さみしいよるのあな・こぼれたミルク
雨だった。
駅舎の軒先で立ち尽くすエドワードの、真っ赤なコートについた黒い染みがまだらに増えていく。やがて雨音は轟音のようにばたばたと地面を叩き、支配していく。手を差し出せばすぐに濡れた。エドワードは睫の先に触れた水を左手で打ち払い、川の底のように淀む空を見上げてから弟を振り仰いだ。
「今何時だっけ?」
「もう日付がかわったよ、兄さん」
そっか、と呟き顎に手を添えてしばしエドワードは思案した。列車の遅れは致命的だった。確かにここのところの悪天候を鑑みればそれも仕方がなかったけれど、北部を出たのが午後5時。まさかこんな時間になるなんて。
「・・・・夜があけるまでは動けねえな」
「今からじゃ、宿も空いてないよ。どうする?兄さん」
「駅に泊めて・・・・無理だろうな・・・」
駅舎にも長居するわけには行かない。駅員達の顔が一様に疲弊していて、エドワードたちを国家錬金術師と知ってなお迷惑そうな表情を隠そうとしない。早く閉めて家へかえりたいんだろう。その表情に急かされるようにして、エドワードとアルフォンスは、雨の降る表へと足を速めた。
「にいさん、どこ行くの?」
「軍にいけば、休憩とれるだろ。しょうがねえ、東方司令部行くぞ!」
カバンを頭上に掲げてエドワードは走り出した。目的地へは慣れた道だ。アルフォンスが走るたびに鳴る鎧の出す乱暴な音に、窓を開けて怒鳴る男にさらに怒鳴り返し、エドワードは先を急いだ。
後に、エドワードは何度もこの夜の事を振り返った。
振り返り、そして何度もあの夜に至るまでの自分の選択を後悔した。もしあの時、と思わざるをえなかった。
東部に帰らなかったら。雨がふらなかったら。列車が遅れなかったら。東方司令部にいかなかったら。
あんなことにはならなかったのに。
*******************
アルコールの匂いだ。
鼻の先をかすめる、濃いむせるようなその匂いはエドワードは得手ではなかった。そんなものに手をだしたいと思ったこともないし、そもそも父親のいない家庭ではそんなものを口にする人間はいなかった。アルコールで理性をゆらがせるのはとてもおそろしいことのように、感じていた。自分の、いままで見てみぬふりをしてきた暗い淵を覗き込むような、そんなマネはとてもおそろしくて出来ない。理性をなくすなんて、そんなマネできるわけがない。
だから、つかれきった体をベッドに沈めて眠りに落ちる寸前、その匂いをかいでエドワードは眉をしかめた。
いやだな、と思った。
この匂いはいやだ。
窓の外の雨音はますます激しさを増している。丁度あいていた軍の宿直室、その個室は防音がしてあって、扉一枚隔てた向こうの廊下で、忙しなく働いているはずの軍人達の気配は感じられない。その分、雨音はエドワードを苛んだ。浅い眠り、疲れた体。いやなにおい。酒の。人の吐く、深い濃い、理性を揺るがす、いやなにおい。アルフォンスはいない。眠らない弟は、夜通しあのいやみったらしい上官の自慢の書棚を読み漁るのだといっていた。アルフォンスは、
・・・・・・・アルコール?
自分のうかつさに、鳥肌を立てながらエドワードは飛び起きた。扉は眠る前に施錠したはずだ。
「・・・っ」
「・・・・・やあ」
明りのない室内で、一つのシルエットが浮かび上がった。扉に縋り、ひらひらと男が手を振った。その声には聞き覚えがあった。
「・・・・・・・大佐?」
「正解」
「・・・・・・んだよ、こんな夜中に」
ずくずくと心臓が高鳴るのは急には止められなかった。ベッドに身を起こし、ベッドサイドの明りに手を伸ばす。足元から優しい色の灯が点る。浮かび上がった男は、確かに例のいやみったらしい上官その人に他ならない。
「どうやって入った?鍵を、」
手の中で鍵の束を鳴らしながら、ロイ・マスタングはどこか呆けたように笑っている。
いやだな。
いやな笑顔だ。
「・・・・・・・オレ酔っ払い嫌いなんだけど」
ちっ、と舌打ちしてエドワードはそっぽを向いた。
「そんなに匂うかな」
「・・・・・まあね」
「そう?」
「うぜえ」
ははははは。ロイは笑い、深く吐息をついた。まっすぐ見つめる淀んだような色の漆黒に耐えられずに一度合わせた視線をそらせる。
「なんの用だよ。オレ疲れてんですけど」
「そうか。すまない」
「だから・・・・・・ちょっと、話にならねえ。仕事中にそんなに飲んでいいのかよ給料泥棒」
「仕事はもうとっくに終ってるんだ。ハボックたちに誘われて会議室で飲んできたところだ。君たちがこちらへ到着したのは知っていたのでね。顔を見ておこうかと。というか、顔も出さずにさっさと眠るとは随分つれないな?不敬罪で左遷するぞ」
「職権乱用じゃねえか・・・!帰ったと思ってたんだよ。オレだってそこまで常識なくねえし!」
扉から背を離して、ロイはもう一度鍵を鳴らした。まっすぐエドワードに歩み寄り、その鍵をサイドテーブルに置いた。かがみこんだロイの顔が思うよりも近く、エドワードは惑う。なぜか息がしにくい。ごくりと喉を鳴らしてしまうことが、その音に気づかれるのがいやで、ゆっくりと息を飲んだ。
「・・・・・・話そんだけなら、オレもうねるとこなんだけど」
「・・・・・・うん」
ロイは鍵を置いたその手で、軍服の襟元を緩めた。一つ一つ、確認するようにボタンを外す。見られていることは知っていたけれど、なぜか視線を合わせることが出来ずにエドワードは手元のシーツの皺ばかりを眺めている。
なんだろう。
怖い?
