さみしいよるのあな・誰かこの手をひいてくれたらいいのに
気が狂いそうだ。
*********
息をひそめて、唾液を飲み下す。思ったよりもその音が、大きく響いて身をびくりと縮めた。
しんと静まり返る、けして広くない軍部のトイレの悪臭が鼻を突く。頭上の明りがジジ、と幾度も点滅して一瞬あたりを闇に返してはまた照らす。蛾が踊る。見回りまでにはまだ時間がある。まあどのみちこんな外れの便所の中までいちいち見回ったりはしないだろうけれど。
このせまっくるしい、薄汚い個室の鍵は閉めたはずなのに、何度も不安になって確認する臆病が自分らしくなくて笑うしかない。オレはなにやってんだ、バカか。
こんな。いつ誰が来るともわかんねー場所で。
ははは。
なんだこれ。
掌で触れたソコはすでに期待で湿っている。下着の濡れた感触が気持悪い。
どうしても直視できずに、瞳を閉じて、ぎゅう、と自らの性器を握りこむ。そろそろと上下に動かす、その仕草のあさましさに眩暈がした。屈辱ですらある。誰へともわからない怒りがもどかしく腹の底を熱くさせた。
どこを、どうしたらいいのかなんて自分が一番良く知っているはずだった。痛みに似た疼きが下腹部をずくずくと急かす。早く早く。早く。早くどうにかしないと頭がおかしくなりそうだ。
「・・・・・・っ」
先端のぬめりを塗りこむように指先で、何度も括れをこする。けして多くない自慰の経験は、うまくエドワードを射精に導きはしなかった。もどかしい思いで、なんども強く握る。
「ちくしょ・・・・」
畜生。
掌の中で脈打つそれは、まるで別の生き物のようだった。その脈動も、反応も何一つエドワードの意のままにはならない。
何も、思い通りにいかない。
畜生。
******
もう帰ろうと袖を引く弟になんだかんだ言い訳をするのは、骨が折れる。あの聡い弟に、自分でも明確にこうだと説明できない事を納得させようというのが土台無理な話だった。適当に理由をつけて宿に帰らせたけれど、今では罪悪感のほうが大きかった。
心配しているだろう。後で謝っておかないと。
深夜勤の顔見知りの軍人に頭を下げて、エドワードは一人歩く。目指す扉の下から明りが漏れていることに安堵しながら、押し殺してため息をついた。深く息を吸い込んで、吐く。
ごんごん乱暴に扉を殴れば、中からいつもの偉そうな返答よりも先に笑い声が漏れる。いつの間にか、息を詰めていたらしい。もう一度深く息を吐いて、扉に手をかけた。
「まだ仕事してんのかよ。大概つかえねえな」
眉を寄せて、不機嫌そうに唇を尖らせてしまうのは、条件反射だ。ろくにロイの顔を見もしないで、エドワードはまっすぐ来客用に置かれたソファに腰を下ろす。室内には、ほかにだれもいない。彼の有能な副官は今日は定時であがったことは知っていたけれど、たった一人で仕事をしているとは思わなかった。動揺に、ますます唇を尖らせる。
「ははは、なんだ、その顔。もうちょっとさわやかに挨拶できんのかね、君は」
「こんな時間に、何がさわやかだ。さわやかに謝れ。アンタの口からさわやかなんて聞くとぞっとする」
口慣れた悪態をつくのも、いつものことだ。ロイがそれをからかうのも。
「こんな時間にどうした?もうとっくに宿へ帰っていたと思っていた」
「・・・・・ああ、もう十時回ってんの。気がつかなかった。図書室で調べものして、ブラハと遊んで、資料室で探しもんして・・・・・で、どうしてもみつかんねーから、しょうがなくあんたんとこきたってわけ。なあ、まだおわんねえの?」
横目で睨むように見ると、ロイは肩をすくめて、流石にうんざりした表情でペンを握っている。
「私もいい加減にして帰りたいんだが。もうすこしかな。・・・・・ふむ」
わずかな思案に首をかしげ、椅子の背中にかけた軍服の上着を手に取り、ロイが立ち上がる。
「・・・・・・・なに?」
「先にお前の用事を済ませてやろう」
ペンを置き、少々くたびれた感のある袖に腕を通す。その何気ない仕草に、胸が騒いだ。
顔色は変わっていないだろうか。
視線が不自然ではないだろうか。
心臓の音が、聞こえはしないだろうか。
直視できずに床に落とした視線をごまかすように、自分の口から出た言葉はやはり悪態で。
「・・・・・大佐が親切だと、気味が悪い」
「あっはっはっは、大概疑り深いな。気にすることはない。金銭に換算すれば、お互い気に病むことなく協力しあえるじゃないか」
