮やかな青色の上で、それはたとえようもなく静かな死だ。
エルヴィン。
抱えた腕をシートの上に置き、膝で男の頭元へ這う。紙のように白い顔をして、エルヴィンはもはや泣きもしなければ笑いもしない。涙の痕が幾筋も残る頬はべたりとシートに張り付いて、涎と鼻から垂れた黄色い汁が彼を死んでいるのだとリヴァイに声高に教えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・エルヴィン?」
(お前のために、この町で最後の獲物を狩るよ)
(この町で、最後の)
たぶん、彼は躊躇った。何時間も何時間も、このブルーシートの上でナイフを手に、たった一人で暗闇の中試すように何度も手首を横に切った。何度も何度も。恐ろしかっただろう。痛かったに違いない。どうしてこんなことになったのかと後悔して、誰をか何をかは知らないが呪っただろう。それでも最後には、腕を縦に裂いた。
一滴も零さないようにシートの上で、一人体を丸めて?ゆっくりと血が流れ出していく長い時間を恐ろしいほどの孤独の中で?
夕暮れが夜に変わるように彼はゆっくりと死んでいった。
「・・・・・・・・・・俺の、ために?」
呆然として、うなだれた頭を胸元に抱く。満ち足りた腹でそうか俺はエルヴィンを食ったのだと知った。チョコレートを差し出した幼い掌をとうとう捕まえてかじってしまった。ひとつ残らず、咀嚼して飲み下した。
「・・・・・・・・・ああ、」
どうしよう。どうしよう。食ってしまった。
(チョコレートあげる)
笑った顔が可愛いと思った。チョコレートを受け取り、ありがとうとただ言えるだけの生き物になりたかった。どうしよう。お前をとうとう食べてしまった。
どうして置いていった。この町を出ようといったくせに。
みしりと背後で床が小さく軋んだ。
嘘だろう。
「・・・・・・・・・・・・・・・あの・・・ねえ、だいじょうぶですか」
声をかけられるまで気が付かなかったなんて。
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エレン)
まるで全身凍りついてしまったかのようだ。手足が冷え切っていて、エルヴィンの首を抱きしめたその姿勢のまま振り返ることが出来ない。畜生のごとく食うのに夢中で、子供が一人忍び込んで廊下を歩いて、この部屋のドアを押し開けて、足元の床を軋ませるまで気が付かなかったなんてどうかしている。
「そのひと、どうかしたんですか・・・・?」
背後で戸惑っている気配がする。扉から足を踏み入れることが出来ずに、エレンが痛いほどの視線を背に注いで見つめているのが分かった。
エレン。そんな。
「・・・・・・あの、ごめんなさいこのアパート古くてコツさえつかんだら針金一本で開けられるんです。夕方様子が変だったし、・・・・・あなたは引っ越すって聞いたし、何回もノックしたけど返事もないし、もういなくなってしまったのかと思って、オレ寝られなくて」
忍び込んだ言い訳をたどたどしくエレンが繰り返していた。リヴァイが振り向かない理由を、勝手に侵入したせいだとでも考えているのだろう。
「その人具合が悪いなら・・・・ねえ、怒ってるんですか?」
まるでそうだとでも言ってほしいような乞う声音だった。すでにエレンも違和感に気づき始めていた。ベッドの上に敷かれたブルーシートとその上に全裸で横たわる老いた男、リヴァイが振り向かないその理由。
みしりと床が鳴った。一歩。一歩。確かめるようにエレンが歩み寄る。
「あの、」
「・・・・・・っ」
今、どんな姿をしているのか誰に言われずとも、エレンの金の双眸に映る己の姿を見るまでもなく、よくわかっていた。鼻の下から胸元までケチャップをぶちまけた様に真っ赤に染めて、山羊のように横に細長く瞳孔を尖らせている。牙と爪は肉食獣のそれだ。顔中に虫のように血管が這いまわり、化け物だと誰の目にも明らかだった。エレンが触れようと背中に伸ばしている指を、反射的に振り払った。何も考えられない。一瞬の驚愕の気配を知ることが出来ればもう十分だろう。目を合わせることは出来ない。あとを追うようにエレンが恐怖し怯えて悲鳴を上げる、その声を聴きたくなどなかった。あの、あなたが好きですと告げた潤んだような金の瞳が醜い化け物を映すことに耐えられない。獣が飛びずさる仕草でベッドから跳ねあがりそのまま、目張りされた窓をめがけて、両腕を交差させて頭を守る姿勢で突っ込む。名を呼ばれたような気もする。けれどわからない。確かめる術はもうないのだ。
「・・・・は、は・・・っ、は、・・・っ」