オレが、この男を?
今更緊張するような仲でもあるまいし。
軍服が視界の端で、床に落ちた。無造作に脱ぎ捨てられたそれが、ロイの磨かれた靴先にある。
「鋼の」
短い声は低く、大人の男の声をしていた。深いアルコールの匂い。雨音はますます激しく窓を叩く。表と同じ、夜の色の瞳はどこを見ているんだろう。けれど、エドワードはどうしても顔を上げられなかった。皺を気にして、シーツを触りながら言葉を捜した。
「・・・・・大」
佐、と呟こうとしたそのとき、ロイの肩膝がベッドに掛かる。スプリングが軋み、エドワードの指先に触れていたシーツの皺の形が変わる。男の手が、いつもの三つ編みを解いていたエドワードのプラチナブロンドに触れる。それでもどうしてもまっすぐ顔を見ることが出来ずに、エドワードはうろたえて立ち上がる。
「・・・・・んだよ、ねむてえんだったら、どっか他所で寝ろよ」
触れようとした男の手を振り払い、とりあえず水を飲もうと、簡単に備え付けられた流しに歩み寄った。背後からロイがそのままつられる様についてくる。心臓が割れそうに体の奥で暴れているのが分かる。状況が、わからない。蛇口にのばされたエドワードの手を、ロイがそのまま取った。
「アンタに汲んでやろうと・・・・」
振り返ろうとしたエドワードの首筋に、触れたのは吐息と唇の感触だった。うなじに触れたそれが、いとおしく濡れた音をたてて優しくなぞる。目の前が赤く眩んだ。身動き一つとれず、エドワードは体を震わせた。
「・・・・・・っ」
ちゅ、と耳元を食まれて、泣き出したい衝動に駆られた。エドワードの手を背後から掴んだまま、ロイはゆっくりと身を寄せ、キスに似たそれを繰り返す。空いた左手がゆっくり腰を這い、エドワードを抱き寄せる。静かな押し殺した吐息は、やはりあの理性をゆるがせるアルコールの匂いをしていた。
深淵を覗き込むように。
「すきだよ」
ため息に似た優しさで、ロイが囁いた。腰に回されていた左手が、シャツ一枚を隔ててエドワードを撫でる。それは男の武骨な掌からは想像も出来ないほどやわらかく、優しい。たからものに触れるように、いとけない小さな動物をなでるようにいたわりながら。
「なん・・・・・冗談・・・っ」
笑いにごまかそうとした声音はひきつり、干からびている。ロイの優しい掌は触れることをやめずに、エドワードのシャツの下に忍び込む。怯えている?震えている?そう思わせるほど優しく。
「・・・・・君がすきだ」
そうっと息をつき、ロイは唇でついばむように何度もエドワードの首筋をなでた。
どうしよう。
いやじゃ、ない。
抗えるわけがない。
「ずっと君がすきだった。ほしかった」
それはオレだ。
「君にこうしたかった」
それは、オレだ。
ロイの掌は確かめるように腹を撫で、指の先で皮膚をかいて、逡巡するそぶりを見せながら寝着がわりに穿いていた短パンの中に忍び込む。辿るように性器に触れられ、そこがたちあがり脈打っていることを知られて鳥肌がたった。ぞくぞくする。期待している。ロイの掌に触れられること。その先。いつもは深く意識の底に沈めている欲望、その形。くちづけること、触れること、交じり合う肉と血のこと、射精の生々しい匂いと快楽のこと、息をつく間すら必要ないくらい狂ったようにこの男がほしかったこと。
彼が自分を好きだというならば、自分のこれは執着だと思った。
目を閉じて、エドワードは男の掌が触れるままに唇を噛んで耐えた。肉の交わりの、想像していたよりも凄まじい生々しさに震えながら、期待せずにはいられなかった。首筋を、キツく痛むほどに食まれながら、男の掌が性器をする。脈打つそれは簡単に絶頂へと追い詰められる。
「・・・・・ぁ・・・・・ぁあっ、っ、あっ、あっ・・・・!」
「出していい。鋼の、エドワード、エド、かわいい。お前はかわいいな・・・」
興奮してうわずっているロイの声音に一層煽られる。ロイもこんなにも欲情している。この自分の体に。
夢を見ているようだと思った。
思いながら、その吐息の粘りつくようなアルコールの香りが、エドワードを焦燥させた。とてもたかいところから突き落とされるのに似た感覚。
どこから、誰が、どうして?
