二日目





 消毒の匂いに怯えたのか、どれもこれもが白く、攻めたてるように子供には感じられるのか。軍服の端を握り、不安そうにエドワードはきょろきょろと視線を惑わせていた。ロイは、寝不足に頭痛を隠せずにいる。
「おはよう、エドワード君、昨日はよくねむれた?」
「・・・・・・・・・・・・・おれ、うん。ねた。ねえねえろい、まだ?おれもうかえる。おうち、かえろうよ」
 先についていたホークアイが、自然に膝をついてエドワードを見上げる。エドワードはけれど、目もあわせずに、ロイを引くばかりだ。ここがどこで、なにをする場所なのか、知らずに怯える聡さを今は賞する余裕がロイにはない。
「エドワード。何度も言っただろう?君は、いま病気なんだ。なおしてもらわないといけないんだよ」
 ともすれば尖りそうになる声を、なるたけやさしく、と努めロイも膝をつく。軍服を握る掌を優しく解いて、デタラメな三つ編みの頭を何度もなでる。頭の奥を疼かせる痛みをねじ伏せながらロイは笑う。
「私は仕事があって、それはどうしてもいかないと行けないんだ。わかるね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・だって」
「だってじゃない。仕事が終わったら、すぐに迎えに行くから」
「・・・・・・ほんと?」
「約束するよ。ほら、ゆびきりげんまん」
 小指を繋いでやると、ようやくその強張らせた顔をわずかに緩め、エドワードは無邪気にそれをふってみせた。
「あのねえ、じゃあねー、きょうのばんごはん、はんばーぐたべたいー」
「いいとも。お顔ぐらいの大きな奴をつくろう」
「えー!ぜんぶおれの?ちゅういにもあげる?ぜーんぶ?たーくさん?」
「ああ。中尉の分も。だから、エドワード、いいこにできるね?そうじゃないと、ハンバーグもお迎えもなしだからね?」
「はーい!あのね、おむかえぜったいよ、おやくそく」
 無邪気に笑うエドワードに、笑みを返して手を振る。では、まず簡単な身体測定をしますからと、看護婦がエドワードの手を引いた。それをホークアイと並んで見送り、ロイはようやく廊下に置かれた安物のソファに体を投げ出した。
 若い看護婦に手を引かれ、大声で笑うエドワードの姿は周囲の目を引いた。年齢以上に大人びていて賢かった子供に対する、今の全く間逆の人々の視線に、胸が詰まった。戒めのようにロイは口中で繰り返す。あの子をあんなにしたのは、この私だと。
「大丈夫ですか」
 流石にその顔色の悪さに、小言を堪えてホークアイが視線を正面に固定したまま問う。時折無遠慮ともいえるほど、彼女がふいにもたらす情は、今のロイには応える。
「実はほとんど寝ていない」
 苦笑するのにも、眼窩の奥が痛む。窓の外から朝日が差し込んで、忌々しいほどだった。
「・・・・・・母親というのは偉大だったのだな。情けないが、正直私には無理だったようだ」
「・・・・・・・・一朝一夕に勤まる仕事ではありませんから」
「全くだ。君とアルフォンスくんが私をきちんと攻めてくれたおかげで、昨日はそこまで落ち込まずにすんでいたんだがな。・・・・・・・・・・・私はばかだな。大人しく、アルフォンス君にエドワードを任せて置けばよかった。今の私は自己嫌悪の塊だ」
「いえ、あれはただの本音ですので、お気になさらず。昨夜何かあったんですか」
 上司だろうが容赦のない言い方をする、この部下にはいつも助けられているような気がする。エドワードに巻かれた包帯や、あの子の泣きはらした瞳をそ知らぬ顔をしないホークアイに感謝すらしながら、ロイは告白するきっかけを与えられる。
「酷くあたってしまったんだ。相手は子供なんだと、わかっているのにその我侭をどうしても許せずに。疲れていたとか眠たくてとか、そういう自分の都合だけでね。大怪我をさせてしまうところだったよ。取り返しのつかないような傷を、あの子につけてしまうところだった。あの子の、体に、これ以上」
 手足を取り戻すという、途方もない目的を持っていた子供の辛く長い旅を知っているというのに、さらに火傷を負わせてしまうところだったのだ。記憶まで奪っておきながら、さらにその上に傷まで。
「私といることは、あのこのためにならないだろう。アルフォンス君にお願いするよ。・・・・・・・自分勝手で、傲慢ないい様だが。全く、自分でしでかしたことの責任すらとらずに楽なほうに逃げているだけだとわかっているんだけどね。・・・・・・・・・・私には、無理だ」
「たった一日で、全てがわかるほど育児というのは簡単ではありませんよ?」
「君、隠し子でもいるんじゃ、」
 ないだろうね、とまで言わせるホークアイでは勿論なく、制服の下から銃口を上司へ向けて、続きを黙らせる。
「昨日育児書を読みまして。ですが、大佐、本当にそれでよろしいんですか」
 念を押されずとも、先ほどのエドワードの無邪気に信頼しきった表情を忘れたわけではない。けれど、一晩考えて出した結論だった。迎えに来ないとしれば、エドワードは泣くかもしれないが。しかしそれもしばらくのことだろう。明日には私のことなど忘れてアルフォンスに懐くに違いない。
「あの子の記憶が戻るのならば、何でもする。しかし、今あの子と一緒にいるのは無理だ。・・・・・エドワードを、私は傷つけてしまうばかりで」
 それに、なにより自分が犯してしまった事態のあまりの大きさを直視することは辛い。
 あの鎧の弟の体を取り戻すという、目的すら忘れて。無邪気に笑うエドワードなど。
「わかりました。ではアルフォンス君には私から連絡しておきますので。大佐は司令部へお戻りください。検査結果はご報告いたします」
「頼む。・・・・・ああ、あと中尉」
「なんですか」
「いくらかわいいからって、夕飯前に御菓子をやるようでは母親失格だぞ」
 にやりと笑うロイに、苦虫を噛み潰したように眉を寄せて、ホークアイは一矢報いた上司に敬礼をして見せた。
「・・・・・・以後気をつけます」
「よろしい」