血まみれの姿で雪の上を獣のように四肢で走っていくリヴァイを、酔っぱらった老人が何度も目をこすりながら振り返った。深夜の幻だと明日になればあの老人は笑い話にするだろうか。そうならいい。これも悪い夢だったらどんなにいいんだろう。(朝目が覚めればエルヴィンがいて、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる)(俺はエレンに借りていたルービックキューブを手に公園へ行って)(二人で街灯の下で本を読む)(頭を突き合わせて、冷えた指でページをめくる)(かじかんだ指先が赤くて可愛い)(エレン)(「このアパートの壁は薄いから、ノックで合図ができるでしょう?」)(「モールスでいつでもあなたが呼べば答えるから」)(「これは?」とリズムを刻むエレンの指を真剣に見ながら、答えたらお前は正解と言って笑う)(「合図を考えませんか」とお前が)(「二人の合図。あとはモールス信号を使って」)(「ねえ?わくわくしませんかこういうの」)(エレン)(エレン)
「エレン・・・・・っ」
もう帰る場所なんかどこにもない。エルヴィンは死に、モールスは届かない。お前には聞こえない。お前にはもう二度と会えない。
獣の咆哮を誰が聞くだろう。全身を震わせた濁音の長く長い絶叫は、くぐもってひらりひらりと雪が舞う灰色の夜に消えた。
*******************
3か月がたった。あの日アパートの管理人は寒い早朝、ガラスの破片と血の跡を中庭で見つけた。見上げた部屋の窓が割れているのを見て、嫌な予感がしたのだと手に取った雑誌の記事にはそんなコメントが掲載されていたが、それが真実ではないことをエレンはよく知っていた。実際には、割れたガラスの掃除や面倒を厭って彼はすぐに警察を呼び、荒れた部屋の住人に片づけと退去を命じるつもりだったのだろう。虎の威を借る狐もいいところだ。警察は開いたままの部屋のドアから中へ入り、死臭を嗅いだ。管理人を伴って寝室へ入ると青いブルーシートの上に死体を見つけたのだという。それは老いた男の死体で、手首に深い切り傷があった。そのうちに何台ものパトカーが駆けつけて部屋中を探し回り、冷蔵庫の中に綺麗にラップで包んでしまわれていた遺体の一部と、空になった血液パックの残骸をいくつも発見した。この町で半年近く連続して起こっていた殺人事件の犯人だと、死んだ男の名前と顔はその日の夕刊の一面を飾った。全国ニュースにもなり、あの日からテレビ画面で男の顔を見ない日はない。この小さな町で起こった猟奇殺人は、いまだにいい話のネタとしてローカルニュースは新事実だ、男とすれ違った女のインタビューだと、まるでクリスマスかハロウィンのごとき華やかさで続報を嬉しそうに流し続けていて、それがまるで現実とは思えない。今も夢でも見ているようだとエレンはひとり居残る教室から、夕日を眺めながらぼんやりと考えていた。
もうすぐ春が来るというのに肌寒い。コートの前をかき寄せて、あの日からずっと頭の中で繰り返している光景を今もまた思い出していた。
細い肩に指を伸ばす。彼は振り返ってエレンの指を打ち払い、視線は合わない。鼻の下から腹のあたりまで白いシャツを真っ赤に染めていて、初めは彼がけがをしているのかと思い驚いて一瞬怯んだ。山羊によく似た尖った瞳孔が一瞬エレンの足元をさまよい、すぐに背中を翻す。追おうとしたけれど間に合わない。背中は遠くなって・・・・
「・・・・・・・・・」
ニュースや雑誌を暫く貪るように読んだけれど、その同居人について書かれている記事は驚くほど少なかった。近所の住人達のコメントやインタビューに小さく触れられているだけで、まるでそんな人間は初めからいなかったかのようだ。第一発見者であるところの管理人がゴシップ好きな主婦を集めて声高に男の個人情報を自慢気に披露し、このアパートへの入居記録は男一人だったと言っていた。じゃああの小柄な男はただの恋人で、ニュースを見て今頃怯えきってるんじゃないかしら表には出てこれないかもしれないわねえと女たちははしゃいでいる。何がそんなにうれしいんだろう。アル中の老人だけが、あの夜確かに獣のように四肢で走っていく血まみれの男を見たのだと怯えたように騒いでいたけれど、誰も取り合わなかった。爺さん夢でも見たんだろうとみんなが笑った。
エレンに何ができただろう。飛び出していった彼をすぐに追うことが出来ず、男の死体を前に呆然としていた。見たものを整理できずに、どのくらいそうしていたのかさえ思い出せない。彼を探さなければとようやく表へ出る頃には、彼の足跡はとっくに雪に埋もれて消えてしまっていた。死体のある部屋へ戻り、転がっていたルービックキューブを拾い、どうすることもできずに逃げるようにあの部屋を後にした。自室へ戻ってベッドにもぐりこみ、眠れないまま朝を迎えた。やがてけたたましいサイレンと赤と青のライトがカーテンの向こうで閃くのを、じっと息を殺して横たわったまま見ていた。
彼はどこへ行ったんだろう。今、何をして、どうしているんだろう。
あの時彼に指が届いていたら。逃げようとする背中を捕まえて、抱き寄せて、そして何を言う?