「・・・・てめ、高給ぼったくっといて、更に部下からぼったくろうってか?!」
「鋼のは未成年だからな。割引してやろう。あとで私にコーヒーを一杯ご馳走したまえ」
歯をむいたエドワードに、澄ました顔でロイは微笑した。疲れているからだろうか、男の口調にはいつもの鋭さも意地の悪さもなく、ただ優しげにエドワードに響いた。部屋を出て行く背中に続きながら、ようやく「アンタって安いんだ」とだけ反論する。その声も小さかったから、男には聞こえなかったかもしれない。
薄暗い廊下の先をいくその背中を小走りで追いながら、エドワードはゆっくりとため息をついた。
こんぐらいいいだろ、と自身に言い訳しながらも、こうして探し物を口実に関わろうとしてしまう自分のずるさも知っていた。彼の仕事の邪魔をしてまで、自分の感情を優先してしまうずるさ。
本当は資料なんてただのいい訳で。
アンタと少しでも話したかったからなんて、自分でもばかげていると思う。
ばかげている。
こんな執着はばかげているんだろう。
今まで何度も確認したことをもう一度口中で確認しながら、エドワードは俯いた。
そばにいたいとか話したいとか触りたいとか。
ばかげていることを知っていながら、どうして、体の芯が熱でどうにかなってしまいそうになったり、胃の辺りがぐちゃぐちゃで叫びたくなったり、眠れない夜になにかがたまらなくなったりするんだ。
底のない深淵を覗き込んで、そのまま。
引きずりこまれて落ちていきそうで怖い。
「・・・・・鋼の?」
不審な声音に我に返って、エドワードは顔を上げた。数歩先で肩越しに振り返り、ロイがもう一度鋼の、の呼びかけた。
「なん・・・・なんだよ」
何かを見透かされたような気がして、惑いながら返事を返す。
「ぼんやりしているな。どうした」
「なんでもねーから、さっさと歩いてくんねー?ちんたら歩きやがって。これだから中年は」
けっ、と下唇を突き出す。その自分の仕草に苦笑したロイが、正面を向く。自分で付いた悪態に傷ついて、エドワードはイライラと唇を噛んだ。なんでオレはいつもこーなんだ。
やなことばっか、言ってしまう。
大佐もオレなんか嫌いなんだろう。やなことばっかいっつも言って、面倒ばっか押し付けて。
そういえば、まともに礼なんか言ったことない。
「・・・ついたぞ。で、なにが必要なんだって?」
「え・・・・」
資料室の扉の前で立ち止まったロイをぼんやりと見上げてエドワードは、口中でロイの言葉を反芻する。
「・・・・・・その・・・・・なんだっけ・・・・・や、そう!これこれ、この資料の八月と九月分がすっぽり抜けてて」
抱えていた資料を慌ててロイに差し出す。
「ああ、これは・・・・」
室内は薄暗く、雑然と積み上げられた資料の棚の間をロイは淀みなく歩いていく。こう見えても、仕事のできる男だからすぐに目当てのものを見つけてオレに渡してくれるんだろう。あとは、コーヒー代を憎まれ口を叩きながらロイに渡せば、それでおしまいだ。適当な応酬に適当な別れの挨拶。こんな時間まで散々粘った挙句、ロイと二人きりでいた時間なんてほんの二三分だ。いつものことだった。いつものこと。
「っ・・・・」
考えるより先に、体が動いたんだと思う。後で考えれば、どうして今日ばかりはその、「いつものこと」が我慢できなかったのか何度考えても答えは出なかった。気がつけば、掌が思い切り、目の前の棚を押していて。
「わ、わーーーーー!!!」
自分でやっておいて、自分で事態に驚愕し、エドワードは絶叫する。限界まで資料を詰め込まれた棚は、勢いに任せて面白いように簡単に隣の棚をなぎ倒し、その棚はまたその隣の棚をなぎ倒した。スケールの大きなドミノ倒しだ。
「ぎゃーーー!た、たい・・・大佐!!大佐大丈夫か?!おいっ・・・」
舞う埃と紙束をかきわけて、エドワードはロイの居た辺りに転がるように駆け寄る。棚はお互いを押しつぶし、資料を吐き出してへしゃげている。背中を寒くして、エドワードはロイを呼んだ。
「大佐!」
「踏んでる踏んでる!鋼の!重い・・・っ」
「て、なんでアンタは人の足元にいるんだ・・っ」
潰れたカエルのような低音で、エドワードの上官である男は足元で唸っている。慌てて飛びのいた際に、更に皮膚一枚を踏みつけたらしくロイは大人気なく「キャー」と悲鳴をあげる。
