さくり、さくりと、裸足の爪先が雪を食むのを背中で聞きながら、エレンは振り返ることが出来ずにいる。手元でナイフを弄びながら、切れた口の端を舌でなぞった。陽は沈み始めていて、夜は手元と闇を曖昧にする。吐き出した息が白く、背後に流れた。
「エレン」
 かけられた声に本当ならばすぐに振り向いてしまいたかった。約束はしていない。ただこの古ぼけたアパートの中庭で、気が付けば顔見知りになっていただけの相手だ。名前すら教えてはもらっていない。はじめは妙な男だ、邪魔だと思っていたのにいつの間にか彼がこうして声をかけてくるのを待つようになっていた。それなのに振り向けないでいるのは、盛大に殴られ、腫れた顔の傷を見られることが恥ずかしいからだ。たった今この瞬間までは彼に会いたいと思っていたはずなのに、それと同時に会いたくないとも思う。手元のナイフを静かにポケットにしまいながら、エレンはなおも俯いた。
「おい、エレン」
 冷えた声に、ようやく肩越しに、腰を掛けていた遊具を軋ませて振り返る。エレンが腰掛けていた錆びた遊具はかつて子供たちが群れて遊んでいたけれど、真冬のこの時間帯に中庭で遊ぶようなかわいそうな子供はいない。エレンにとっては人気のないこの中庭は居場所のない自宅よりもよほど居心地がいい場所だった。
「なんだてめえ、その顔どうした」
 白いシャツ一枚に細身のスラックス、足元は裸足。初めはずいぶん驚いた彼の姿に今はもう慣れてしまって、驚きはない。細い爪先が雪を踏んで痛々しいと、いまも直視はできないけれど。
「また負けたのか?」
 ほかの人間に言われていれば、即座に頭に血が上っていただろう。けれど彼の言葉に揶揄の響きはない。白い頬にひらりと雪が舞い、溶けて消えた。笑いもせず、苛立ちもせず、人形のような男は美しい顔をわずかに傾げて見せた。
「見せてみろ」
「・・何でもないです。というか、またってなんですか」
「またはまただろ。いっつもボコボコだからお前がもともとどんな顔してたのか、もう俺は忘れたぞ」
「ひでえ」
 苦笑して、エレンは傍らを明け渡した。かつては色とりどりだったであろう鉄の棒に積もる雪を払い、どうぞと声をかける。さくりさくりと、きれいな音を立てて歩み寄った男が隣に腰を掛けた。
 半年ほど前に、彼がエレンの住むアパートの隣へ越してきた日のことをよく覚えている。夜遅く、金髪の背の高い男の背中に隠れるようにして、小柄な彼はあの日もこうして遊具に掛けていたエレンを見もせずに、エレンの部屋の隣へ消えた。年の頃30は超えているであろう彼を、けれどエレンはどこか幼いと思う。それを教えてしまえば、たかだか15のガキがと口の悪い彼は許さないだろう。だから、そう思っていても口には出せなかった。
「また裸足じゃないですか。靴はいてください。見てるこっちが寒い」
「うるせえ、いいんだよ。気持ちがいいだろが」
「風邪ひきますよ、白い顔して」
「日なた嫌いなんだよ。俺の顔面で日焼けが似合うと思うか?・・・・ごちゃごちゃうるせえガキだ」
 心地よい悪態に笑うと口の端が痛む。僅かに顰めた眉に気が付いたのか、男が瞬きもせずに顔を覗き込むのに妙に気恥ずかしくなって、エレンは視線を落とした。いつの間にか灯された街灯の光が雪を鈍く反射させている。ひらりひらりと緩慢に雪が手元に落ちる。
「やり返さねえのか」
「やり返してないと思いますか?」
「思わねえが、だんだん傷がデカくなっていってんじゃねえか?」
「それは・・・・だから、勝ってはないんですけど負けてないというか、まあ、・・・」
「ガキの喧嘩だ、エスカレートしてんだろう」
「・・・・まあ、そうですね。頭に血が上るとダメなんです。手段を選べなくなって・・・」