彼は多分、同じ生き物ではないのだ。彼が夜にしか出歩かない、出歩けない理由や、冷たい雪の上を裸足で歩き、シャツ一枚羽織っただけで鳥肌も立てずにいられること、そして血を啜るその理由は彼が夜の生き物だったからだと疑いようもなくそう思った。化け物だと誰が見てもそう思うだろう彼の姿を、確かにエレンとて思い出せばぞくりと背筋が震えた。なのに思い出すのは、あの血まみれの彼ではなく、ただ心細そうに俺を好きなのかと問い返す白い頬だ。恥ずかしくて目を合わせられず、彼のきれいな形の耳や頬ばかりを見ていた。キスをした。冷たい唇に舌で触れて、口中をなぞった。濡れた吐息で苦しそうにあえぐ彼がいとおしいとただそればかりを思った。
会いたいと思うなんておかしいだろうか?
同級生をナイフで傷つけたエレンを、周囲は腫物扱いで遠ざけた。教師は無視し、同級生はおびえたように遠巻きにエレンを見てはひそひそ何事かを囁いている。エレンが手のひらを刺した少年の報復を暫く警戒していたけれど、彼は事件のあった日から休学していて顔を見ることさえない。同居する縁戚の男は、しばらくはエレンを預ける先を探していたようだが面倒を見るよりもよほど手間も金もかかることに気が付いてからは、現状維持を選んで日常を取り戻した。エレンが朝目覚めれば冷え切ったスープとパンと、夕食のパンを買う金が僅かばかり置かれていて、そのことに不満はなかった。変わったことは一つだけだ。中庭の遊具に座って一人、どんなに待っても彼にもう会えないということ。
はあ、とため息をついて体を折り、机に額を載せた。帰ったって待つ人もいなければやることもない。中庭には誰もいない。彼に会えるかもしれないと、急いて駆けて帰る必要はもうないのだ。夕闇が色を変えて夜になり始めている。それをただ眺めていた。そろそろ帰るかと思い始めたころ、遠くでぎゃあぎゃあと笑い騒ぐ声が聞こえてきて眉を顰めた。うるせえなと立ち上がりかけて、名を呼ばれていることに気が付く。近づいてくる複数の笑い声が確かにエレンを呼んでいて、それは決して安穏とは程遠い。不穏な気配に、舌打ちをしてエレンは鞄を掴んで教室を出た。エレエエエン、おおい、でてこいオカマ野郎、と下品な笑い声とともに無人の廊下に男たちの声が響いた。足早に階下へ向かう途中で、否応もなく男たちの前を横切ったのは失敗だったのかもしれない。すぐに獲物を狩る犬のように男たちはエレンを追った。3人の男たちの内その顔の一つに見覚えがある。エレンがナイフで刺した少年の兄だ。ではこれは報復だろう。おそらく捕まればただでは済まされないことくらいわかる。待てこらと響く怒声に教師が気づけばいいと思ったけれど、期待した制止はどこからもない。面倒だなとくちびるを噛み、学校を出て表へと走った。切れた街灯が薄暗い帰路に添って立って並ぶ。後から追ってくる彼らから身を隠そうとその道をそれて森へ入った。荒れた道を駆け抜け、木々の間に紛れてしまえばいいと思ったけれど、追う彼らには、それは好機だったのだろう。
「つーかまえたぁあ!!!!」