 

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 仕事をしている間だけは、全てを忘れていられた。いつになく真剣に仕事をこなす、鬼気迫るロイの働きぶりに、周囲はかける声もなくただ見守るばかりだった。見かねてフュリーが休憩を促すまでは。「少し休んでください」といつにない言葉をかけられて、ロイは苦笑して頷く。体が限界に近いことは自分でもようくわかっていたからだ。けれど、今は体を酷使していることがロイには必要だったのだ。限界まで、意識を失う寸前まで、自分を甘やかしたりせず。


 これは罰だ。
 自分へ与える、精一杯の。
 エドワードを放棄した、自分への罰だった。
 この罰ですら、自分のためだとしっていたけれど。






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 引きずられるように、医務室へ放り込まれたのが、15時。そこからの記憶がない。
 医務室のベッドの上に転がったまま、視線を窓の外へと移す。夕日が落ちて、恐ろしいほど赤い。頭の中が妙にすっきりしていた。今は何時だろうかとぼんやり思う。
 検査は、もう終わっただろうな。
 今頃は、アルフォンスと宿だろうか。
 ハンバーグが食べたいといっていたけれど、あの子は晩御飯ハンバーグを食べることが出来たんだろうか。
 やけどは、酷くなっていないだろうか。
 迎えに行かなかったことを怒っているんだろうな。

 泣いただろうな。

「・・・・・・・・・・・・・」
 肌があわ立つような、落ち着かない気分で、ロイはようよう吐息をつく。胃を誰かに重く殴られたようだ。
 あの子供を、見捨てたのは自分なのに、こんな気持になるなんてずるい。


 走っていきたいなんて、ずるいことだ。

 ロイが目覚めたのを見はからかったかのように、医務室の電話が鳴った。しばらく待つが、誰も来ない。仕方なく、だるい体を起こして、受話器をとった。
「私だ。ロイマスタングだ。・・・・・・・なに?・・・・フュリー、もうちょっと落ち着いて喋れ。それで?・・・・・・・・」
『エドワード君が、病院で大暴れしてるらしいんですよ!!大佐、今からちょっと病院へ向かってくださいって中尉が』
「・・・・・わかった」
 なぜだ、とかどうして、とは問わなかった。
 頭のどこかでそれを期待していた自分がいることも事実だったから。
 支度を整えて、ハボックを運転手代わりにまっすぐ病院へ向かう。仕事が途中なのは、しょうがない、明日中尉に土下座でもして許してもらうしかない。気が急いて、イライラと膝をゆすりそうになるのを耐えるだけでストレスだ。早く早く早く早く早く。赤信号に舌打ち。渋滞に歯噛み。
 東方一の設備を誇る、軍の付属病院はすでに診療を終えて、恐ろしいほど静まりかえっていた。裏口の扉をもどかしく押し開けて、受付をハボックに任せて、ロイは教えられた部屋番号を繰り返す。奥まった場所に位置する病室の扉にすがりつようにしてノブを回して、ひきあけた。
「エドワード!」
 途端に、ベッドサイドに腰掛けていたホークアイにしい、と人差し指で沈黙を促されて、乱れた息のままロイは立ちすくむ。
「暴れ疲れて、さっきようやく眠ったところです」
「アルフォンスは」
「帰りました。僕がいると、連れて行かれるようで兄さんが怯えてしまうからって」
「帰った?」
「エドワード君は、大佐が迎えに来るのをずうとまっていました。誰がなだめても駄目で。約束したから待っていないと駄目なんだって。約束やぶったら、ロイが悲しいからって」