 そもそもの始まりはもう思い出せなかった。この町へ越してきてすぐに、同じ学年の少年がエレンに目を付けた。つまらない言い合いだったように思う。生意気だとか女みてえな顔しやがってとか、両親が亡いことを悪しざまに罵られ、エレンが縁戚の男と同居していると聞けば、そいつと寝てんだろうオカマ野郎などと詰られた。そういうつまらない悪態が妙に気に障ったのだ。ぴりぴりと神経を尖らせて新しい環境になじもうとしなかったエレンへの罰なのか、少年たちの暴力はこのところエスカレートする一方だ。一人が二人、二人が三人に増え、エレンへの攻撃の手は緩むことなく、残酷にいたぶられた。
「黙ってやられてたら違ったのかもしれないですけど」
 抵抗すれば抵抗するほど彼らの頭に血が上り、容赦がなくなっていく。顔を殴られるようになったのは最近のことだ。それまでは腹や腕を周囲にわからないように痛めつけて満足していたのに、それでは物足りなくなったのだろう。
「オレ、やられたらやり返さないと気が済まないから今日はちょっとやりすぎたかもしれないです」
 寄ってたかって殴られている最中に、少年の一人がエレンのベルトに手をかけたのだ。ほんとに男かわかんねえだろチンポ見せろと下卑た笑い声をあげて冷たい床に押し付けられた。気が付けば、家から持ち出した小さなナイフを掴み少年の掌に突き立ててしまっていた。ポケットの中で硬く尖るナイフを意識して、思わず身じろぎをする。肉の間に突き立てるあの感触は、今も手の内にある。
「あんなに、するつもりはなかったんですけど」
 震えそうになる声を、うまく押さえつけることが出来ただろうか。
「・・・なぜだ?お前は正しい」
 本当に不思議そうに言うので。この人子供みてえだとエレンは少しだけ笑いそうになった。ズボンを引きずりおろそうとしたクラスメートにナイフで反撃する15歳は、誰から見ても異端だとエレンですらそう思う。やられたんだからやり返して何が悪いと心の底からそう思っているであろう男の言い方が大人げなくて可笑しい。大人はこういう時、ひどく嫌なものを見た顔で眉をひそめる。そして我慢することも大切だよとか、逃げることも勇気だとか、何か困ったことがあったらすぐ大人に相談しなさいとか、使えないおもちゃみたいな言葉を寄越して、エレンから目を背けるのが常だ。仕方のないことだとも思う。可愛げのない子供だと言われることにはとっくに慣れていたから。
「そんなこと言ってくれる人、多分他にいないですよ。センセはブチギレてぶっ倒れるし病院だ警察だって大騒ぎになって・・・まあ結局警察は先生とか向こうの親とかが嫌がって事故ってことになったけど。オレが同居してる親戚のオジサンも出張先に電話かかってきたってさっき電話ですげー怒ってたし、もう最悪」
 ははと笑ったエレンに笑い返しはせず、男はただ傍らにいる。
「なんかもう、さいあく・・・・」
 教師もエレンのひどい顔面を確認し、ひとまずはと家に帰された。けれどこれから自分がどうなるのかエレンには見当もつかなかった。同居する縁戚の男は、もう一緒には暮らせないと遠まわしに電話で伝えてきたし、学校にももう居場所がない。ナイフを突き立てられ同級生の前で泣きわめいた少年が、プライドを踏みにじられたその報復に何をするのか、いっそ楽しみですらある。次は殺してしまうのかもしれないと、何よりそれが、エレンには恐ろしい。腹の底に凝る真っ黒い生き物は、絡め取るようにエレンを捕まえて離さない。
「無理に笑うな」
 静かな声が雪にこもる。囁きのような男の声に感情は見えない。笑わなくてもいい、と重ねられた言葉にゆがんだ口元が苦く引き攣る。じわりと滲みてくる喉の奥の苦い疼きを耐えるのに必死で、すぐに言葉を継ぐことが出来なくなった。
「・・・っ・・・・・、」
「・・・よくやった。教えてやればいい。噛みつけば噛みつかれるってことを、甘えたガキどもは知らねえんだろう。体に叩き込めばそのうち向こうから逃げ出すんじゃねえか」