先回りしていた男がエレンを掴んで引き摺り倒した。走っていた勢いそのままに振り回された小柄なエレンが、幹に頭を強打したのを見て男たちが笑う。大きく肩で息をしながら、男たちは転がるエレンを押さえつけた。初めから役割を決めていたかのように腕を一人が抑え、足をもう一人が抑える。少年の兄である男が、ゆっくりとエレンの腹の上に腰を落とし体重をかける。思わず息が詰まるエレンの顔の鼻先に顔をよせ、男は残酷に笑った。
「逃げられるとおもったか?ああ?」
「つうか女みてえな顔だな、お前の弟こんなオカマみてえなのにやられたのかよ?てめえの弟もオカマちゃんか?」
「るっせえな・・・こいつナイフ持ってるからな、気を付けろ」
からかう男の肩を殴り、エレンのコートのジャケットに手を突っこむ男の目は血走って興奮していた。乱暴にポケットを探られ、その無骨な指が欲しかったものを掴んで引き摺りだした。
「・・・ほらな」
「マジかよ。近頃のガキはこええな」
「てめえのせいで俺の弟は今右手使えねえんだ、どうしてくれるんだ?チンポも満足に握れねえんだぞ?」
「てめえが咥えてろ、くそったれ・・・っ」
吐き出すようなエレンの悪態に、二人の男が爆笑し、それに煽られたように少年の兄が拳で答えた。顎のあたりを殴られて視界が揺れる。口中を噛んだのだろう、血の味が広がって涎と一緒に口の端から垂れた。気を失うことを許さず、男は何度もエレンを殴りつける。
「ふざけんじゃねえぞ、クソガキ、おいおまえ口ふさいどけ」
「ああ、なにすんだよ?さんざん殴っといて今更口塞げって」
遅くねえ?と笑い転げる男たちを見もせず、男は暴力と血に興奮してエレンの腹の上に馬乗りになったままニヤニヤと笑っている。その股間が膨らんでいることに気が付いて、ゲロでもぶっかけてやりてえと苦痛の中で思う。
「指もらうんだよ。一本や二本じゃねえぞ?」
ぱちりとナイフの刃を弾いて、男がエレンから奪い取ったそれを見せつけるように取り出して見せた。白い刃の腹が暗がりにも輝いて、ぞっとする。本気だとわかった。
「や・・・め・・・っ」
もがくエレンの腕と足をそれぞれ押さえつけている男たちも、ひきつったように笑い、顔を見合わせている。
「きもちわっりいよ。レイプのが楽しいだろ?そういう予定だったじゃねえか」
なあと促す声には答えず、男は完全に常軌を逸した顔でニヤニヤ笑うばかりだ。
「押さえてろ。俺がやる。安心しろよ、いてえばっかりじゃ可哀想だからな。後でいい思いもさせてやる。ケツは使ったことあるのか?あるだろ?俺のチンポ咥えたら、女となんか寝られなくなる。腹が膨らむほどザーメンのませてやっから」
従わない男たちを待たず、男は自らの手のひらでエレンの顔を覆って塞いだ。やめろ、はなせと暴れて叫ぶエレンの罵声は掌に押しつぶされて、喉元でただの唸り声に変わる。ナイフの刃が親指に押し当てられる瞬間、みてはいられずエレンは思わず目を瞑った。壮絶な痛みを覚悟して待つ。
奇妙な音に気が付いたのは、男とエレンと、どちらが先だったのだろう。
夜の森にはただエレンの喘鳴と男たちの下卑た声、それだけだったはずなのに、いつの間にか夜に変わった森の中の空気が変わった。・・・・・羽音?
