深海
『 すべてに意味がある 』
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その女は美しかった。
場末の売春宿に不似合いな、透き通るようなプラチナブロンド。爪はまるで花弁のように薄く桃色で、肌は赤子のように滑らかで毛穴一つ見当たらない。華奢な体に、冗談のように露出の低い葬式帰りのような黒のドレス。けれどこの女にはたまらなくそれが似合う。白い素足をベッドの上で無造作に投げ出して、女は眉一つ動かさずに、人形のように男を見上げた。
「父親がアル中で」
「・・・・・誰も身の上なんか聞いてねえよ」
ぽつりと、すべすべで桃色の透き通った石のような唇から、笑ってしまうような言葉が零れた。男はなんとなく萎えてしまった自分を覚えながらも、女の横に腰を下ろす。間近で見て、ますますきれいな女だなと感心する。
「いい生まれなんじゃねえのか?」
昼間だというのに薄暗い室内にこもる、独特の臭気は男にとってなれたものだった。隣室からひっきりなしに聞こえてくる女の喘ぎも、染みだらけの、妙にのりのききすぎた布団も、淫靡なだけだ。ただそれだけ。
「ねえやるのやらないの?アタイ、もうハラペコなんだけど」
ぶっきらぼうに女は、呟く。愛想も素っ気もねえなと、男は舌打ちしてみせる。まあいい。これも仕事だ。いくら気に食わない女だからと、選り好みする権利はこちらには無い。中身はともかく、外面は確かに一級品だ。
やることやって、サッサと次だ。
「なあ、タダヤるんじゃつまんねえだろ」
「・・・・・どういう意味?」
「こういうの、見たことあんだろ?」
懐から白い錠剤を一つ。女がわずかに目を見張った。ハハ、食いつきやがった。バカ女。
「それ」
「ブッ飛ぶぜ?お前みてえなきれいな女になら、安く売ってやる。仕込んでからヤらせてくれよ。悪くねェだろう?」
白い爪先に指を這わせる。売春婦なんてみんな同じだ。バカばっかり。後先考えもしねぇで、クスリにがっつく。涎をたらして腰を振る。地獄を背にして浮かれて踊る。女の足首に触れるドレスの裾をまくろうとして、男は手首を掴まれる。なんだすきモンが、先にクスリかよと口元をにやけさせたまま仰のいた、額に。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「おとなしくしたほうが身の為ですよ。アメストリス国軍中尉、リザホークアイです。どうぞよろしく」
冷たい銃口は紛れもなく自らの額に押し当てられている。女は先ほどまでの口調とは打って変わり、背中に冷や水を浴びせられるような声音で男に対峙している。ぽかんと口を開けている間に、確かに鍵をかけたはずの背後の扉から一斉に銃を構えた兵士が押し入った。女はその間に、男の手首に手錠をかけ、視線をそらすことも許さずにまっすぐに男を射抜いている。少しでも動けば、女は本当に引き金をひくだろう。そういう目をしていた。人殺しの目だ。ベッドの周りを取り囲む兵士を分け入るようにして、一人の男がいやみたらしく拍手などしてみせながら、女に、リザ・ホークアイへと歩み寄る。
「いやあ、ご苦労だった中尉。今度、そういうドレスを一着君に送ろうか」
「・・・・・・・・・・私が適任だとは今も思いませんが」
眉一筋も動かさず、女は男に答えた。
「だが、君ほど銃器の扱いに慣れていて、尚且つ美貌の持ち主というと多くは無い。怯えもせずに麻薬の売人に手錠を掛けられる人間はな。ご苦労だった。だが信頼の証とおもって勘弁してくれないかね」
「ですが、このドレスと演技だけはもう金輪際お断りします」
「・・・・・・『アタイ』ね」
軍服の男は小さく吹いた。女、ホークアイの不穏な空気に、けれどすぐさま掌をあげて、降参の意思を見せる。
「失礼。本題に戻ろうか。さて、まず話しておきたいのは、」
「なんだよこれ!軍がなんで・・・・」
うろたえる男が言葉をさえぎるのに、軍服が手を振ってうるさそうに首をふった。目の前を飛び回る蝿でも追い払うように。
