外で











 兄さんはもう、何度も見たはずの茂みをもう一度覗き込んで右手を突っ込んだ。がさがさと探り念入りに調べては、呼吸を上手く出来ずにため息ばかりついている。すでに陽は落ちて、世界を赤く照らす。闇の一歩手前。
 いつの間にかひとどおりの少なくなった公園では、先ほどからはいつくばって何かを必死に探す少年と大柄な鎧の取り合わせを、遠巻きに怪しむ人々が何事かを囁きあっている。あやしいものじゃないんです、という言葉の説得力のなさをしっているから、僕はただ口をつぐむ。
「兄さん」
 何時間、こうしているんだろうと僕は思い。昼食もろくにとっていない、やせた背中を見かねて声をかけた。
「今日はもう、無理だよ。一回帰って、ご飯食べて眠って、それから明日の朝探しにこよう。ね?」
 何度目かの問いに、兄は四肢を地面についたまま、肩越しに振り返った。笑顔とは到底いえない、不安そうに歪んだ顔で、「ああうん」とだけ答える。今度こそ、すぐには引き下がれずに、僕は言葉を重ねた。
「駄目だよ。頼むから。それなら、僕が探しておくからさ」
「あー・・・や、そんな、たいしたもんじゃねーんだけど・・・・。うーん」
 にへら、と笑う、そんな頼りない表情の兄さんを見たことが、僕はなかったのでいたたまれない気持になる。直視できずに地面の石ころを眺めながら、いおうか、どうしようか堪えていたはずの言葉が浮上した。
「・・・・・・じゃあ、いいじゃない。なにを落としたのかも僕には言わないし。大したものじゃないならいいでしょ」
 僕は意地悪だ。困らせるとわかっていて、いわずにいられなかったのだから。
 兄さんは、案の定困ったようにやはり笑って、頬の泥を拭った。
「ごめんなアル。つきあわせちまって」
「・・・・僕そんなこといってるんじゃないよ」
「うん。あー・・・・うん、じゃあ、あと一時間だけ。一時間探したら、かえるから。陽が落ちるまで。な」
 両手を合わせて、小さく頭を下げて兄さんは口元だけで笑う。僕の知らない、兄さんの表情。
 今の兄さんは、迷子になった子供みたい。
 繋いだ手が、いつのまにかはぐれてしまったみたい。
 僕はここにいるのに。
 兄さんはもう、背中を向けて再び茂みに頭を突っ込んでいる。綺麗に編んであった金髪がぐちゃぐちゃであちこち跳ねて、みっともなかった。茂みから出てきて、今度は溝の格子を外そうとしている。どうしてだか、手伝う気になれずに僕はそれを何もせずに見下ろしていた。堅くはめられた格子の下には、ドブだ。汚水には様々なものが浮いて淀んでいて、ものすごい匂いをさせているんだろう。けれど兄さんはちっとも構わずに左手を突っ込んでかき回している。やめてよ、という言葉は僕のほんの喉元にある。叫んでしまいそうだった。やめてよ。そんなみっともないこと、やめてよ。
 兄さんは小さい頃から僕の自慢だった。今だってそうだ。その兄さんがドブに手を突っ込んで、落とした物を一生懸命に探している。つまんない、なんでもないもんだよと言い訳しながら。
 跳ねた汚水が口に入ったのか、唾を傍らに飛ばした。それでもやめずに、長く続くドブの、隣の格子を外しに掛かる。まさか、この公園の周囲全てのドブを今から手探りで探すつもりなんだろうか。虫の死骸、誰のものとも知れない長い髪の毛、腐った土、水、そういうものをかきわけて。
 兄さんが、「それ」をなくしたことに気がついたのは今日の昼過ぎの出来事だった。遅い昼食をとろうと食事を取れる場所をさがしていて、兄さんはポケットに指をつっこんだ。財布か手帖か、なにを取り出そうとしたのかは定かじゃない。それを取り出す前に、「ナニカ」を落としたことに、兄さんは気がついたのだから。注意深く道を見回しながら、結局この公園までたどり着いた。午前中、ここで本を読んだりレポートを書いたりして、一番長くいた場所だったからだろう。座っていたベンチのあたりは土を掘り返す勢いで、もう何度も確認している。
「・・・・・・誰かがもう、もってちゃってるかもしれないよ」
 意地悪くいうと、兄さんは笑う余裕をなくして、「そうかもな」とだけイライラと呟いた。額の汗を、右手で拭う。白い横顔に泥が跳ねる。
「なにを落としたの」
「・・・・・・つまんねーもんだよ」
「嘘。じゃあ、なんでそうやって一生懸命探すの。おかしいでしょ、そんなの。どうして僕に隠すの」
