8       サラリーマン 








足元に長く伸びる影に、エドワードは気がついて目を上げた。オレンジと青の交わる美しい時刻だった。帰る生徒の数はまばらで、帰路へと誰もが急いでいる。箒で落ち葉を集めるその人は逆光で顔が見えなかった。けれど、それが若い男でひどく仕立てのいいスーツを着ていることがわかる。いや、それがわかれば十分だった。
「ロイ・マスタング」
 つぶやいたエドワードの声に、ロイが顔を上げる。やあ、と嬉しそうに微笑みながら、地面を掃く手を男は止めた。
「今帰り?」
「・・・・・・なにやってんの」
 呼び捨てをとがめず、若くしてこの学校の理事を務める男は暢気に箒をふってみせた。
「ごらんの通り」
 エドワードは険しく眉を寄せて男をにらむ。気を許してはいけない。この男はこう見えて、権力を笠にきて男子高校生をストーキングするド変態なのだ。「こう」見えて?どうみえるっつうんだ。
 エドワードは女子共がきゃあきゃあ騒ぐ男の容姿に関して、内心でその評価を認めていることが我慢ならなかった。ロイ・マスタングという男のすべてを否定したいのだ。詰り貶め汚らわしい存在でなければならないと、生来の生真面目さゆえか、かたくなにそう信じていた。
「そういうの、越権行為っつうんじゃねえの?用務員のじいさんはちゃんとまだ元気なんだしさ。人の仕事偽善ぶって奪うより、自分の仕事をしたらどーだよ」
 まるで毛を逆立てる猫のようだ、と自分で認識している。わかっている。ヒステリーを起こした子猫のようだと。おびえているみたいに。わかっているんだ。
「ええと・・・・エドワード、今日はいつにもまして手厳しいな」
 苦笑して、ロイは小さく首を傾げた。
「ではこういう話を知っている?ある犯罪多発地域でね、あるキャンペーンが行われたんだ。それ以来、その町では犯罪が激減した。どういうキャンペーンだったと思う?」
「・・・・・」
 チリ、と胸の内が焦げるように痛んだ。どちらかといえば『冷めている』というのが校内外におけるエドワードエルリックの評価だった。自分でもそれがよくわかっていたし、まともな友人など一人もいない。それと同時に激しやすい性格で、それが周囲が距離を置く要因でもあった。ロイの問いを考えもせず、芽生えた怒りのままに吐き捨てる。
「オレが知るか」
「今のは君らしくない答えだね」
 どきりとしてエドワードはうつむきかけた顔を上げた。オレらしくない?苛々と奥歯を噛む。
「町中を掃除したんだ。街灯の届かない場所をなくし、ごみを拾い、整備して落書きを消した。すると犯罪が減った」
「・・・・・・・」
「車をピカピカに磨き上げると人は一層『傷つけまい』という意識が働くいて事故をする確率に影響するらしい。掃除は人の心まで整えることができるみたいだね。どうだ、面白いだろう?」
 面白い、と思うことは、ロイマスタングを肯定することだ。苛々が収まらずに、エドワードはそのまま男の横をすり抜ける。早く家に帰ることだ。帰って作りかけのパズルと読みかけの本を片付けて、さっさと寝ること。夢も見ずにねむることだ。
「ではこれは知っていた?用務員のおじいさんが今腰を痛めていて、長く労働はできないこと」
 しるか。
 気づきもしなかった。オレはそんなこと。平気で廊下に泥を上げるし、グラウンドに生える雑草を誰が取り除いていたのかなんて知りもしない。
「・・・私も一介のサラリーマンだからね。できることとできないことがある。でもせめてできることをしたいんだよ。・・・・いいだろうか」
 後半は自問自答だった。呟きはエドワードに向けた言葉ではなく、彼の中でゆれている証だった。苛々する。ほんとに。ロイ・マスタング。越権行為だと彼自身が最も理解しているのだ。その影響を誰より懸念して、けれど『できること』を成している。
 振り返り、エドワードはドスのきいた低い声で恐喝するのに似て、一息に言った。
「そんで明け方まで書類の整理してりゃ世話ねえだろうが。生徒使えそんな掃除ごときっ。てめえはほんと無駄!てめえの権力ほんと無駄だなこの偽善バカ」
 一瞬の間。背を向けて早足で歩くエドワードに笑い声が届いた。ほめてるのか貶しているのかと。

(クソじじい)
(ほめてんだろーが)

 苛々しながらエドワードは、どうしてあの男に関してこんなに感情を揺さぶられるんだろうと自問自答し、するのをやめた。
 アイツほんとにむかつく。


 ロイはといえば、箒を掴みながら、案外脈ありなんじゃないかと、エドワードの背中を見ながら勃起していた。