「・・・・・・・オレ・・・っ、」
「よくやった、エレン」
 くしゃりと掌がエレンの雪に濡れた髪を梳いた。慣れていない手つきで男に初めて触れられて、頬が熱を持った。彼が言葉足らずに、慰めようとしているのだとようやく気が付く。居場所がなかった。両親が死に、顔を見たこともない男のもとに引き取られ、自宅として与えられているアパートは空々しく、エレンにとっては寝るだけの場所だ。学校では獲物のように残酷にいたぶられ、誰もエレンのことなど気に掛けるものはいなかった。よくやったと、その優しい掌が触れて初めて、エレンは自身が餓えていることに気が付いた。
「・・・・っ、・・・」
 衝動だった。手繰り寄せるように傍らの体を抱き寄せ、きつく抱きしめる。うっすらと濡れたシャツが張り付いている薄い肩に顔を押し付けて、熱い息を吐いた。
「エレン・・・?」
 呼びかける声にたまらず、唇を重ねた。ぶつける様な荒々しい口づけに、ようやくふさがりかけた口の端が切れて、錆びた味が口中に広がる。戸惑うように腕を押し付けた男の抵抗が、ふと止んだ。
「・・・ん、ぅ・・・っ」
 腕の中の体から力が抜け、縋るように震える指先がエレンの肩を掴んだ。触あわせれただけの乱暴な口づけが、やがて深くなっていく。男の舌がするりとエレンの口中をなぞり、ゆっくりと唇を食んだ。滲みる傷痕に這わされた舌に、妙に興奮してしまう。血の味をむさぼるように、二人は夢中で唇を合わせた。
「は、・・・っ、」
 ぐぎゅるるるるるると突然間抜けに唸ったのが、男の腹だと気が付くのに数秒かかる。合わせていた唇を思わず解いて、エレンはきょとんと男を見つめた。少し息を乱した男が、何かに気が付いたように口元に手をやり、視線をそらすのを見て、思わず笑ってしまう。
「あはははは、す、すっげえ腹の音・・・っ、あははははは!ほんとですかいまの、似合わねえ・・・っ」
 雲か霞でも食って生きているかのように見える男の腹からそんな愉快な音が鳴るとは到底思えずエレンは笑い転げた。
「うるせえな・・・・腹減ってんだ、クソガキ」
 羞恥なのか、男の声が震えていておかしい。やはり自分はまだガキなのだとエレンは思った。先ほどまでの絶望が嘘のように今は高揚している。口づけ一つで、随分単純だと我ながら可笑しい。そして気が付いたことが一つ。
「キャラメル食べますか?すごくおいしいですよ」
「いらねえ・・・」
「腹減ってるんでしょう?一緒に食べましょう。・・・・オレ、」
 何を言おうとしているのか、その言葉がどういう結果をもたらすのかもわからずにただ、押し殺してはおけずに駄々に似た幼さで、エレンは躊躇わずにあなたが好きですと告げた。
「オレ、あなたが好きだ」
「・・・・・笑えねえぞその冗談」
 ち、と舌打ちをされても気にはならなかった。上着のポケットにしまっておいた菓子を取り出し、冷たい掌を掴んで、一つ渡す。
「はい、どうぞ」
 掌に落とされたキャラメルを男はじっと見下ろしている。
「え?食べたこと、ありますよね?ただのキャラメルですよ、味もふつうだし、」
「・・・・・・俺は」
「・・・え?」
「俺は女じゃないのに?」
 問われた言葉の意味が、エレンの衝動的な告白に対するものだと数瞬遅れて気が付く。
「それは・・・わからないですけど、どうでもいいことだと」
 か、と瞬間的に頬を赤くして、エレンは掠れた声でたどたどしい答えを返した。女だとか男だとか、彼に告げた好きという言葉の意味を深く考えてもいなかったせいだ。そっかそういえばそうだよな、この人男だったと今更ながら気が付いたような有様だが、けれどそれは些細な問題のように思えた。
「そうじゃなくて、女でも、男でもなかったら、お前は・・・」