「・・・・・・・・・・・隠したりとか」
「してるでしょ。誰にもらったものなの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 きゅ、と唇を噛んで、兄さんは俯いて再び止めた腕を動かし始めた。いうまいと思っていた問いを、けれど口にした後悔はなかった。
 どうして。どうしてどうしてどうして。
「大佐に、もらったものなんでしょ」
 追い詰めるようなことは、いいたくなかった。
 できれば、そっとしておきたかったんだ。
 大佐の前で見せる、兄さんの変な、でもかわいい顔とか不安そうなしぐさとか熱に浮かされたような茫洋とした表情とか。知らないふりをしていたかった。でも僕は自分でおもっていたよりもずっとブラコンだったんだろう。
 今は大佐のことが嫌いで嫌いでしょうがない。
「大佐がくれたものだから、だから兄さんは・・・・」
 さらに言い募ろうとした僕の尖った声を、兄さんの呆けたようなぽつんとした声がさえぎった。
「あ」
 動きを止めて、兄さんはドブの中から何かを拾い上げて、掌に載せている。俯いた兄さんの表情は見えなかった。「あ」という、何の感情も見えない、高い叫びを発したきり、兄さんは地べたにへたり込んで、汚水が滴ってズボンを汚すのにもかまわずそれを見下ろしている。
「・・・・・それ」
 それはただのペンだった。確かに、そういえば兄さんが最近ずっと使っている一本のペン。結構使い込まれている、今まで僕は気にも留めなかった、ただのペンだった。特別に高級なわけでも凝った意匠があるわけでもない、ただの古ぼけたペン。それは、先が折れ曲がり、軸を濡らし、おそらくもう使えない状態で兄さんの掌にある。兄さんは服の袖で何度も汚れを拭い、曲がったペン先を弄っている。でもどう見てもそれは、再びもとどおり使えるようになるとは僕にも思えなかった。けれど兄さんは諦めずに、なんどもなんどもそれを拭う。
「あー。もうだめだな、これ」
 平気そうな声。けれど張りもなければ感情もない。兄さんはそのペンを大事そうにポケットにしまった。
「・・・・・・・錬成すればいいじゃない。作り直せば、また」
 立ち上がり、薄闇に照らされた疲れた頬をみて、おもわず慰めににた言葉が口をついででた。兄さんは、首を振る。
「いいんだ」
「・・・・・・・だって」
「・・・・落としたのはオレだし。これが、もらったままの形なんだから、このまんまで、いい」
 だからこれでいいと、兄さんは壊れた汚いペンをポケットにしまう。
 どんなに酷い表情をしているのか、多分本人はわかっていない。
 僕は確かに兄さんと手を繋いでいたはずなのに、いつの間にはぐれてしまったんだろう。
 気がつけば、兄さんの手の先には違う人がいて、その人が兄さんの手をしっかりと握り締めている。僕の両手は空いたままだ。僕の目の前で、兄さんは迷子になったり、幸せそうに笑ったり、する。
 僕と兄さんは世界の内側にいたはずだったのに、僕はいつの間にか一人で外にいる。
 生まれたときから一緒だったのに、かつては母さんの内側に二人、いたはずなのに。
「なんつか・・・・ごめんなアル。帰るか」
 いろんなものを振り払って、兄さんは立ち上がった。立ち上がって、もう背中を向けて宿への道を一人歩いていく。僕があとをついていくことなど微塵も疑わない風情で。
 手を。
 手を繋いでもいないのに。
 どうして僕が兄さんの後ろにいることを、信じられるんだろう。
 大佐なんか嫌いだ。
 大佐なんか。
「アル?」
 兄さんが振り返った。そのポケットには、大佐に繋がるちっぽけなペンがしまわれている。僕はふてくされた声で、「別に」とだけ言った。変なアル、と、兄さんが笑う。
 変なのは、兄さんだ。






*******************







 僕の手のうちには一本のペンがある。薄汚れてみっともない、ぼろぼろのペンだ。
 兄さんは僕がこのペンを持ち出したことを知らない。今、僕に荷物を預けて兄さんは食堂へ向かったからだ。
 ハンカチでくるんだそれを掴んで、僕は意味もなくため息をつきたい気持でいた。木陰にそよぐ、穏かな風すら感じられないけれど、木の幹に背中を預けて憂鬱な気持のまま俯く。
 ざわざわと木の葉が揺れる。ちらちらと漏れる光は本当に星のように綺麗。
 近づいてくる足音に顔を上げる。
