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泥の腐ったような、鼻を突くにおいはスラム独特だ。オレ達兄弟はいつもひとところにいるわけではない。故郷や家と呼ばれるものをもっているわけではないからだ。でもあえて言うなら、この東部一最低最悪のゴミタメと呼ばれるこのスラムが、オレ達兄弟の古巣といって差し支えないと思う。しかしくせえ。子供の頭ほどもあるようなネズミが足元を駆けて、ゴミの山に突っ込んでいく。そのゴミの山から突き出た二本の枯れ木のような足は、おそらく、二三日前からここをねぐらにしていたバーさんだと思う。やがてネズミにかじられて、体中を腐らせてこのスラムにドブのような匂いをふりまくんだろう。
軍服はとうに脱ぎ捨てていた。兄者は似合っていたからちょっと勿体無かったけれど、祭りを抜けてしまえばわるめだちをするばかりで、あんなものいいことなどひとつもない。適当に忍び込んだ家から持ち出した衣類を身につけて、オレと兄者は縦に並んで先を急いだ。
「おい」
兄者が振り返り、オレを呼んだ。また迷子になるとでも思ってんのかな?
「ここで迷うほど、オレバカじゃねえよ?」
首を傾げてみせると、兄者は頬を一つなでてくれた。
「・・・・・・わかっている。ただ呼んだだけだ」
「・・・・・・・・・・へへ。あの、兄者、それもつよ」
頬に触ってもらったのが嬉しくなって、兄者に持たせていた先生へのお土産に飛び掛るように奪い取る。ずしりとした感触が掌に少し心地いい。袋の中身は不愉快だったけれど。あーくそ。いきたくねえ。
有り体に言うならば、奴はオレたちのかかりつけの医者といったところだろうか?あー。不愉快だ。
オレが物心ついたときには、既に奴はオレ達兄弟のなじみになっていた。腕はいいが変態だ。先生なんて間違っても呼びたくないが、兄者がそう呼ぶ以上オレは従わざるをえない。奴は兄者の弱みでも握ってんのか?それならぶっ殺すまでなのに、兄者は何度聞いても絶対にわけを教えてはくれない。オレも兄者の嫌がることはしたくないから、無理には聞かないのだ。
細い路地を通り、ゴミを蹴散らかし、曲がり、坂を下り、階段を上ったさきにある、建物の一室が奴のねぐらだ。看板もでていない、地味な営業だがたずねるたびに誰かしらいる。確かにこの腐ったスラムで、奴はそれでもまともな医者の部類に入るんだろう。
兄者の背中を追うように、オレはあとを着いていく。壁のひび割れた古い建物に入る。薄暗い明りもない廊下には、注射器や空の薬瓶、ハエのたかる真っ赤にそまった包帯が乱雑に放られている。
ノックもせずに、兄者がある一室の扉に手をかけた。押し開けると、それでも中は清潔にされていて、消毒液のにおいが蔓延している。いっそ病的なほどだ。光がさす白い床はあたたかで、照り返してくる。カーテンで仕切られた診察室の向こうに二人分のシルエットがあった。
「こんちゃーす」
兄者の後ろから、イヤイヤオレが声をかけた。兄者はそのまま患者の順番待ちにおかれたソファに腰を下ろす。相変わらず、一人でやってんのか。看護婦とか、そういやみたことねえな。アイツ雇った看護婦、かたっぱしから解剖でもしてんじゃねえか?