「それは君が麻薬の売人だからだ。それも今巷で出回る粗悪品のね」
うろたえた男を、静かに一喝して、男は自らもベッドに腰掛けた。ホークアイが銃口を男の額から引く。けれど照準は一寸たりとも歪められていない。背中につめたい汗が滴るのを覚えながら、男はなおも言い募る。
「売人?違う、これはさっきそこの通りで買ったんだ・・・!女が、女が、」
「それはおかしいな。中央駅前通りにある、君の小汚いネグラからまっすぐここに向かった君は、途中でパン一つを買い、齧りながら一度ゲロを吐いて、それからタバコを噛み、女を一人買い、商売品を売りつけようとしてここでこうして拘束されている。君のいう女性というのは見かけなかった。なあフュリー?」
「そうですね。失礼」
メガネの小柄な青年が、男のシャツの襟に手を伸ばす。服の裏地に縫い付けられていた小型の盗聴器を引きちぎり、男の目の前に差し出す。
「今から再生してもかまいませんが」
「結構。それから?何かいいわけがあれば聞くが」
「・・・・・・・・そんな・・・・オレは何もしらねえからな・・・!」
悲鳴のように喚く男の首を掌で優雅に捕まえ、そのままベッドに押し倒す。やわらかく、毛布を撫でるような仕草にもかかわらず、身動き一つ取れない。動脈を指で押さえつけられて、眩暈を覚える。
「それも結構。しゃべりたくなければ、喋らなければいい。男のおしゃべりは嫌われるからな」
男は軍服の懐から複雑な意匠の描かれた手袋を取り出した。トカゲだと、一瞬認識し、その手袋の意味を知らない男は、目の前の軍人が手袋を片手と唇で咥えて器用に嵌めるのをただ見ていた。
「これは特殊な繊維でできていてね。ボーイを呼ぶように簡単に指先を弾くだけで、お前を丸焦げにすることができる。だが安心したまえ。君も死ぬのは怖いだろう?お前の組織の生成した粗悪品の実験体になった娼婦たちほどには苦しまないように配慮しよう。皮膚一枚を満遍なくつま先から少しづつコンガリ焼いて、水を飲むことも食べることも眠ることも、息をするのすら苦痛だとお前は思うような目にあわせてやろう。殺してくれと哀願する力もなく、ゆっくりと爛れ腐った皮膚にハエがたかり生きながら蛆に食われ、体中から汁を垂れ流して、ゆっくりとゆっくりと時間を掛けて感染症で死ぬがいい。ああ、名乗るのが遅れたね。私は国軍大佐、ロイ・マスタングだ」
焔の大佐と異名をとる国家錬金術師の名はあまりに有名だった。そしてそれと同時に、男はロイの言葉が何一つ偽りが無いことを知る。
「・・・・・そんな・・・・お、おまえらこんなこと許されるわけねえだろ・・・!国軍が拷問なんかしていいのかよ?!」
喚いた男に同意を求められたフュリーはちらりとホークアイに視線を送る。銃口を一ミリも揺らさずに、ホークアイが答えた。
「拷問?そんな事実はありません。まあ、拘留中に、タバコの失火などで牢内で火がでることはまま、珍しいことではありませんが」
「そんな・・・・・・」
喚こうとした男の喉を、ロイがきつく握りつぶした。掌の下であえぐ男に、底冷えのするような威圧で、静かに恫喝する。
「貴様らの実験体となった娼婦が持ち帰った一錠の薬を、誤飲した少女が自らの腸をナイフで引きずり出した挙句、屋上から飛び降りた。腸を引きずりながら階段を上がるほどの苦痛はなかろうよ。少女の年は言うまい。これでも貴様を殺す衝動を堪えているのだからな。とんだオーバードーズだ。喋りたくなければ黙っているがいい。いいや、むしろ黙れ。お前を殺す口実ができるからな。あんなものを作った貴様らを必ず、一人残らず焼いてやろう。必ずだ」
「大佐、本当に死にます」
ホークアイの声が合図だった。ロイの指がゆっくりとはずれ、ベッドの上で男は顔を真っ赤にして咳き込む。臭気にフュリーが目をやると、男が失禁していた。
「さてどうする?喋るか、死ぬか」
にたりと笑う上司に、ホークアイすら背筋を寒くする。
