さみしいよるのあな・零したミルク





 ばさりと投げ出された女の写真に、「見合い話か」と内心うんざりしながらロイはため息と悟られないように、ゆっくりと息を吐き出した。
「閣下、申し訳ないのですが私のような若輩の身ではまだまだ結婚など」
「だれと誰が結婚するのかね。君と私か?」
 いやそうに眉を寄せる老人の顔に、早まったことを悟る。
「見合い話では?」
「・・・・・君この女に見覚えはないのかね」
 さらにもう三枚、写真を机に放りだして、将軍職にある老齢の男はあきれたように肩をすくめた。新たに投げ出された写真には明らかにロイと思しき男が、女に微笑み林檎を手渡している。隠しどりとわかるその一枚を手に取り、ようやくロイは女の顔を思い出した。
「ああ!」
「思い出したようだね」
「角のパン屋の。いつも胸元の大きく開いた服を着て、やたら落し物をする女性ですな。このときも林檎を落として、かがみこむものだから『乳首が見えますよ』と」
「・・・・・要点だけ言う。諜報部から昨日この女の身元について情報が寄せられた。彼女はこの東方に潜伏しているテロリストの一員で、無害な一市民を装いつつ、東方司令部の要、焔の錬金術師として名高いロイ・マスタングを誘惑し情報を入手した後抹殺すべく、目下君を誘惑中とのことだ」
 見上げる老成した鋭い眼光に、いたずらに目を見張り、ロイは笑って見せた。
「それはそれは」
 随分とナメられたものだ。
「そんな成功率の低い作戦を実行するほど、テロリストというのは能がないのか切羽詰っているのか」
「そうかね?君は随分と惚けているように、私などには見えるがね。それとも目の錯覚か」
 老眼ではないでしょうか、とは流石に口にしない。自分がフェミニストであることは充分に自覚しているけれど、公私を混同するほど寝ぼけてはいないし、そもそもこんな女に誘惑などされるはずもない。自らがそこまで使えない人間ならば、いっそそのテロリストとやらに殺されて何の悔いもない。
「出来れば、人知れず拘束しておきたい。一市民として生活している以上、そのパン屋へ踏み込み、大騒ぎした挙句の捕縛ではテロリストにこちらの動きを悟られるだろう。ここへ」
 しわがれた指が、机に敷かれた地図の一点をさす。
「あらかじめ兵士を配置、誘き寄せて捕える。情報を聞き出し、テロリストどもを一網打尽にする。勿論ここまで誘き寄せるのは君の役目だ」
 つまらぬ作戦だなと内心鼻白んで、けれどロイは恭しく敬礼を返す。
「仰せのままに」




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「なんで大佐はー」
 茫洋と視線を車外へ泳がせて、ああとかうんとか適当にハボックの話に相槌を打つのにも慣れたものだ。頬杖をついて、あああの金髪は鋼のと似ているなあとか今日の晩御飯は何を食べようかとか運転席に座るハボックの後ろ頭に花を突き刺せば似合うのではとかくだらないことをぼんやりと考える。昼下がりの穏かな光が膝を暖めている。こんなうららかな陽気のなか仕事などしたくないものだな。そこへハボックが唐突に、今もっともロイにとって禁句とも言うべき名前を口にした。
「鋼の大将の前だとあんなにかっこつけるんです?」
「ハボック見てみろ。ハスジカツオゾウムシだ」
「・・・・もうちょっと自然にごまかせないんスか。アンタあの小僧の前だとやたらかっこつけるでしょ。なんでなんです?一点の非もありませんってツラして」
 自分のその悪癖には心当たりが大いにあった。顔をしかめて、ロイはごまかしきれないのかとため息を押し殺した。
「ものすごい他人行儀でしょ。鋼の大将にだけ。いや、他人なんスけど。でもあんな一分の隙もないような態度、あんまよくないんじゃないんですかね」
「・・・・・・よくないとはなんだ」
「だから、けっこう大将は気にしてるみたいですよって。・・・・ええと、この道をまっすぐ?」
 片手にハンドル、片手に煙草を携えてハボックが肩越しに聞く。それに頷いてから、もういちどロイはため息を押し殺した。周囲から見てわかるほど、自分の行動が不自然だったのかとしくしくと胃が痛んだ。
 鋼の錬金術師。エドワードエルリック。それは、その名はロイにとって最愛の人の名だ。
「はは、あんな小僧がどう気にしようがかまうものか。それで、鋼のが何を気にしてるって?」
「・・・・・・・なんだこの食いつきのよさ」
 あきれたようなハボックの声に平静を装うのが精一杯だった。
 内心、どくどくと心臓がうるさいほど高鳴っている。腹の底がずきずきと痛む。
 原因はわかっているのだ。
「この間の飲みの後、アンタちょっと消えてたでしょ」
「ハハハハハハハ、なにを言っているんだねハボック君、消えたり出てきたり乙女の腋毛じゃあるまいし」
「・・・・・・・ちょっと、大佐、ここはぶっちゃけていきましょうよ。もう乙女の腋毛とか例えが意味不明だし。鋼の大将がすきなんでしょ?」
「ハボック見てみろ、ヤマクダマキモドキだ」
「アンタねえ・・・いいですけど、そんな態度ばっかりとってたら、ただでさえ好かれてないのにより嫌われますよ。子供じゃないんですから。もういい年でしょうが。いまどき好きな子苛めるとか流行んないッスよ」
 嫌われる?ははははは。
「・・・・もう、何をしても手遅れだよ」
「なんか言いました?」
「いや、そこの角を右だ。白い看板のパン屋だ。ここでいい」
 車を寄せ、止めさせる。目的のパン屋の目の前に横付けしたのでは、あまりにあからさま過ぎる。今日の設定はあくまで休日のロイマスタングを装わねばならないのだ。久しぶりに身につけた私服はどうも違和感を覚えて仕様がない。いつのまにか軍服が普段着になってしまっているのだなとあらためて感心する。そうだ、私は軍人なんだ。国を担う、大きな野望も握り締めている。くだらない色恋に惑っている暇など、
「この間の大雨の夜、なんかあったんじゃないですか?」
「お前のその勘のよさが仕事にも生かされているのだと信じているぞ」