「あれ」
間抜けな声がして、カーテンが引かれる。逆光の向こうで、呑気に先生が笑った。診察台には女だ。金髪の、馬鹿でかい巨乳の、エロいねえちゃん。何しにきたかは一目瞭然だ。
「ひさしぶりですね。スライサー兄弟。今日はどうしました?妊娠した?」
朗らかに笑う顔がいけすかねえ。メガネごとぶった切ったらすっきりするのに。診察台の女が軽く眼をみはった。なんだみせもんじゃねえぞ。
「土産をもってきた」
兄者が無愛想にいうのに、先生はにこにことわらう。白衣の端々に点々と血が飛散っている。そうやって、座ってにこにこしてる分にはまるっきり世間知らずのお坊ちゃんといった風情だ。金髪碧眼というのがいやらしい。短く刈った髪も、清潔感を演出するためだとしか思えねえ。
「ほんとですか?うれしいなあ。僕はてっきりまた弟さんが妊娠でもしたのかと思いましたよ」
堕胎手術には定評があるんです僕、と先生がメスをくるくると指先でもてあそぶ。知ってらあ、ど変態め。
「ねえねえ、先生。スライサーってこの子達が?へえ、こんなかわいい子たちだったんだあ?」
女が診察台から、裸の爪先を床に下ろす。ぺたんと音がして、女は床に立ち、髪をかきあげた。
「えー。かわいいかわいい、弟くん美少年で、お兄さんは男前。一晩いくら?」
「てめ、殺すぞ」
歯をむいて威嚇するのに、女がわらった。くそ。
「ははははは、怖いわねえ。じゃあまた今度にしようかしら。ころされたら叶わないものねえ」
「いけませんよ、ちょっかいだしたら。お二人は愛し合っているんですから。邪魔をしたら三枚におろされますからね」
いちいち癇に障る言い方しか出来ねえのか、こいつは。いらいらとして拳を握れば女が笑った。
「私帰るわ。先生、また今度」
「はい。おだいじに。後出来れば今日は仕事をお休みしたほうがいいですよ」
「冗談でしょ?オマンマ食い上げ。処女みたいでいいっていう変態もいるんだから。血が出るくらい平気よ」
びり、と兄者の周りの空気が一変するのがわかる。表情も変わらず、姿勢もかわらず、知らぬものが見ればぼんやりと座っているようにしか見えないだろう。けれどそれに先生も気がついたらしい。苦笑して、女に手を振る。
「早く帰ったほうがいいですよ。本当に殺されてしまう」
「ははははは、またねえ」
いー!と口の両端を人差し指でオレは引っ掛けて女を見送る。ほんとにここにはろくな客はこねえ。まあオレ達も含めてだろうが。
「まあまあ。二人ともそう怒らないで。売春婦が嫌いなのか女性が嫌いなのかは知りませんけど。可愛い顔が台無しですよ」
「てめ、絶対オレらばかにしてねえか?!」
思わず怒鳴ったオレを視線でたしなめて、兄者がオレの手元を指差した。
「土産だ。受け取れ」
ああ、そうだった。思い出し、オレは紙袋を先生に渡す。
「これがウワサの軍人さん?」
放られた紙袋をうけとり、先生が首を傾げて見せた。はあ?!こいつの情報網はぜってー異常だ。
「違うけど。なんで先生そんなことしってんの?はやくねえか?今日の今日で、なんで」
「ふふふふふ。ひみつです」
笑って、先生はがさがさと袋を開く。何重にも布を巻き袋でくるんだ、男の頭部を先生が大事そうに取り出した。
「あれ」
「っだよ」
「話とちがいますね。結構綺麗じゃないですか。話によると、その異常者に殺された遺体は、おそらく五人分で、見る影もないほどバラバラのぐちゃみそにされてたっていうことでしたけど。これはきちんと刃物で切断されている。軍人さんの首じゃないんですか?」
取り出した頭部は、忍び込んだ家でオレがぶっころした男のそれだ。このスラムなら、いくらでも遺体は手に入りそうなもんだと思うが、それだけじゃ飽き足らず、この男はいくらでも解剖用の死体を欲しがるど変態だ。こうしてたまにお土産と称して、頭部なりをもちよれば、このど変態が変わりに情報をくれる。どういうつながりを持ってんのかしんねえが、その情報の精度はかなり高い。軍事機密を、まるで世間話のついでのようにオレたちに提供してくれることもある。ほんと、こいつど変態だ。
「だからてめえは、なんでそんなに早耳なんだっつうの」
「まあまあ。わ、なんですかこれ。飴?」
男の頭と一緒に突っ込んでおいた七色キャンディが、ぼたぼたおっこちた。血まみれのそれは白い床に綺麗な模様を描く。けけけ。
「オレからのお土産☆」
「・・・・・・たべろというんじゃないですよね?」
ひきつった頬に、少し胸がすく。この得体の知れない医者をすこしでも脅かしてやったと思えばこそだ。
「あたりめーだろー!オレの土産が食えねーってんじゃねえよな?ああ?」
「・・・・・・うーん。善処します」
さり気なく飴を爪先で蹴り飛ばして、先生は頭部をいそいそと部屋の隅の冷蔵庫にしまう。そして帰ってくるなり兄者に向き直った。
「ところでお兄さん、頬。治療しましょうか?」
「あ!そうそうそんなくっだらねえ、話してる場合じゃなかった。先生兄者の怪我、さっさと治療してくれよ。痕とかのこさねえで!」
頬は痛々しく、未だに傷が開いている。忘れていたわけじゃなかったけれど、オレはあわてて兄者に駆け寄った。先生の下へきたのも、兄者の治療が一番の理由だ。お土産は二番目。
