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鼻先に汚物をぶら下げられているような臭気が常にある。匂いがうつっただろうなと思いながらも、コートの袖を嗅ぐことを堪える。エドワードは眉をこれでもかと寄せ、その凶悪な顔面作りに余念がない。小柄ながらすれ違う男たちの誰よりも胡乱であることは否めなかった。なによりその真っ赤なコートはこれでもかと悪めだちをする。しかもその数メートル後ろに巨大な鎧のお供付だ。これで、スラムで目立つなというほうが無理な話だった。
「アル、ついてくんなっつってんだろが・・・・!!!!」
鋼の錬金術師だ、あれが鋼の、うおでけえな(確実にアルフォンスを鋼の錬金術師だと間違えている)、こんなスラムに国家錬金術師がなんのようだと先へ進むたびに囁かれてはたまらない。エドワードはようやく弟を振り返り、低く怒鳴った。かみつかんばかりの表情で。デタラメな施工をされ建て増し建て増しの建物の狭間は薄暗く、向き合う兄弟をまるで運命の果し合いのような演出をしている。けれど兄の毛を逆立てたネコのような態度をものともせずに、弟は呑気に距離をつめた。
「ああおいついた。なんで先に行くのさ兄さんってばかだね」
「おまえな・・・・・一息もつかずに今いっただろ・・・・!」
「だって兄さんってバカなんだもん」
あっけらかんとしたものの言い様に、反論する術がない。それは先ほどからエドワードが自分に対して抱いている感想そのものだったので。エドワードは周囲に聞こえるほど盛大に歯軋りをして、うっかり手にしていた新聞の切り抜きをぐちゃりと握りつぶす。
「・・・・それも図書館の新聞を勝手にだまって切り抜いた記事だし?」
いっけないんだあ、とわざと幼い言い回しで兄を責めるアルフォンスの、性格がいいとは果たして言いがたい。いや、いい性格をしているというべきか。わざと兄を煽る表現を知り尽くしたアルフォンスならではだ。案の定エドワードは、即座に切れて、「てめえいい加減にしろネチネチと!」と出してはならない手を出してしまう。喧嘩して勝ったことがないことをいとも簡単に忘れて。鎧の首の部分に伸ばした腕をあっさり捕まえられて、さながら捕獲された小猿のようにぶらりと宙吊りの憂き目にあう。
「てめ、こらっ、はなせアルってめえ兄ちゃんをなんだと・・・っ」
「悪いことしたのに謝らないでしかも、逆切れするような兄ちゃんを持った覚えはありませーん」
「はあ?んだよ、おまえには関係な」
「くないよ。あの後僕がどれだけ恥ずかしい思いをしたかわかる?兄さん、ああいうの、よくないよ。・・・・・ほんとはわかってるんでしょ?」
ぐ、と言葉につまり、エドワードはアルフォンスから視線をそらす。なんだってこいつは一から十まで正論を吐くんだ。そんなことはない、と大声で反論してやりたい。おまえはあいつがオレになにを言ったかしらねえからそんなこといえるんだと叫んでしまえたらどんなに楽だろう。けれどそんな告白が弟にできる訳もなく、エドワードは言葉に詰まる以外に選択肢を持たない。
あの女たらし、最低、色キチガイ、淫乱ジジイ、色情狂のエロ狸。
あんなヤツ。あんなヤツになにいったっていいんだ。人に告白しておきながら、女に手えだすようなクソったれにオレがなにを恥じる必要があるんだ。
思わず瞼の裏が熱を持ち始めて、エドワードは無理やりにアルフォンスの腕を振りほどいた。そして、先ほどと同じように歩調を速め、アルフォンスの先を行く。
「ついてくんな・・・っ」
ロイに、先日殴られた右頬が今も熱く痛むようだった。じんとそこから痺れが広がり、エドワードは唇を噛む。
あんなヤツ。あんなヤツ。あんなヤツ。
「しねロイマスタング・・・っ」
物騒に口中で唸り、エドワードは奥歯を強く噛んだ。
あれはいつだっただろうか。まだ肌に触れる空気が切れるようにつめたい季節だった。東部を訪れていたエドワードを食堂で見つけた上司が、よかったら司令室で一緒に昼食でもどうだと誘った。それが一番の始まりだったように思う。だだっぴろい食堂で一人でパンをかじるエドワードは、確かにその食事を味気なく思っていて、ちゃんと暖房の入った男の職場でココアを出すよと言われて一も二もなく頷いたっけ。