 一番会いたくない人物を認めて、僕は逃げ出したい気持になった。
「アルフォンス」
 無条件に笑って、大佐はどうしたんだと歩み寄る。ちり、と胸の奥が痛む。
「鋼のは食事か?」
「はあ、まあ」
 大佐は自然に僕の隣に腰を下ろす。その気安さが佐官らしくないと、僕はつまらないあらさがしをしてしまう。アラというには、あまりにやさしい大佐の仕草を悪くいう、自分に嫌気が差してることも事実だけれど。
「どうした。機嫌がわるいな?」
「どうしてそう思うんですか?」
 たった一言二言話した程度で見抜かれてしまい、思わず素直に反応してしまう。
「君はいつも、大佐、こんにちはー!って」
 そんな無邪気にバカみたいな声で話しかけているんだろうか、と思えばおそらく生身の体があれば赤面しているんだろう。いたたまれなくなりながら、逃げ出すわけにもいかずに僕はじっと身を潜めるように固くした。
「鋼のと、けんかでもした?」
「僕別に、大佐に相談とかしたいわけじゃないんですけど」
「そうか。そうだな。いかんな、年をとると、つい余計な世話を焼いてしまう」
 僕の失礼ないい様に、大佐は気分を害した様子もなく笑う。こういう、ひとなつこい笑みとか。
 見下ろさず、視線を合わせて会話しようとするところが。やさしさが。
 兄さんを捕らえたんだろうか。
 大佐はきらいだ。やっぱり、何回考えても嫌いだと思った。
 ふと意地悪な気持が頭をもたげて、掌を開く。
 大佐なんか、嫌いだ。
「これ」
 手の内のペンを無造作に大佐に差し出す。不思議そうにハンカチをひらいて、大佐は少し目を見張ったみたいだった。手に取り、ひっくりかえしたりペン先のつぶれを確かめたりして、それが見覚えあることに気がついたらしい。
「これは、」
「大佐が、兄さんにくれたペンですよね?壊れちゃったんです、それ」
 そっけなく言い放つ。壊れた、というレベルではない損壊具合に大佐は首をひねっている。イライラと僕は先を続けた。
「こわれちゃったから、もういりません。かえします」
「ふむ?」
「新しいのください」
 さわさわと風が大佐の頬をなでていったのがわかる。綺麗なすべすべの頬に黒髪が散って、ものすごくうらやましい。
 僕には体さえないのに、この人は兄さんをもぼくから取り上げようとしてるんだと、意地悪く思う。
「鋼のが、そういった?」
「・・・・・・・・・・・・兄さんは」
「これは、鋼のにあげたものだから。鋼のが私に直接いうべきだな、それは。君に言わせてはずるかろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「アルフォンス?」
「・・・・・・嘘です」
 胸の中のイライラを、我慢できずに吐き出す愚かしさ。
 でも何故だか、我慢できずに僕はそれを思わず口にしていた。
「壊れたっていうか。兄さんが落としてしまって、一生懸命探したんですけど見つからなくて。四時間くらい、地べたを這いずり回ってドブをさらって、髪の毛ぐちゃぐちゃにして、顔を泥だらけにして。見つけたときはペンはその状態だったんです。兄さんはなにを落としたとか全然いわないで、ご飯も食べずにそれを探して。だから責めるみたいにいったんです。大佐がくれたものだから、そんなに一生懸命なんでしょって」
「・・・・・・・・それは・・・」
「だから、大佐。それはもうこわれちゃったから。兄さんに新しいのください。それを兄さんは捨てようとしないから。新しいのください」
 乱暴でぶしつけなことをいっているという自覚は充分にあった。でも口がとまらなかった。感情のままに掌を差し出して、困惑している大佐に新しい物をくれとせがんだ。
「鋼のはこれを、捨てようとしないのか?」
「・・・・・・・・そうです」
「ならば、これはまだ鋼ののもののはずだ。そうだね?」
「・・・・・・そうですけど」
「アルフォンス」
 声音を真摯に改めて、大佐はまっすぐ僕を見る。
「仲直りをしたいのなら、私の出る幕はないよ」
「そんなことないです。だって、大佐は兄さんの恋人なんでしょう?僕なんかただの弟だし、兄さんがほしいのは大佐からもらう「ナニカ」なんだから、それさえもらえば兄さんは喜ぶんだから」
 自分でも支離滅裂だとわかっている。でも、このイライラが止まらないんだ。どうしようもない。
「アルフォンス?」
 やさしい声。