「こんなことだろうとおもいましたよ。弟さんが、また頭に血を上らせてしまったんでしょう?さ。ここへ座って。浅い傷ですが、放っておくと破傷風になったりしますからね。とくにここはあまり清潔じゃない街ですから。しばらくは、こっちへ?」
「さあな。予定などない」
「相変わらずその日暮らしなんですねえ。まあそれもまたよしですかね。あ、ちょっと沁みますよ?」
治療が進む横でオレは心配でしょうがない。痛いんだろうか。痛くないはずがない。あああいつら、やっぱりもうすこし痛めつけてやればよかった。
「どうやって軍人さんを殺したんですか?」
先生がふと聞いてきた。話の合間に、ついでといった風で。
「ははは、潰した」
オレのその言葉の意味は正確に伝わったらしい。にがい表情で、先生は眉を寄せている。
「かわいそうに。まだ軍に入って間もない子達だったようですよ」
「喉笛潰して、頬肉を潰したら失神したぜ?あんな根性なくて、軍人なんかつとまんのかよ?」
「彼らは搾取されることになれていないんですよ。赤ん坊が悪魔に立ち向かうようなもんです。手加減をしてあげたらよかったのに」
手加減なんかできるはずがなかった。だって兄者を傷つけたのに。刀を使わずに、この指先であいつらの肉を握りつぶした。ぐちゃぐちゃに。この世で一番辛い死に方は失血死だろう。兄者を傷つけた奴は、血がゆっくりと押し出されて心臓が止まるまで、体の肉を潰されて身動きも出来ずに声も上げることすら出来ず、ゴミ箱の横で息を絶えた。そのくらいの罰は必要だったはずだ。
「でも気をつけないと。本当ですよ。今回の件でとうとう軍は重い腰をあげた」
「それどういう意味?」
「今までは、殺人鬼スライサーなど知らぬ存ぜぬで通して来た軍も、一度に五人の軍人をあんなふうになくせばやはり思うところあったんじゃないでしょうかねえ。軍の威信に関わるとかなんとか。近々国家錬金術師を頭にスライサー討伐部隊が結成されるようですよ。スライサー狩りですね。はい、おしまい。薬をあとでだしておきますから、毎日塗ってください。すぐによくなりますよ」
兄者の頬にガーゼをはりつけ、先生が笑う。こいつはなんで、そんな情報握ってやがんだ。兄者は平然として、言葉を返す。
「かまわん。火の粉は払う。それだけだ」
一瞬覚えた、びりびりと体の内側が焼けるような緊張がその言葉で掻き消える。
軍を敵にまわすことなんか、なんでもねえ。
でも兄者を怒らせたらどうしようと。おもった。
よかった。今日は確かに怒りにかられて、勝手なことをしてしまったから。
安堵をごまかすように、オレは先生に向きなおった。
「ほんとに先生ってなにもん?」
「ふふふふふ。内緒です」
手当てが終わり、兄者が立ち上がる。あ、まだオレの用事がすんでねえ。
「先生、いつものしてよ」
その言葉に、先生が厭そうに顔をしかめた。毎度のことなのに、こいつはいつまでたっても慣れねえらしい。唇を尖らせて、首を傾げる。
「・・・・ことわ・・・・・れないんですかねえ」
「あたりめーだろ。兄者の傷とおんなじの、オレにつけてくれよ」
兄者の負った傷を、同じように先生につけてもらうのは最早習慣といってもいい。本当ならこいつに頼らずに自分でつけてもいいのだが、それをやると兄者が怒る。いつも兄者の痛いのより余計に傷をつけてしまう、オレのうかつさを怒るのだ。ちえ。だって、痛みも同じじゃないと厭なんだからしょうがねえ。兄者がどのくらい痛かったのか知る必要があるんだから。
「いやなんですよねえ、僕医者ですよ、これでも。傷を作るのは専門外なのに」
「解剖大好きじゃねーかアンタ」
「死体を弄くるのはね。生きた人間にメスを入れるのはきらいなんです。君達じゃあるまいし」
「アンタこそ人を快楽殺人鬼みたいにゆーんじゃねーよ!」
「・・・・・・もう・・・わかりましたよ。じゃあ、隣の部屋で」
先生はオレの手を引いて立たせる。
「毎度思うんだけどさ、なんで別室なんだよ。えっちなことするつもりじゃねーだろーな?オレがかわいこちゃんだからって」
「あのね・・・・。残念ながら僕にはそういう趣味はありませんよ。君に傷をつけるといつもお兄さんが、殺気をおさえようともしないからじゃないですか。なんだか、そんなことで殺されるのは不本意ですよ、いくら僕だって」
いった端から、兄者は不機嫌そうに顔を背けている。
オレ愛されてるな?
オレ愛されてるな!
オレ愛されてるー!
すっごく!嬉しいけれど、でもこれは譲れないのだ。
「・・・・・兄者、でも一緒がいいんだもん」
とめられるはずもないと思っているのか、兄者は無言だ。いつもこれでオレは兄者の機嫌を損ねてしまう。
うう、ちょっと胸が痛む。
「兄者・・・・」
「さっさと済ませて来い」
そっけなく、突き放されるように、兄者に言われてしまった。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。変な風には切りませんから」
先生も厭そうにそう告げた。
「でも別料金ですよ、これ」
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