「時に鋼の」
「あ、ちょっとそのメンチカツ一切れな」
「あっ、とっておいたのに・・・」
「みみっちいこというんじゃねえよ、なんだよ金か?あ?いくら払えば言い訳」
「・・・君ね、そういうのよくないよ、なんでも金銭で解決しようっていう」
「うるせえな、なんだよ返そうか?吐けばいい?ここで」
「・・・・・・汚い子だね、君のココア、ココア抜きで作ろうか?」
「あほか、牛乳汁になんじゃねえか、しね」
「しねって」
「で時になんだよ」
がつがつと目の前の昼食を片付けるのに夢中なエドワードは視線を上げる余裕もない。机を挟んで向かい合いながら、男の膝が視界の端にあった。何の気なしにココアを掴み、顔を上げる。飲みながらロイを見ると、男は食事を取る手を止めて、フォークを片手にひどく恐ろしい発言をした。それを聞いたときは冗談だと、エドワードは思った。
「つきあわないか?私たち」
「ぶぼっぐべぼべえええぼっ」
「ちょ・・・・・・・あー・・・軍服が・・・・・・」
頭からココアを被り、男は情けなさそうに眉を下げた。
付き合う?どこへ?
「どこへとか言うのは野暮だよ鋼の。どうだろう。私と付き合わないか」
「っほ・・っげほがほほがえげええっ」
「そんなにむせなくても。今、好きな子とかいるのかね」
きれいにたたまれたハンカチをポケットから出し、頬を拭いながら男は呑気に問うた。なんだこいつイカれたのかとエドワードは絶句する。咳が収まってなお、なんと言ってよいかわからず、エドワードはまじまじと男を見続けた。
「見すぎでは?」
「・・・・・・・・・つきあうっつった?」
「いったな。なあ、鋼の、好きな子は?」
「い、いませんけど」
なぜか敬語になりながら、エドワードは混乱し狼狽した。なんだこいつ。なにいってんの?
「そうか。では、もし君が・・・・・・たとえばだよ。人寂しい夜があったとして」
「落ち着け、落ち着けロイマスタング。大丈夫か、変なもんたべたか?メンチカツ食ったから意趣返し?」
「私はひどくまじめだよ。まあ聞きたまえ。君が人寂しい夜があって、誰かと過ごしたくなった時、よければ私のところにきてほしい。・・・・どうだろうか」
「どうだろうかっつわれても、なんだそれ・・・人寂しいってなんだ、同じ言語とはおもえねえな」
「そうかな。・・・・なんといったらいいだろうか。困ったな。こういうのは苦手なんだ。・・・・私はね、実は君たちの後見人として成長を見守ってきた訳である種父親のような気分でいたつもりだったんだが、どうやら違ったらしい。・・・・まあ気がついたのは最近なのだが、君がなんだか好きみたいなんだ」
「おおおおおおおおおお??!!」
「君の反応はいちいち私の予想と違うな。どこがどうすきかとかは、まあおいといてだね」
「そこが一番重要だろが・・・・!」
「や、まあおいておいて。・・・・・考えておいてくれないか。それから、覚えておいてくれ。私が君を好きで、・・・君を思っていることを。返事は別に急がないし、君がその気になったときでいい。君はまだ15歳だろう?気長に待つつもりなんだ。これでも。大人だからね。けれど一応先約をしておこうかと思って」
穏やかに男は笑い、呆然と口を開いて、メンチカツとココアのミックスされた凄まじい物体をこぼすエドワードに新しいハンカチを差し出した。それを受け取るエドワードのかすれたありがとうの言葉に、ロイは済ましてどういたしましてと答えた。
「君が誰を好きになってもかまわない。ただ、私の気持ちを覚えておいてくれると嬉しい。そうして、できれば好きになってくれたら嬉しい」
「あ、はあ・・・・まああのう・・・・・・そうっすね・・・・・・・」