思考がまともに働いたのはそこまでだった。
口づけたくて仕様がなくなって、エドワードは下着を生々しく濡らし、それすらそのままに振り返りロイの首筋にかじりつく。見よう見まねで、唇を合わせ、舌を差し出し絡ませる。零れた唾液が口の端を濡らし、ぬるつく舌がアルコールの苦味をエドワードに渡す。それを逃がすまいと飲み込み、男に性器をはしたなく擦り付けた。
後は覚えてない。
******************
「兄さん、よく眠れなかったんじゃないの?目の下クマ」
アルフォンスが両手に抱えた書籍をテーブルに積みながらエドワードを覗き込んだ。弟と顔をあわせるのがなぜか気恥ずかしくて、エドワードは頬杖をついたまま手元の紙面から視線は外さなかった。新聞の字の羅列はちっとも頭に入ってこない。昨日の夜の情事が何度も頭を過ぎて、それを振り払い、けれど反芻することをバカみたいに繰り返してしまう。雨はやんでいた。湿気を含んだ、朝の空気の中、透明な光が室内を充分に照らしていた。ロイはまだ顔をださない。執務室で勝手にこうして時間を潰し、彼を待つのは、いやではなかった。わくわくとしたきもちで、彼を待つ。悪戯を共有した仲間のような、そんな高揚感があった。
「あ」
大佐、おはようございます。アルフォンスが上官の姿を認めてすぐに声をかける。彼の執務室なのだから当たり前なのだが、ノックもなしに入ってきたロイに、緊張してしまい、エドワードはやはり紙面から視線を外さなかった。口中で「はよ」と呟く。
「やあ。昨日は遅くについたようだね」
「すいません。突然。ホラ兄さん、ちゃんと挨拶しなよ」
「・・・・わーってるよ」
立ち上がり、エドワードは頬が熱いまま唇を尖らせた。
「随分久しいな、鋼の?君はいつも突然来て、突然どこかへいく」
「久しいって・・・昨日夜、挨拶しただろ」
やはりロイの意地の悪さはなにがあろうと変わらないらしい、何を言わせるんだろうと思いながら小さく呟いた。ロイの昨日とかわらない、磨かれた靴先を眺めながら。
「昨日の夜?しらんな」
「はあ?なにいってんだ、挨拶しただろが。あんたがオレのこと礼儀知らずだなんだって、」
思わず顔を上げる。ロイは、平然と口元に微笑を浮べたままエドワードの言葉をはねつける。
「寝ぼけているのか?」
いつもと変わりない、皺一つ無い軍服、昨日のアルコールの香りなど微塵も感じさせずに整然としてロイはエドワードをみて笑っている。
「もうにいさんたら。挨拶したとか、嘘ついたら駄目でしょ」
呑気なアルフォンスの声に、どくどくと心臓が早鐘のように打った。
「だって、あんた俺が寝てるとこ来て、いったじゃんか・・・」
嘘だろ。
腕を回して、口付けて、夢のようだと、君がすきだと、何度も、
「知らんな」
「・・・・・・っ・・・」
その顔を見ればわかる。
口裏を合わせる、とかそういうことではない。今のロイには何の親密さも感じない。以前と同じ、同じままの、ただ上司であるというだけの関係を強調するような上辺だけの顔。少しの油断も許さない利用しあう関係。昨日の夜だけが、すっぽり抜け落ちたような顔。
ロイにとって昨日の出来事は、酔った勢いだとか、性欲の処理だとかそういう類でしかなかったのか。
「夢でもみたんだろう」
笑って、ロイはそこで話を終らせた。それから、北部がどうとか新しい情報でどうとか仕事の話をしていることはわかるけれど、耳にはいってこない。
零れたミルクはもとにはもどらない。
なかったことには、ならない。
けれどロイは、ミルクなどはじめからこぼれていないのだと言う。
はじめから、そんなものはなかったのだと。
「あー・・・」
「兄さん?」
コートを羽織、足もとのカバンを掴む。いくぞアル、と弟を促し、そのまま背を向ける。ロイは追ってはこなかった。ホークアイだけが何事かをきつい口調でエドワードへ声をなげた。
「兄さん?ちょっと、話の途中・・・」
「いいから。もういいんだ」
行き先は決めてないけれど、あの男のいない場所なら、今はどこでもいい。
「頭、冷やす」
「意味わかんない!」
「いんだよ、わかんなくて」
無理やりに笑い、エドワードは拳に力を込めた。
「こぼれたギュウニュウも飲んじまえばなかったことになんだろ?」
飲めネエけど、と付け足して、ますますアルフォンスを困らせる。
オレにも出来るはずだ。
昨日の夜ははじめから何も起こらなかったのだと。
けれどオレにとっては
「運命の夜だと思ったのにな」
「意味がわからない!」
終