「キモチワリー声だすんじゃねーよ!きゃあじゃねえっつうの、きゃあじゃ!」
「お前、私を助けにきたのかとどめを刺しにきたのか、どっちかはっきりしろ・・・・」
「うるせえな!いいからさっさとでてこいっ・・・・・重い・・・・・っ」
「鋼の、その言葉が一番傷つく・・・・・」
デスクワーク三昧の日々に運動不足を感じているらしいロイの、微妙な表情に思わず笑い、エドワードは埃にまみれた軍服の袖を強く引いた。ドサドサと紙束がまた床を舞う。這うようにロイが資料をかきわけ、脱出するころには埃はおさまっていて、あたりの惨状をまざまざと二人に主張している。
「・・・・・・これは」
「・・・・・・」
「どうしたもんかな」
「どうしたもんかっていうか・・・・棚を立てて資料を一から詰め込みなおして・・・」
「この散乱した資料をかき集めてナンバーどおりに整理してから?・・・・うーん・・・・」
自分がやりましたとは、どうしても白状できずにエドワードはそっぽをむいてしらを切りとおす決意を固める。「どうして?」と聞かれたときに、答えようがないからだ。
「・・・・いいよ。そもそもオレがアンタに資料探してくれって頼んだんだし。アンタ、仕事がまだ途中なんだろ。一人でできるから・・・」
薄暗い明りの下で、ロイが妙に人懐こくわらった。この男は時々こういう表情をする。無防備な。まるで気を許しているかのような、そんな顔を。エドワードの一番好きな顔だった。
「つまらん遠慮をする。一人より二人のほうが早く終わるだろうに。まあ、なんだ、とにかく」
どさりと腰を落ろし、ロイは懐からファンシーな色の包み紙につつまれた飴玉を五つほど取り出した。
「・・・・・なにそれ」
「おやつだ。ほかのなにに見える。休憩しよう。話はそれからだ」
ぽんぽんと隣の床を叩かれて、素直にそこへ腰をおろすことができずに微妙な距離をとりながら、エドワードも腰を下ろす。押し付けられた飴玉を口にするのが妙に気恥ずかしく、そのままポケットにしまった。
「なんだ、食わないのか」
「・・・・いま、別に腹へってねえし」
自分でも女々しいと思っている。この男の前で、何かを口にするのが恥ずかしいなんてどこの乙女だと突っ込みながらも、それでもやはり喉を通らないだろうと思う。飲み下す音まで不自然に響きそうで、不安だった。
「なら返せ」
「てっめ・・・・幼児か・・・!」
「なんだ、いるのか?」
掌を突き出したロイのそれを軽くひっぱたき、体の力を少し抜くことに成功する。壁にすがり、吐息を小さくついた。
「魔法のように、一瞬でどうにかなればいいのにな」
「・・・錬金術みたいに?」
「そう、掌を」
「パンって合わせて?」
「そう」
「・・・・あんた子供みたい」
くくく、と喉の奥で笑い、ロイは薄明かりの下で飴玉を口に放り込む。こうして隠れるように膝を抱えて、二人で笑いあうのは、妙にわくわくすることだった。秘密基地に潜む子供みたいで、無駄に無邪気になってしまいそうで、他愛ない会話に高揚してしまう。今にも笑い出してしまいそうだ。ロイも同じだろうか。同じだといい。
それだけで、今日一日が幸福だと思い込んでしまえるだろう。
ああ。
この男が好きだ。
「制服ドロドロ。きったねーの。中尉にみつかったら、問答無用でぶっころされそう」
いやそうに眉をひそめる表情をみたくて、ささやかに意地の悪いことを口にすれば期待通りにロイは口元をひきつらせた。
「『大佐、そんなに仕事がしたくなければ私が今すぐしたくてもできない体にして差し上げましょうか』」
「にてねえ・・・っ」
「って、今朝言われたばかりだからな・・・想像するだにおそろしい・・・」
「・・・っ・・・にてねえ・・ははははは、ほんとにアンタのモノマネにてねー!」
「うるさいな。そうか?」
「高音が気持わるい。そんなことばっかしてるから、中尉怒らせるんだよ。要するに、」
不意にロイが指先を持ち上げた。視線がどこを辿るのかを知ろうと言葉を切ったエドワードの、頬にまっすぐ触れて、指先がなぞるようになんども撫でた。咄嗟のことに、固まったエドワードは言葉を継ぐことができない。
冷たい指先が何度も頬を強くこする。なにか汚れがついているんだろうと、すぐにわかった。それでも、エドワードが思い返す限り、ロイにそんな風に触れられたことなどはじめてのことだった。ちょっと指先が触れるとか、肩がぶつかる、というのとは全く違う。ロイに意思をもって触れられているんだと、頬が無意識のうちに熱を持ち始めるのがわかる。