「・・・・・どういう意味ですか?よく、分かりません・・・・・・・」
「お前は、それでも俺が好きだと・・・?」
 冗談にはできない真摯さで、死にそうなほどの悲壮さで男がそうかすれた声で呟いた。笑い飛ばすこともできず、エレンは居住まいを正して、今思う本当のことだけを口にした。
「・・・・・・・・好きです」
「俺を、好きだと?」
 まるで迷子の子供のように、不安に見えた。表情はいつもと同じ、まるで変わらない彼のままなのに、ガラス玉のようなその冷えた双眸の奥が怯えて揺れているのが見えた。少し指先が震えている。すっかり闇にとけた中庭で、二人、街灯の下でまるでこの世の終わりのように静かだった。雪が舞っている。時間が止まったみたいに、ゆっくりと。
「あなたと一緒にいたい・・・・・オレにはもうどこにも行くところがないから」
 縋るように、男の少し震えている指先を取った。どうしてだろう。彼のことなど何も知らないのに、同じほど、この男も孤独に見える。居場所がないみたいに。この世にたった一人、存在しているみたいに。

(オレと同じで)

「エレン・・・・、」
 その続きを聞くより先に、闇の奥から声がかかった。
「リヴァイ?」
 びくりと触れていた手を男が引いた。エレンは声のした後方を振り返り、そこに金髪の老いた男を見つけた。
「そこで何をしているんだ?やあ、家の者が世話になったね」
 金が抜けて白髪が混じる男の顔はやつれていて、その皺にまみれた張り付けたような笑顔に笑い返す気になれない。ああ、隣のとふと思い当たりエレンは頭を下げた。この男と話したことはない。いつも夜遅く出かけて明け方戻るこの男を、気味が悪いと大人たちが話しているのを耳にしたことがある。親子ほども年の離れた男二人で、なにやってんのかわかったもんじゃないと話す女たちの下卑た笑い声は不快だったし、真実は聞きたくもなかった。彼らは親子にしては似ていないし、以前、あの金髪の男は父親なのかと尋ねたエレンに、男は曖昧に言葉を濁したから女たちの話は当たらずとも遠からずだろうと思っていた。
「何を話していたんだい?」
「何も」
 立ち上がった男が、リヴァイが、雪を踏み男へと歩み寄る。
「エルヴィン、なんでもない」
 リヴァイ、と口中で確かめるように名をなぞる。名前をなんどか聞いたことはあったけれど、その度にはぐらかされたり、どうでもいいだろうとおざなりな返答をされた。初めて聞いた彼の名は、美しい響きだったけれどそれがこの男から発せられたことが不快だった。
「さあ、帰ろう。・・・・ああ、ところで君」
「はい」
「急だがね、私たちは明日には引っ越すことになったんだ。今まで、私が家を空けている間リヴァイと仲良くしてくれていたんだろう?彼は体が弱くてね、なかなか友達もできない。・・・助かったよ、ありがとう」
 なぜだろう、助かったよと言いながらそれが拒絶の言葉に聞こえて、エレンは思わず眉を寄せた。
「引っ越すって・・・?」
 険しいエレンのその声など聞こえなかったように男は踵を返しリヴァイの背を押した。
「じゃあ、失礼するよ。さあ、リヴァイ」
「・・・・・聞いてないぞ」
 戸惑うようなリヴァイの声に、確信する。男の敵意は気のせいではない。
「そうだ、言ってなかったからね。何か問題でも?」
「・・・・いいや、エルヴィン。何も」
「ちょっと待ってくださいよ、引っ越すってどこへ引っ越すんですか?」
 声を荒げたエレンに、張り付いた笑みで男はさあと答えた。追いすがろうとするエレンを一度だけリヴァイが振り返った。すぐに伏せられた視線に、ずきりと鳩尾が痛んだ。
 名前すら知らなかった。ようやく好きだと告げた。そしてやっと見つけた居場所が奪われようとしている。
「そんなの、認めねえ・・・っ」