あのときの気持ちを、エドワードは覚えている。脳が煮えるようだった。芯までのぼせて、男の前で平静を保つのが精一杯だった。男が自分に対する気持ちを口にしたのはあの時きりだ。今となっては夢だったのではないかとすら思う。それから幾度か東部を訪れたけれど、男は平静そのもので、まるで以前と変わった様子はなかったから。けれど時折、目を細めて遠くからエドワードを眺めるロイの視線に気がつくことがある。そういうときに、エドワードはああそういえばあいつはオレのことすきなんだっけと思い出しては頬を熱くしていた。いつまでもいつまでも、ロイは自分を思っているのだと思っていた。エドワードはロイを好きだと思ったことはない。だからこそ、自分から何かを仕掛けようとは思わなかった。ただいつまでも変わらないで、男はエドワードを好きでいるのだと思っていたのだ。約束というにはあまりに曖昧なあの時の応酬はいつまでも有効なのだと。
「結局そう思ってたのは、俺だけだったってことなんだよな」
口の中に錆の味が残る。どこかを切ったのかとわかる。
悔しい。恥ずかしい。みっともない。バカにされた。結局あいつ、オレのこと好きなんかじゃないんじゃねえか。オレに好きだとかつきあおうだとか人寂しい夜は来いだとかいつまでも待つだとか都合のいいことばっかりいいやがって。からかって遊んでたんだろ。どうせ。オレのいないとこで「本気にしてるよあのガキ」なんてあざ笑ってたんだろ。オレに見えないとこで女とあそびまくってやりまくって、オレがあんたに対して挙動不審になるのを楽しんでたんだろ。しかもせっかくの手がかりなのに、除け者にしようとしやがって。なにが公私混同だ?それはてめえだろうが。オレは絶対に間違ってない。悪いのは全部あのエロジジイだ。手足を取り戻すために俺たちがどれだけ苦労してきたか知ってるくせに。スライサーだかなんだかしらねえが、オレが負けるはずない。絶対に、うまくやれるのにどうして退かなきゃならない?
「しねロイマスタングしねしねしねっ」
・・・・・・・・・長い旅の途中に、ふと目の覚める夜中。
男の顔を思い出すこともあったのに。
「しねっ・・・・・」
ぎゅうと拳を握り、エドワードは喉元にせりあがるものを無理やり飲み下す。辛い夜に、あの言葉を思い出してはお守りのように感じていた。「寂しい夜はおいで」。いつ行ってもいいのだと、そんな温かいものを人から渡されたことがなかった。好きだとかどうとか、つきあうとかどうとかそういうことはともかく、ロイはエドワードがそれをどれだけ嬉しく思っていたのかを知らない。知っていれば、あんな裏切るようなまねはできない。できるはずがない。
いいさ。あいつがオレを邪魔者扱いするんだったら、アイツには頼らない。
オレが、自分の手でスライサー捕まえてやる。錬成陣の秘密も絶対に解き明かす。
(それなら文句ねえだろが)
鼻をあかしてやる。出し抜かれて、おまえがバカにしてるガキに手柄掻っ攫われてせいぜい歯噛みするがいい。
「ぜってえええええまけねえからなああああっ」
突然叫んだチンピラまがいの少年の怒声に、野良猫が驚いて飛びずさった。
エドワードの掌の中には、スライサーの犯行だとされている連続殺人に関する新聞記事の切り抜きがあった。軍からの情報提供は一切期待できない以上、自分の足で、せめて犯行を辿るしかない。エドワードが今向かおうとしているのはまさに遺体の発見現場だった。握られた記事の一番上には、先日軍が麻薬の売人を逮捕した際に、女の右足を発見した事件が小さく掲載されている。これがもっとも最近発見された死体であり、東方司令部からも近い。エドワードは自分に言い聞かせるように口中で、何度目かわからない言い訳を繰り返す。
「あくまでこれが、最近の事件だからいくんであって、あの腐れチンコがナンパした場所だからいくわけじゃねえからな」
きれいなおねいちゃんたちが寄ってたかって「マスタング大佐ぁん」などとあほのような声を上げたといううわさの場末の娼館をこの目で見てみないことには気が収まらないなどということはけしてない。断じてないのだ。ないんだったら。
「あああああああああクソはらたつううううううううううううううっ」
後ろを歩くアルフォンスの羞恥などかまうものか。
顔もわからぬ連続殺人犯と同じほどの殺意を上司に滾らせ、エドワードは先を急いだ。
続