 ロイが、かなしいから。
 だから。
 駄目。

「ものすごい暴れようだったんですよ。なにをしても駄目で。最後にはアルフォンス君が鎧の腹部に閉じ込めようとしたんですけど、泣きながら暴れるものだから血印に当たりそうになるし、駆けつけた軍人を三人ノックアウトして。泣いて泣いて、手がつけられなくて。こちらの病室が防音なので、こちらに移動して、後はなだめてすかして。・・・・・・子供って、健気なものですね。子供にとっては、約束を破らないなんてとても簡単なことなんでしょう。私たちにはとても難しいのに」
 疲れた表情で、けれど美しい顔でホークアイが笑った。すべての女がもつ、美しい顔で。
「・・・・・・こうしていると、天使に見えなくもないですね」
 ふふ、と汗をかいた額を掌で拭ってやりながら、いとおしげに何度も涙の後をなで摩る。
 その光景に何故か言葉をなくして、ロイは呆然とする。
 こうしていてさえ、それは信じられない。
 エドワードが、そこまで自分に執着していたとは。
「・・・・・・・・・私は、エドワードに好かれるようなことは、なにも」
「あら、そんなことはないと思います。・・・・二晩一緒に寝てくれて、世話をしてくれて、・・・・父親になるといってくれた他人は、会って数時間程度かわいがってくれた他人より余程、彼にとっては大事だったのではないですか?今のエドワード君は、目覚めたら母親も父親も弟も誰一人知る者のいない、迷子みたいな存在ですから、少しの縁がなにものにも変えがたいほど大事なのではないでしょうか。賢い子ですから、平然と振舞ってはいても、本当はとても寂しいのでは?」
 むずがるように眉を寄せて、エドワードは小さく寝返りを打った。朝、ロイが結んでやったデタラメな三つ編みがさらにぐちゃぐちゃに乱れている。何時間も泣いたんだろうか。
 自分を求めて泣いたんだろうか。
「・・・・・・・・・中尉。席を外してくれるか」
「はい。大佐、書類は」
「・・・・・・・・・・・腿から下でよければ射撃の的になってもいい」
「遠慮します。思わず手がすべりそうにならないとも限りませんから。ではよろしいのですか、大佐」
「ああ。私が面倒を見るよ。・・・・それが、エドワードのためになるのならね」
「そうですね。・・・・何かありましたら連絡してください」
「来てくれるのか」
「ハボック少尉を向かわせますので」
 冷淡に笑い、ホークアイは席を立った。彼女が出て行った室内には子供の乱れた寝息だけが残る。
 泣きつかれた子供の傍らに立ち、ロイは言葉をなくす。
 赤く腫れた目じりがかわいそうで、衝動的に唇を落とす。
 
 この子供が。
 私で、いや、私がいいというのならば努力しよう。
 泣かさない保証も失敗しない保証もないけれど、それでも努力しよう。
 間違いながら、けれど、諦めたりせずに。

 恋人は、ロイが見たこともないほど瞼を腫らして、ただただ眠り続ける。
 無性に、エドワードに会いたいと思った。あの口の悪い、けれどいとおしくてしょうがないあの少年に。
 眠る、恋人の顔そのままなのに。
 くちづけを頬に、瞼に、額に、降らせる。
 眠るエドワードによくこうして唇を触れさせていた。
 思い出して、唇に小さくキスを落とす。
 エドワードはわずかに身じろぎする。その唇が、わずかに動いた。
 聞き取れないほどかすかな声で、何かを呟いて、再び寝返りを打つ。
 けれどロイは確かに聞いたと思った。
 「ロイ」と呟いた。
 その頼りない声音に、腹の奥が熱くなる感覚を、ほとんど条件反射的に覚えてしまい、それと同時に恐ろしいほどの嫌悪が襲う。
(今なにを考えた、私は・・・・・)
 体を引いて、ロイは眠る子供を見下ろした。
 夕日に血のように赤く染まる白い頬を見下ろして、いつまでもそうしていた。