 追いすがろうとしたエレンの襟首を、男が押さえつけた。冷たい目で見降ろされ、容赦なく拳が頬へ振り下ろされる。雪に飛んだ血が、まっすぐ伸びた。
「エルヴィン、ガキだぞ」
 咎めるようなリヴァイの声が聞こえないのか、膝をついたエレンを振り返りもせずに男は強くリヴァイの腕を掴んで引き摺り、アパートへ消えた。痛みと眩暈で追うこともできず、灰色の雪にエレンは蹲る。怒りにか凍えにか震える体を押さえつけて、エレンはポケットの中に固く冷えるナイフを思った。額に触れた雪が火のように熱い。噛みしめた雪が血泡と混じるのを睨みながら、獣のようにエレンは唸った。




 薄暗い廊下は黴の匂いが充満している。リヴァイは力のない両足を引きずるように、エルヴィンの背中を追いかけた。
「なぐるこたあねえだろ、ただのガキだ、あいつは」
「お前の秘密の友達か。私が外出している間、暇を持て余してあんなこどもと遊んでいたとは知らなかった」
 部屋の前でポケットを探るエルヴィンに、自分のカギを取り出して手渡す。それを受け取るエルヴィンは決してリヴァイを見ようとはしない。
「・・・友達じゃねえよ、あいつはさっきまで俺の名前も知らなかったんだ」
「そうか?その割には親密に見えたが?」
「・・・・・いきなり押さえつけられたんだよ、しょうがねえだろ」
 はあ、とため息を漏らして、リヴァイはカギに手間取っているエルヴィンを待って、廊下の壁に体を預けた。餓えた腹はとっくに限界を超えていて、こうしていてさえ眩暈に崩れ落ちそうになる。
「引っ越すってほんとか」
「・・・そのつもりだが?」
「なんか、はええな。今度は」
 深い意味などなかった。町から町へと移動を続ける日々には慣れてしまっていたし、冗談と同じほどの軽さで口に出した言葉だ。けれどエルヴィンにとっては冗談には聞こえなかったのだろう。回した鍵を引き抜いたその手で、腕を強く掴まれる。そのまま部屋の中へ乱暴に引き摺りこまれ、壁に叩きつけられる。抵抗はもとよりするつもりがない。打ち付けた背中に呻いて、力なく崩れ落ちた体の横に、男の靴底が叩きつけられた。床に落ちたリヴァイを、壁に両手をつき追い詰めた獲物を囲うようにエルヴィンは色のない目で見降ろした。
「早いと、思うか。六か月を。早いと思うのか」
「・・・・エルヴィン?」
「早くなどないさ、十分だろう。六か月この町で暮らした。六か月もこの町で狩りをした。18人殺して、お前に食わせてやったんだそれが早いか?!」
「・・・・・・エルヴィン」
「そんなにあの子供と離れたくないのか、もう寝たのか?なあリヴァイ、お前がさっきどんな顔であの子に口づけていたのか知っているか。目を閉じたあの子の顔の前でどんな浅ましい顔をしていたのか知っているのか。涎を垂らして餓えたけだものの顔で一滴ほどの滲みる血を啜って、どんな顔をしていたのか知っているか。餌を漁る薄汚い豚の顔だ、厭らしい虫の顔だ。それであの子にはちゃんと教えてやったんだろうな?何百年も生きて生きて生臭い血を啜り糞を出すだけの生き物だとお前はちゃんと言ったんだろうな?もちろん、言ったんだろう?なあ、知らないなら私が今から行って教えてやろうか、お前のこの白いおきれいな顔の下に這うのは血管なんかじゃない動いていない心臓だと、陽の光が触れれば焼ける皮膚と人を殺して永らえる穢れた命だと今すぐ教えてやろう、そうすればあの子供も目が覚めるだろうさ、自分が口づけた生き物の正体を知れば、どんな顔をするんだろうな?リヴァイ、お前はあの子が好きなんだろう?なあ、そうなんだろう?次はあの子か?老いて醜くなった私を捨てて、あの子と行くのか?あの若くて美しい子供に餌を与えてもらうのか。あの子もいつか私のように年老いたら、そうしたらまた餌をくれる誰かを探すんだろうお前は。なあ、そうなんだろう、なあリヴァイ、そうしよう、それがいい。そうしよう。そうしよう。なあ。リヴァイ、リヴァイ、リヴァイ・・・・っ」