「まず、何を作ったのかを教えてもらおうか?何を作った?何人で試した?生成方法と場所、その忌まわしい実験結果の資料の在り処も洗いざらいはいてもらうぞ」
ガン!と扉を蹴破るように入ってきた騒々しい足音に、ロイはいいところなのにとひそかに嘆息する。各部屋の探索を命じていたハボックだった。
「大佐」
「騒々しいぞ、ハボック」
「ちょっと」
ロイの耳元で、何かを囁くハボックの緊迫した雰囲気にホークアイ、フュリー、無線の向こうのブレダ、ファルマンも緊張する。能天気だがけして無能ではない同僚のことは、だれよりもチームである自分たちがわかっている。不吉な予感。ロイの険しく寄せられた眉もそれを物語る。
「・・・・・・ちょっと来い」
ロイが手錠ごと男を引きずる。ハボックが、だらしなく放心している男の体を軽く抱えて後に続く。廊下に出、右の突き当たりの部屋を目指して、誰もが沈黙していた。208と銘打たれた部屋は、やはりどこの部屋とも同じように陰惨で湿気に満ちたカビの匂いがした。
「・・・・・匂うな」
「デショ」
男をハボックに渡して、ロイは床に膝を着いた。埃と泥の上がる床に、ポツリと小さく赤い水玉が二つ。まだ乾いていないことを確かめて、立ち上がる。膝の泥を払い、肩越しに男を振り返る。男は怯えたように膝を揺らして、何度も首を振っている。
「・・・・滴下血痕ですね」
ホークアイが揺らぎもしない声音で呟いた。頷こうとして、ロイは眉を寄せた。
「・・・床の板の溝を見ろ」
「・・・・・・・・・・どうやら溝を拭くほどの余裕は無かったみたいっすね」
おそらく血、は溝に流れ込んでその隙間に染みこんでいる。その範囲の広さに、ホークアイの背中から室内を伺っていたフュリーが息を呑んだ。血はほとんど部屋の端から端まで染みこんでいる。この血の量では、血液の持ち主が生きていないだろうことは明白だった。ぐい、と顎でハボックに命じて、ロイは一歩下がる。使い慣れた銃のグリップを握り、ハボックがゆっくりとベッドカバーを手繰り、ベッド下を覗き込む。その背中がわずかに揺れて、いくばくかの逡巡を見せた。ハボックは銃を置き、右手をベッドの下に突っ込んで、あるものをつかんで引きずりだした。
「大佐、足です」
「・・・・みればわかる」
何か鋭利なもので切断されたのだろう、切断面がまるで人体模型のようだった。血で赤く汚れていなければ人形とも見まごう。いや、これが人形ならばどれだけよかっただろうか。フュリーはわずかに顔を背け、後ずさる。女のものだろう、白く華奢な足が一本、ハボックの手の中で冗談のように上を向いていた。
「さて」
ロイは、手錠に繋がれた、気を失う寸前の男に向けて凶悪に笑った。
「この死体との関係についても、詳しく話してもらおうか」
「オレはしらねえ・・っ」
「連れて行け」
両脇を抱えられて、男はずるずると引きずられていく。その背中を見送りながらホークアイはようやく銃口の先をおろした。
「あの男の組織が関係していると?」
「さあ。・・・・あの鋭利な切り口。あるいは巷で噂の殺人鬼か」
あんな顔で男を脅しつけておいて、はったりとは。この男の本性を良く知っているつもりだったホークアイも内心嘆息する。
「人が悪い」
「ははは、今更だろう」
「スライサー?」
ホークアイが口に出した、今東部を騒がせている殺人鬼の名を軍部で知らぬものはいない。知らず、フュリーは息を呑んで、もう一度ハボックの手の中の女の足へ上目遣いに視線をやった。
「あるいは、また違う誰かか。調べてみないとな。フュリー。この部屋をくまなく調べろ。ブレダ、ファルマンも取りあえずここへ来い。ハボック」
「イエッサ」
「他の部屋はもう探索済みか?」
「あーと、報告まちですが、大体終わってまっす」
「では中尉。私たちは帰ってあの貧弱な売人を締め上げようか」
少なくとも今の時点で、それが一番楽しい仕事に違いなく、サディスティックな上司の言い分に、ホークアイは顔色も変えずに頷いて見せた。
続