 なにか。

 大いにあった。
 胃が再びしくりと痛んだ。
 久しぶりにあびるように飲んだアルコールの勢いで、寝起きの部下(未成年)を押し倒しました。
「・・・・・・・・・・・死にたい」
「大佐?」
 愛しているとかかわいいとか繰り返して、なし崩しに関係を持った。夢にまで見たエドワードとのセックスは、ほんとうに夢のようにふわふわとしていて、酔っ払った脳みそは、まるでお互いが愛し合っているかのような錯覚をロイにもたらしてくれた。アルコールの勢いで押し倒して無理やり体を繋いだ後、二人で夜明けのコーヒーを飲んで、「実はオレもあんたが好きだったんだ」と鋼のが抱きついてくるという、都合のいい夢だ。都合が良すぎる夢だった。けれど現実はどうだろう。二日酔いの酷い頭痛に苛まれて目が覚めた。横で眠るエドワードの頬の、涙の後を見て血の気が引いたことを良く覚えている。頭から冷水を浴びせられたように。慌てて軍服を身にまとい、眠るエドワードを置いて逃げた。フラフラと覚束ない足取りで、一刻も早くエドワードのそばから離れたかった。怖かったのだ。逃げたとしてもあとで、職場で顔をあわせるというのに。けれど、ではどんな顔をして鋼のに「おはよう」と言えばいいのだ。だって、怒っているに決まっているじゃないか。そして、案の定鋼のの怒りは凄まじく、顔を真っ赤にして怒っていた。アルフォンスに促されてしぶしぶ口をきいてくれた。
 あやまればよかった。
 頭を下げて、あやまればよかったんだ。
 零したミルクは元には戻らない。なかったことにはならない。けれど、あの時思ったのだ。ああ、時間が元にもどるのなら。あんな乱暴な真似をしてしまった昨日をなかったことに出来たら。
 謝ることが怖かった。自分の過ちを認めてしまえば、それはエドワードに理由を与えてしまう。このロイマスタングを嫌う理由を。嫌いだと、彼の口から告げられるなんて、想像しただけで息が止まる。
 なかったことに、してしまいたかったのだ。
 なかったことになんてなるはずもないのに。
「大佐、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。狙撃班へ合流するのだろう?早く行け」
 得意の「仮面」をかぶり、ロイは平然と笑みすらたたえてハボックを促した。冷徹で有能な「大佐」の仮面。いつもエドワードへ向けてしまう、人でなしのふりだ。ハボックはそれすら気づいているんだろう。肩をすくめて、もう一度車に乗り込む。ポケットの発信機の性能を確かめてから、ロイは歩き出した。胃がいまもしくしくと痛む。
 土下座でもして、謝ればよかったのだ。
 最後に交わした言葉、エドワードの傷ついた表情が繰り返しロイを苛んだ。無理やり犯しておいて、何事もなかったように白を切って。エドワードがどう思ったのか、想像に難くない。
 胃が痛い。右手で胃の腑のあたりを摩り、発信機のスイッチを入れる。盗聴器はもうすこし後でもいいだろう。顔を上げて、ロイは目当ての女の姿を確認する。今日もうんざりするほど大きく胸の開いた洋服だった。テロリストたちの間で、私の女の趣味はああいういでたちの女性ということになっているんだろうか。ハボックと混同されているのではないだろうか。少なくとも私の好みは身長が小さくて金髪で口が悪くて頭が良くてすぐ手の出る国家錬金術師なのに。
「こんにちは」
「誰かと思った!やだぁ!マスタング大佐?今日はお休みなんですの?やだあ私服もかっこいい!」
・・・・・・・私の趣味とは一つもかすってない。何がやだぁだ。意味がわからない。
 八つ当たりに似た理不尽な怒りを押し殺してロイは精一杯微笑む。仕事。仕事だ。コレも仕事。
「いいにおいだね」
「あ、今だったらクロワッサンが焼きたてで、」
「いや」
 本当にこれでパン屋かと疑うほど派手な化粧と香水に内心辟易しながら、ロイは女の手をとる。