「・・・・・・・鳥?」
こんな夜に、と男が眉をよせ、口を開こうとした瞬間ふとエレンの足を押さえていた手が「消えた」。軽くなった両足に気が付いたエレンが馬乗りになっている男の背後を見る。確かに男がいて足を押さえていたはずなのに今は夜の闇が広がるばかりだ。どこへと思うより先に巨大な影が視界を横切った。ぎゃっと短い悲鳴が聞こえ、エレンの両腕を押さえていた男の気配が同じように消えた。少年の兄は何を見たのだろう。体を起こそうとしたエレンの腹の上で、顔色を変えて視線をヒステリックに彷徨わせている。
「なんだ、なんだよ・・・・?!ちくしょうなんだってんだっ、なんかいるっ・・・・・なんかいるっ」
暗闇の向こうで何かを咀嚼するような水音と啜り泣きが聞こえる。それもやがて止んだ。何か重い塊が暗がりに放り投げられて、幹にぶつかって落ちた。ドン、という詰まった音が聞こえて、それがおそらく男の限界の合図だった。めちゃくちゃに叫びながらナイフを手に男が立ち上がって森の中へ逃げた。体を起こしたエレンが目を凝らしても闇の奥は見えない。ただ悲鳴と、許して、と命乞いをする声だけが聞こえてくる。痛みに呻きながら、木の幹に縋ってようよう立ち上がる。哀れな泣き声を頼りに、森を辿った。闇になれた目が、やがてその姿をとらえた。
「・・・・・・ごめんなさ・・・・もうや・・・・・・やめてくれ・・・・・・・・・っ、っ、や・・・・・あ、あー・・・あーあー・・・・・あああああああ・・・・・あああ」
横たわる男の腹のあたりで、巨大な黒い影が蹲り蠕動していた。パキリパキリ、くちゃくちゃと粘った水音が泣き声に混じって聞こえる。
「おかあ・・・・・・おかあさん・・・・・・・ああ、あー・・やめ・・・・・たべない、で、・・・たべないでえええええああああああ」
幼子のように男は泣いてナイフを力なく空に掻いている。咀嚼し、啜る音がふと止んだ。荒い呼吸のままエレンはその黒い影の背中を見つめて、掛けるべき言葉を胸の内に探した。なのに思い出すのはくだらない、どうでもいいことばかりで。ルービックキューブ全部そろえてましたね、とかモールス信号覚えましたかとか、新しい本を借りたから一緒に読みませんかとか、そんなどうでもいいことしか浮かんでこなかった。本当はもっと話したいこと、話さなければならないことがたくさんあるはずなのに、何も浮かばないのだ。黒い影は身じろぎし、男の腹から後ずさった。
「まって・・・・っ」
なにか。
何か言わないと。
彼は行ってしまう。
この前みたいに。背中を翻して闇に消えるだろう。そしてもう二度と戻ってこない。今度こそ永遠に。それが分かった。どうしよう。何か言わないと。なにか。なんでもいい。なんでも。
「・・・・ねえ、今もキャラメル持ってるんです。このまえ、あげたでしょう?覚えてますか?」
影がまた後ずさる。また少しの距離が開いて、ぞっとした。
「二人で公園で話しててあなたがお腹、ならして」
唸り声と滴る音。影はまた一歩後ずさった。
「あれ、どっちがさきだったっけ、なんかおぼえてねえけど・・・・・キスしたでしょう?オレ、あの時すげえ恥ずかしくて。なんか、あなたの耳ばっかり見てた気がする」
いかないでと叫べば、取り返しがつかないほど彼が遠くに行ってしまう気がした。本当は泣き出したいのに、笑わなければと思った。
「・・・耳ちいせえなとか、ほっぺた白くてかわいいとか、そんなことばっかり考えて。キスへたくそだったのに、あなたが受け入れてくれたから、すげえ興奮して、なんかたまんねえって」
無理に笑った声音に、少しの嗚咽が混じって揺れた。みっともないと思ったけれど、早口でただ意味のない言葉を並べたてる以外に出来ることがなかった。
「キスなんかしたことがなかったんです。初めてがあなたで、・・・・・それがすげえ自慢」
「・・・・・・・・・・・・ちのあじが、して」
ぽつりとかすれた声が落ちた。頼りなく、か細い。迷子の子供みたいな声だとエレンは思った。
「おいしかった」
傷ついていたエレンの唇を吸ったのは血を味わっていたのだと教えられても、想像していたような嫌悪感はなかった。そうかと思い、おいしいと言われて喜びさえ覚えている自分に気が付く。
「・・・・・それでもいいです。それでもいいんだ。助けてくれたんですよね?オレのこと、みてたんですか?」
「・・・・・・・・みてねえよ」
「オレにあいたかった?」
「・・・・・・・・・・・・んなわけ」
「オレはあいたかった。あなたもそうでしょう?ねえ、そう言ってください。お願いですから」