「ほんとは、そんなペンなんかいりません。そんなただのペンなんか。ただのペンに、兄さんが地べたを這いずりまわるとこなんか僕、みたくないので」
「アルフォンス、どうしたんだ。君らしくない。落ち着いて、はなしてごらん。どうしたんだ」
 どうしたんだ。
 どうしたんだろう、僕は。
 この間から酷く悲しい。
 悲しいんだ。
「喧嘩をした?鋼のと」
「・・・・違います。・・・・・兄さんはもう、ぼくなんか要らないんだと思って、悲しくて、それで・・・・」
 ポロリと、本音が口をついて出た。
 自分でも意識したくなくて、目をそらしていた本音が。
「兄さんには、大佐がいるでしょう?僕たち、たった二人きりの兄弟でいままでずっと一緒だったのに。大佐なんか嫌いです。兄さんをつれていくんだもの。大佐は嫌いです」
 体があれば、今僕はみっともなく泣いたりしてしまうんだろうか。けれど実際には声帯もない僕の声は平坦で淡々としている。それが何より、自分でいやだと思った。なんの感情も感じさせずに、人を嫌いだといってしまう、自分の声が。
「どこへも、鋼のを連れて行ったりしないよ」
 大佐は子供をなだめるようにゆっくりと発音した。
「うそです。だってもう、兄さんは僕より大佐のほうが」
「ばかだな。アルフォンス、そんなことはないよ。彼にとって君はいまでも世界一大事な弟だよ。本当だ」
「うそです。だって」
「それならば、きいてごらん。鋼のは即答するはずだよ。つまんねーこというなって怒り出すかもしれない」
「うそです」
「うそじゃあないよ。・・・・・・君から鋼のをとりあげたりなんか、できる訳ないじゃないか。君達兄弟の絆の深さに、やきもちを焼くことはあったとしてもね。恋人だろうが、親友だろうが血の繋がりにはかなわないんだよ」
「嘘です。だって・・・・だって」
「うそじゃあないよ。血というのは存外汚くて、その絆はなにをもってしても切ることはできないものだよ。君達の関係を、誰より羨んでいるのは私なのだから、間違いない」
 大佐は悪戯っぽく首を下げて笑った。
 羨む?
 大佐が、僕たちを?
「うそです」
「アルフォンス、恋だとか愛だとかいうものにはね、必ずという証はないんだよ、触れもしなければ見えもしない。けれど、血は死ぬまで同じじゃないか。それはもう、肉を骨を、物理的に人間と人間を繋ぐ絆なんだから」
 私は君達をうらやましいと思うよ。
 僕の混乱に、大佐は果たして気づいているんだろうか。黙した僕は、ただの鎧だ。内側がどんなに荒れ狂っていようと外からではけしてわからない。
「ははははは、そんな混乱しなくても。当たり前のことを言っただけなんだが。まあ、ゆっくりあの子と話し合いなさい。時間は、腐るほどある。君達が生きている間だけ」
 なのに大佐は当たり前のように見抜いて、立ち上がってくれるのだ。席を外してくれる、優しさ。
 外側から僕の内の嵐を見抜いて。
 大佐は僕の世界の、外側にいる人間なのに。
 どうして。
「あ。と。忘れてた。ちなみにね、私もいつまでも蚊帳の外にいるつもりはない」
「・・・どういういみですか」
「結婚すれば、血はどんどん繋がっていくんだよ」
 にやりと大佐は、今度は腹黒そうに笑い、僕を横目で見た。
 それは。もしかして。
「・・・・・・・・・・・・・僕、大佐の弟なんかいやです」
「あっはっはっは。覚悟したまえ、アルフォンス」
 肩で風を切るように威風堂々と大佐は高笑いをしながら食堂へと歩いていく。兄さんのいる食堂へと。
 僕と今話したことを、大佐は兄さんに話すんだろうか。
 いや。確信がある。あの人は、多分何も話さないんだろう。黙っていて、くれるんだろうな。
 いつもみたいに普通に、「やあ鋼の」かなんか言って。
「まいった」
 世界の外と内を繋ぐ方法なんか、いくらでもあるのか。
 大佐が口にしたのは、裏技の部類に入ると思うけれど。
「あのひと、むちゃくちゃだ」
 むちゃくちゃ、かっこいいんだ。
 血を繋ぐことすら可能なのに、世界を繋ぐことができないはずはないのだ。と当たり前のように僕に教えてくれた。
「やだなあ・・・・・・」
 兄さんがあのひとを好きになった理由がわかってしまった。
 やっぱり大佐は嫌いだな。
 僕は手の内の残された、ぼろぼろのペンをもう一度カバンに綺麗にしまいながら、やっぱり肉体があったらいいなと思った。今思う存分笑ったり泣いたりできるのになと思った。