 ぐしゃぐしゃになっていく男の顔は、随分と年老いた。そういえばエレンが親子ですかと言っていたっけ。年など忘れたよと笑うエルヴィンの誕生日を祝うことをやめたのはいつだっただろう。共に暮らすうちに疲弊していくエルヴィンの、皺と染みから目をそらしていた。自分だけがいつまでも変わらずにいることを思い知らされるから。
「エルヴィン・・・」
 伸ばした指先を振り払われるだろうかとも思う。嗚咽する男の体を抱きしめようと伸ばした腕に、エルヴィンは抵抗しなかった。膝を折り、エルヴィンが床にくずれ落ちる。労わるように二人で抱き合うのもずいぶん久しぶりだ。震える肩を、そっと撫でる。老いて少しだけ小さくなった男の背中をなんども幼子にするように撫でた。
 遠くまで来た。二人で。
 いいや、連れてきてしまったのだ。謝りたいと思うが、言葉が見つからなかった。男が犠牲にしてきた来たものの大きさに見合う言葉などない。
「エルヴィン」
「・・・・・いいんだ」
 それでも、名を呼ぶ響きだけで伝わった罪悪感に、エルヴィンがいいんだと言葉を重ねた。
「いいんだ、リヴァイ・・・・いいんだ。だって私はお前に心臓を捧げた。・・・・だから、いい。お前が謝ることなど何もないんだよ。いいんだ・・・・・」
「腹が、空くんだ」
「かわいそうに」
「腹が空いて何も考えられなくなる」
「・・・・・かわいそうだお前は」
 かわいそうないきものだとぽつりとエルヴィンが呟く。
「・・・・・後で狩りに行くよ。この町で最後の」
「・・・・・・エルヴィン」
「いい子で待っておいで。・・・・あの子には会わないでくれ。頼むから。頼む」
「ああ、エルヴィン。お前に従う」
「遠くへ行こう」
「・・・・・ああ」
「少しだけ眠る。そうしたら出かけるから、お前は荷造りをしていてくれ」
「わかった」
 よろよろと立ち上がった男は、老人の顔で涙の痕もそのままに隣室へ消えた。ベッドに倒れこむ音がして、やがて寝息が聞こえはじめるまでリヴァイは床に座り込んだまま動かずにいた。ようやく立ち上がる頃、ふとポケットにしまっていた小さな菓子を思い出した。肌に触れていてなお少しも溶けていないキャラメルを掌に載せて、かなしいなと思う。痺れた指でかさかさと白い包みを開いて、その塊を口に放り込んだ。ねちゃねちゃと粘土のような歯ごたえを噛みしめてから、無理やりに飲み下す。汚物を噛むようなその味に、すぐに嘔吐を覚えた。それでも吐き戻したくはなかったから、必死に苦痛に耐える。
「・・・・ぅ、え・・・っ」
 堪えきれない苦いものが喉元にせり上がり、よろけながら立ち上がった。バスルームに転がるように縺れる足で駆け込んで、洗面台に頭を突っ込む。げえげえと吐き戻し、胃液に混じった茶色い塊が排水溝に流れていくのを滲んだ瞳で見つめる。ぽたりと雫が白い陶器の洗面台を滑って排水溝に落ちた。
「げほ・・・っ、っぅ、」
 悲しくなどない。
 何も。
 ただ思い知らされただけだ。化け物だと何度も何度も何十回何百回何千回と、こうして生きている限り何度も思い知らされるだけのことだ。エレン。エレン。おいしいですよとお前がくれた菓子は、俺には汚物の味がする。エレン。
 好きですなんて、そんな資格は俺にはないのに、なんて美しい言葉をもらったんだろう。
 美しいことば。そんな小さな枷で、この穢れた泥のような命を捨てられずにいる。
 世界はうつくしいもので満ちている。
 同じほど醜いものが等しく存在しているように。
「エレン・・・」
 魔法の呪文のようなその名を囁き、リヴァイは膝を抱えた。
 それだけで鼓動を知らないこの心臓が、脈を打つような気がするから。
 たったそれだけで。
 まだ生きていても、いいような気がするから。