「君が。すごく綺麗な香りがするね。ところでいつも私が通りかかるたびに落し物をするのはどうして?」
 瞬時に頬を赤らめる女に、思わずこんなに簡単に誘惑されてテロリストが務まるのかと不安になる。
「君にお礼を言いたいといつも思っていた」
「・・・・お礼って・・・」
 爪が綺麗に切りそろえてある。そこだけは好感が持てるなと思いながら、鼻をつくような香水の匂いを堪えて女の手の甲に唇を寄せた。ちゅ、と軽く音を立てて触れれば、女がびくりと手をひくような仕草をした。その手を逃がさずに、引き寄せる。たしかに真昼の往来で少しやりすぎているなという自覚はあったけれど、こういうのは大げさなほうがいいだろうという計算と少々自棄になっていたことも否めない。
「私に君の落し物を拾わせてくれてありがとう。おかげで君を食事に誘うきっかけができた」
「まあ・・・・」
 どう考えてもやりすぎているなと思いつつも、面白く感じてきてしまい、どうにも口が止まらない。
「パンのおいしそうな匂いよりも、君の香りの方が強いようだね。食欲をそそるよ。よかったらこれから一緒に食事でも、」
「ずいいいいいいいいいいいぶん、楽しそうじゃねえの、マスタング大佐。あ?」
 どこのチンピラだと思うと同時に、聞き覚えのある声音だとロイは振り返ろうとした体が固まる。女の掌を掴んだままなのはわかっているけれど外し方がわからない。どこのチンピラというか、まさかこの声は、まさかこんな絶妙の最低最悪のタイミングで、まさか、
「こんなとこで善良な一般市民に猥褻行為か?軍ってのは随分退屈らしいなぁ。さっさと引退して、子作りに励んだほうがいいんじゃねえの?」
「なによ、この子。子供はあっちいってなさい」
 まさに運命の出会い。
「やあ君、こんなところで会うとはね」
 背中に流れる滝のような汗にどうか、だれも気づかないでくれと願いながらロイは得意の有能仮面に変身する。いやみたらしいと評判の笑みを口元にたたえて、両腕を組み凶悪に微笑むエドワードに向き直る。ああ、あんなに会いたかった鋼のだけれど、今だけは会いたくなかった。できることならば今この場で「この女はテロリストで、秘密裏に拘束するために目下作戦進行中なんだ」と次げることが出来たならどんなにか気が楽だろう。けれど狙撃班、諜報部、将軍という名のジジイどもが私の一挙一動を固唾を呑んで見守っている最中で、そんなことが口にできるわけもない。精神感応能力が都合よく目覚めでもしない限り、エドワードにとって私は、非番の日に善良なパン屋の女を捕まえてセクハラする変態でしかないんだろう。あああああああああああああ運命の出会い。
「君も大概無粋だな。こういうときは見ないふりをするものだ」
「あーあー、見ないふりしてやりたくてもなあ、こんな大通りで君の香りは食欲をそそるとかきめぇ台詞平気で吐いてるヤツがいたら、アンタだって正拳突きの一つや二つや三つや四つ、くれてやりたくなるのが人情ってもんだろが」
 吐き捨てるように拳をパン、と左手に叩きつけてみせるエドワードは完全にチンピラだった。けれどほれた欲目だろうか、久しぶりに見るエドワード・エルリックは何者にも変えがたいほど可愛らしい。そんなはずはないけれど、ああ、この怒りが彼の嫉妬だったらいいのに。
「嫉妬はやめたまえよ。醜い」
 嘘です嘘です嘘です神様、嘘です、エドワードが嫉妬してくれるなんて夢のようです神様、醜いどころか、もし嫉妬してくれているのならば毎晩十分間神様、アナタに感謝のダンスを捧げてもいい。
「嫉妬だと?んなわけねえだろ、この変態・・・っ」
 振りかぶる機械鎧の拳を受けて、振り払う。あああああああああ。嫌われる。
「子供はアッチへいっていなさい。すまないね、ええと、?」
「シリルです」
「そうシリル。邪魔が入ったようだ。場所を変えようか。君のことを色々知りたい」
「やだあ」
 

 それはこっちの台詞だ。

 





/続