暗くてよかった。
「ああ、なんだ汚れだ。怪我でもしたのかと思ったぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・アンタさ」
なかなか落ちないのか、ロイの指はエドワードの頬を、なおも強く擦る。
気がつけば、口からその問いが零れ落ちていた。
「彼女とかいるの」
何きいてんだ。
オレはバカか。
「なんだ?突然」
「別、に」
喉が渇いたと思った。声が干からびている。
期待をしてしまったのかもしれなかった。
あとで、なんども後悔したけれど滑り落ちた言葉はもはや喉元にかえりはしなかった。
ロイが笑った。笑って、
「まあな。今日もデートだったんだが、台無しだ」
と、もう一度エドワードの頬を強く拭った。拭って、肩をすくめた。
エドワードの、先ほどまでの高揚や笑い出したいような感覚は一瞬で失せてしまっていた。あんなに熱かった指先も頬も背中も驚くほど冷えはじめていて、自分でも恐ろしい。
なにを、おどろくことがあっただろう。
相手は29歳のおっさんで、大人で、大佐で、男だ。
普通の男ならあたりまえのことだ。
当たり前のことに、なにをこんなに、感情を揺らされている。
瞼が熱い。思考が混乱している。泣く、と感じた瞬間エドワードは立ち上がっていた。
「鋼の?」
「便所いく」
「なんだ?いきなり。それは別にいいが。どうかしたか?」
「うんこだ。なんか悪いか、快便で」
「・・・かいべんって・・・いやそれは結構だが、鋼の?」
「あと、オレ一時間くらい便所」
「・・・・・・それは本当に便なのか?小腸かなにかがでてるんじゃないか?」
怪訝そうな顔を直視せずに、なるべく平静に部屋を出ようとロイの前を横切り、書類をまたいでエドワードは部屋を出る。早足にならないようにするのが精一杯だ。それでも気が急いて、扉を開ける前に出ようとした額がぶつかって、ひどく間抜けな音がした。
さみしいなんて、思うのは筋違いなんだ。
あんなに楽しかった気分をぶち壊したのは自分なんだから。
そばにいたいとか、ふれたいとか、そういうものを満たされないことを恨むのはまるで見当が違う。
それでもさみしい。
オレは、さみしいと思ってしまった。
「・・・・アル、ごめんな」
お前の兄ちゃん変態で。お前を先に宿に帰らせておいて、あんなおっさんを思って、泣きそうになったりして。
「・・・・・・・オレってくだんねえ・・・・・」
泣きそうになりながら。それなのに。
あの男に、頬を触られただけで欲情してしまったのだから。
**************
「普通萎えるだろ・・・っ」
張り詰めた下肢のモノを、左手でもどかしく擦る。射精が近いのを知る体ががたがたと震えて、体を支えきれずにエドワードは崩れおちるように側面の薄いベニヤに縋る。トイレの異臭に、変態かと思いながらも興奮して、空いた右手でロイのしたように、頬を強く擦る。双眸を閉じて、あの男の指を想像して、頬を辿り、首筋をなで、震えながら、卑猥に動かしていた左手に右手を重ねる。途端に訪れた絶頂をこらえずに、びくびくと爪先を揺らしながらエドワードは両の掌に達した。零れた白い液体が生ぬるく滴り、ぬるぬると膝をぬらす。
「・・・・・・・・おっさんで抜いてしまった・・・・・」
射精後の浮遊感が、その余韻がエドワードを満たす。乱れた息が段々と収まるにつれ、怒りがふつふつと湧き上がる。
「・・・・・・・・・おっさんで・・・・・・」
だらしなく前を開いたまま、衝動に任せて右足で個室の薄い扉を蹴りつける。ベニヤは軋んで、わずかにその靴先をめり込ませる。
のろのろとペーパーで両手と股間と膝を拭い、下着をあげて、身支度を整えながら、沸騰するような怒りにエドワードは支配されていた。
「なんであんなおっさんを・・・・・っ」
オラ!ともう一度渾身の力で扉を蹴破り、エドワードは、怒りのまま暴れた。
思う存分暴れた。
勿論暴言も忘れなかった。
「死ね!しね!しね!しね!ロイマスタングしね!とにかくしね・・・・・・・!!!三回しね!!そのために二回生き返れ!!」
どうして夜はこんなに長い。
どうして、こんなに孤独だと感じるんだ。
どうして。
「あーもう、さいっっっあくだ・・・・・・!」
終