みっともなく乞う鼻声に、戸惑っている気配がする。それはエレンがよく知る彼のもので、姿形が違ったとしても間違いなく彼だった。乱暴な口調とそっけない態度なのに、優しく、大人げない彼そのものだ。
「んなわけねえだろ・・・」
「それ、白状したのとおんなじ」
泣き顔のままくしゃくしゃに顔を歪めて笑い、エレンは虫の息で喘ぐ男の傍へ歩み寄った。力なく握られているナイフを手に取り、震える指で握りなおす。おかあさんとか細く泣き続けるその喉元に、力を込めて差し込んだ。肉に押し込む感触は、多分一生忘れない。体は何度かびくびくと痙攣して、吹き出た血が地面に黒く染み込む頃、男は絶命し、最早苦痛に泣くこともない。
「エレン、お前何を。なんで」
狼狽えたような声が可笑しい。立ち上がり、ふらつきながら影にそっと近づく。驚かせないように。小鳥を捕まえるようにそっと。
「顔、見せてください」
「・・・・っ」
「大丈夫」
異形の輪郭に指を伸ばし、今度こそ捕まえる。抱き寄せて小さな頭を胸元に抱きかかえれば、嫌がって抵抗するくせにその腕は力なくて愛おしい。顔中を血まみれにしたきれいな顔は、血管が這い牙が尖っていて、なのに美しいと思った。
「目が山羊みたい」
羞恥に顔をそらそうとするのを許さずに顎を掴む。滴る血を紅のように唇に引いてやりながら口づけると、男は驚いて身を引いた。
「なん、」
「かわいい。ねえ、知ってましたか?山羊って夜は黒目がまんまるですっごくかわいいんです。今度、見に行きませんか?」
「いかねえだろ・・・そんなもん。お前わかってるのか?俺は」
「一緒に行きます」
固く抱きしめ、耳元で囁く。これは願いではなく、決意だ。
「あなたを一人になんかしない。オレは人殺しの化け物です。これで、あなたと同じでしょう?」
「・・・・・・・・・やめろ、俺はいいから。一人でいい。おまえなんか足手まといで邪魔で」
「一緒に行きます。ねえ、お願いですから。わかったって言って。オレを」
おいていかないでくださいと小柄なその肩に目頭を押し付けた。熱いものが閉じた瞳から零れてやまない。濡れた感触に、驚いたように彼が揺れた。
「・・・・・っ」
「オレを置いていかないで」
「無理だ、そんなの、だめだ、だって、俺は、」
「あなたと居たい。いいと言って下さい。お願いですから」
「いやだ・・・・」
「どうして?」
「お前も置いていく。俺を、エルヴィンみたいに・・・・っ」
抗う体を無理やり抱いた。駄々をこねる子供のように拳で胸を叩かれても離してはやれない。泣き叫ぶのに似た悲痛な叫びがただ哀れだった。三か月。三か月だ。今までずっと一人でいたのだろうか。置いて行かれた捨てられたのだと傷口を自ら抉って痛みを味わうように、たった一人で。抱きすくめた肩があまりに細い。
「聞いて」
「俺を置いて、なんで死んだ・・・!」
「ねえ、聞いて。あなたは誰にも捨てられてなんかない。誰も置いて行ったりしない。あなたたちがいなくなってオレ、いろんな記事を読んだりニュースを見たりしたんです。でたらめなものも多かったけど、彼の遺体を司法解剖した医師が、死んだあの人は『病に侵されており余命は長くなかった』って朝のニュースでコメントしてた」
「・・・・・・・・・・うそだ」
「あの人が死んだのは、あなたが餓えてかわいそうだったから。あなたがオレを好きになったことを知ったから。・・・・・・安心、したから。もうあなたの手を離しても大丈夫だって。あの人があなたに望んだのは多分そういう普通のことなんじゃないでしょうか。あなたが誰かを好きになって生きていく、そういう普通の」
「・・・・・・・・ともだちだった、エルヴィン。・・・ともだちだったんだ。死んでほしくなかった。俺は餓えて死んだってかまわなかったのに」
「それは、あの人も同じだった。あなたに生きてほしかったんだ。・・・・・・ねえオレが好きですか?」
「・・・・・・・・・エレン、むりだ・・・」
「オレと一緒に生きてください」
温かい腕が強い力で、信じろと伝えるようにリヴァイを抱き続けた。ふと力を抜き、エレンの胸に頬をよせる。どくどくと鼓動を打つ心臓が煩いほどだ。その脈打つ音をモールスのようだと思う。これは信号だ。お前がここにいる証。二人だけの合図。一緒に生きようとエレンが言った。生きようと。生きることは難しい。リヴァイにとっても、おそらくこれからのエレンにとっても。けれどエルヴィンが「生きろ」と望んだその願いを、なぜだろう。今ならかなえられるような気がする。それが夢やおとぎ話のように美しく残酷だとしても。
「・・・・・・・・・ふたりで、いこう。オレが一緒に行ってあげますから」
生きていくこと。望むのはただそれだけ。この胸のモールスが止むまで。
終